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断罪直前の悪役令嬢、領地の税帳を読み上げただけで王子派閥が崩壊しました  作者: 花守りつ


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九刻三分の帰着後扱いは、温石のそばの人を帰せません

九刻三分。

 ノラ・シェル帰着後、候補者支度再開。


 札の文字は、もう乾いていた。


 けれど、ノラ・シェルの靴先には、まだセリムの温石の湯気が触れている。抱えた布籠の縁には、支度室前の床砂がついたままだ。帰った人の籠に、ここの砂が残るはずがない。


「帰着後扱いです」


 マルク主任が、赤札の端を押さえた。


「支度進行上の仮時刻です。候補者様の清め布は、後ほどノラに帰着印を押させれば整います。晩餐会の時刻を止めるわけには――」


「帰着後、とは」


 エレノアは、欠けた薔薇略印から視線を戻した。


「紙の後ろへ人を置く言葉ではありませんわ。誰が、どこから、どの札を持って、どの足で戻ったか。それが揃って初めて、後になります」


 彼女は赤札の横へ青い欄を引く。


 ノラ・シェル本人帰着。

 布籠返却棚到着。

 温石共同使用終了。

 候補者清め布本人受領。

 支度再開可否。


 五つの欄は、どれも空いたままだった。


 ノラは布籠を抱え直した。泣きそうな顔ではない。寒さで赤くなった指で、青い保留紐を自分の名札へ通す。


「ノラ・シェル。布籠係。搬入口から、まだ帰着していません」


 声は小さい。けれど、最後まで切れなかった。


「候補者清め布、未渡し。温石、セリム・ランと共同使用中。帰っていない人の名前を、帰着後にしないでください」


 セリムが温石の貸与札を差し出した。


「半刻延長の札です。九刻三分の時点で、共同使用者欄にノラさんの名があります。帰着済みなら、この温石は誰の足元にあったことになるんですか」


 マルク主任の指が、赤札の上で止まる。


 イーダ・メルも銀盆を抱えたまま、一歩だけ前へ出た。水はまだ揺れている。


「飲み水係イーダ・メル。九刻三分時点、候補者水未受領。ノラ・シェル帰着確認、未見」


 前話で守った一杯の水は、同じ報酬を繰り返すためではなく、時刻が人を追い越した証人になった。


 ミリア様は椅子に座らないまま、青欄の下へ自分の名を書いた。


「候補者ミリア。ノラ・シェル本人帰着確認前、候補者支度再開を承認しません。清め布未受領。支度係印時刻への編入を拒みます」


 その一行で、支度室前の空気が少し変わった。


 候補者が自分のために急がせるのではなく、帰っていない布籠係の足を先に残したからだ。


「赤札は破りません」


 エレノアは言った。


「破れば、九刻三分に誰が何を済ませたことにしたのかも消えます。保全します。けれど効力は止めます」


 青欄に、彼女は続ける。


 九刻三分札、保全。

 本人帰着前につき、帰着後扱い不可。

 清め布本人受領まで、候補者支度再開保留。

 温石共同使用、勤務中扱いで継続。


 ノラの肩から、布籠の重さが少しだけ下りた。返却棚へ急かされない。夜道へ一人で戻されたことにもならない。温石のそばにいる人が、紙の上で先に帰されなかった。


 大きな断罪ではない。


 九刻三分という小さな時刻に、まだここにいる足音を戻しただけだ。


 だが、青欄を閉じようとしたエレノアの指が、赤札の下の細い追記で止まった。


 披露責任者確認、九刻四分予定。

 候補者本人読了声、支度室内にて後刻補完済みに編入。


 ミリア様は、まだ支度室の中へ入っていない。


 それなのに次の一分は、もう彼女の声を室内で聞いたことにしようとしていた。

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