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断罪直前の悪役令嬢、領地の税帳を読み上げただけで王子派閥が崩壊しました  作者: 花守りつ


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24/50

代理読了済みは、支度室前の水を空杯にできません

薔薇略印の封筒は、聖女院搬入口の灯りの下で、きれいすぎる言葉だけを並べていた。


 披露責任者、代理読了済。

 候補者本人声、後刻補完。


 マルク主任は、そこを指で押さえた。


「候補者様の声は後ほど補えます。支度室前はもう準備済みです。椅子も、飲み水も、清め布も、披露責任者の代理読了で進められます」


「では、進められるものを見ますわ」


 エレノアは封筒をその場で開かなかった。


 紙の中で済んだことにされた手順は、必ずどこかで人の足を止めている。だから彼女は、封筒机ではなく、聖女院支度室前の椅子列へ歩いた。


 扉の前には、白い椅子が三脚並んでいる。一脚だけが、候補者席として斜めに引かれていた。銀盆には水の杯が一つ、まだ表面を揺らしている。ノラ・シェルの布籠は搬入口の端に置かれ、青い保留紐とセリムの温石の湯気が、その横で小さく残っていた。


 けれど椅子の札には、もう赤い文字が入っている。


 候補者着座済。

 飲み水支給済。

 清め布使用後返却済。


「私は、まだ座っていません」


 ミリア様が、椅子の前で足を止めた。


 前の声より、少しだけ強い。自分が読んでいないと訴える声ではなく、自分の名で、そこにあるものを動かさないための声だった。


「この椅子を片づけないでください。私が座ったことにしないでください」


 支度室の脇で、銀盆を抱えていた若い支度係が肩を震わせた。盆の水が、灯りを細く割る。


 エレノアはその子へ向き直る。


「お名前を」


「イーダ・メルです。支度室前の飲み水係です」


「その杯は、候補者様へ渡しましたか」


 イーダは喉を鳴らした。マルク主任の視線が刺さる。けれどミリア様が、椅子に座らないまま、銀盆の横へ手燭を寄せた。


「あなたの名で、言ってください。私が飲んだことにされる前に」


「……渡していません。候補者様は、まだこの杯を受け取っていません」


 イーダはそう言って、盆を抱え直した。


「でも、支給済み札がつくと、空杯として洗い場へ戻せと言われます。戻せば、私は候補者様に水を出した係になります。出していない水の空杯を、私の仕事にされます」


 エレノアは、椅子札の横に青い欄を作った。


 披露責任者。

 代理読了。

 候補者本人声。

 それらの下に、生活手順を一つずつ落とす。


 椅子――本人着座。

 水――本人受領。

 布――本人受取。

 係――本人名で未了を言えること。


「披露責任者とは、封筒を先に帰す人ではありませんわ」


 エレノアは青筆を止めずに言った。


「椅子に座る人、水を飲む人、布を受け取る人を、順番どおり残す人です。代理で読んだなら、何を読んだのか。誰に読ませたのか。誰の未渡しを消すのか。それを書けない代理読了で、杯を空にしてはいけません」


「しかし、晩餐前の支度が遅れます」


 マルク主任が低く言う。


「候補者様の本人声は後刻補完できる。支度係の未渡しなど、後で整えれば――」


「後ではだめです」


 ミリア様が、今度はイーダの銀盆へ手を添えた。水には触れない。飲んだことにも、受け取ったことにもならない距離で止める。


「候補者ミリア。本人声後刻補完により、椅子、飲み水、清め布を使用済みにしない。支度係本人の未渡し欄を残す」


 彼女は、エレノアの作った青欄へ自分の名を書いた。


 その一行で、イーダの肩から少し力が抜けた。


「では、私も……書いていいですか」


「ええ。空杯ではなく、未渡しの杯として」


 イーダは震える字で続けた。


 イーダ・メル。

 飲み水一杯、候補者本人未受領。

 空杯処理せず。洗い場返却、保留。


 銀盆の上の水は、まだ誰にも飲まれていない。


 ただそれだけのことが、そこで初めて守られた。


 ノラが布籠を抱え直し、小さく息を吐いた。


「椅子が残るなら、布籠も戻さなくていいんですね。候補者様がまだここに来ていないなら、清め布を返却済みにできないから」


「ええ」


 エレノアは、ノラの青い保留紐を見た。


「ノラさんの待機も、温石の共同使用も、まだ生きています。封筒だけ帰ってきても、人と物が帰っていなければ、支度は済みません」


 セリムが、温石の布を椅子列の足元へ少し寄せた。


「イーダさんの足元にも、半刻だけ置けますか。水係が洗い場へ戻らないなら、ここは冷えるので」


 夜番が木札を足した。


 温石一個、支度室前へ半刻延長。

 セリム・ラン貸与中。

 ノラ・シェル、イーダ・メル共同使用。

 候補者ミリア見届け。


 大きな断罪ではない。


 一脚の椅子が片づけられず、一杯の水が空杯にされず、一つの布籠が返却棚へ戻されなかっただけだ。


 けれど、代理読了済みの封筒より後ろへ押し出されていた人の手順が、名前つきで支度室前に戻った。


 エレノアは、赤い支給済札を消さずに裏返した。そこに押された薔薇略印の角を見て、指を止める。


 印の右下が、ほんの少し欠けていた。


 前の封筒と同じ欠け方。リオネル様の机印と似すぎている、あの薔薇の角。


 だが、エレノアが見たのは犯人の名ではない。札の時刻だった。


 九刻三分。

 ノラ・シェル帰着後、候補者支度再開。


 ノラは、まだ温石のそばにいる。


 けれど札の上では、彼女はもう帰った後の人にされていた。

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