代理読了済みは、支度室前の水を空杯にできません
薔薇略印の封筒は、聖女院搬入口の灯りの下で、きれいすぎる言葉だけを並べていた。
披露責任者、代理読了済。
候補者本人声、後刻補完。
マルク主任は、そこを指で押さえた。
「候補者様の声は後ほど補えます。支度室前はもう準備済みです。椅子も、飲み水も、清め布も、披露責任者の代理読了で進められます」
「では、進められるものを見ますわ」
エレノアは封筒をその場で開かなかった。
紙の中で済んだことにされた手順は、必ずどこかで人の足を止めている。だから彼女は、封筒机ではなく、聖女院支度室前の椅子列へ歩いた。
扉の前には、白い椅子が三脚並んでいる。一脚だけが、候補者席として斜めに引かれていた。銀盆には水の杯が一つ、まだ表面を揺らしている。ノラ・シェルの布籠は搬入口の端に置かれ、青い保留紐とセリムの温石の湯気が、その横で小さく残っていた。
けれど椅子の札には、もう赤い文字が入っている。
候補者着座済。
飲み水支給済。
清め布使用後返却済。
「私は、まだ座っていません」
ミリア様が、椅子の前で足を止めた。
前の声より、少しだけ強い。自分が読んでいないと訴える声ではなく、自分の名で、そこにあるものを動かさないための声だった。
「この椅子を片づけないでください。私が座ったことにしないでください」
支度室の脇で、銀盆を抱えていた若い支度係が肩を震わせた。盆の水が、灯りを細く割る。
エレノアはその子へ向き直る。
「お名前を」
「イーダ・メルです。支度室前の飲み水係です」
「その杯は、候補者様へ渡しましたか」
イーダは喉を鳴らした。マルク主任の視線が刺さる。けれどミリア様が、椅子に座らないまま、銀盆の横へ手燭を寄せた。
「あなたの名で、言ってください。私が飲んだことにされる前に」
「……渡していません。候補者様は、まだこの杯を受け取っていません」
イーダはそう言って、盆を抱え直した。
「でも、支給済み札がつくと、空杯として洗い場へ戻せと言われます。戻せば、私は候補者様に水を出した係になります。出していない水の空杯を、私の仕事にされます」
エレノアは、椅子札の横に青い欄を作った。
披露責任者。
代理読了。
候補者本人声。
それらの下に、生活手順を一つずつ落とす。
椅子――本人着座。
水――本人受領。
布――本人受取。
係――本人名で未了を言えること。
「披露責任者とは、封筒を先に帰す人ではありませんわ」
エレノアは青筆を止めずに言った。
「椅子に座る人、水を飲む人、布を受け取る人を、順番どおり残す人です。代理で読んだなら、何を読んだのか。誰に読ませたのか。誰の未渡しを消すのか。それを書けない代理読了で、杯を空にしてはいけません」
「しかし、晩餐前の支度が遅れます」
マルク主任が低く言う。
「候補者様の本人声は後刻補完できる。支度係の未渡しなど、後で整えれば――」
「後ではだめです」
ミリア様が、今度はイーダの銀盆へ手を添えた。水には触れない。飲んだことにも、受け取ったことにもならない距離で止める。
「候補者ミリア。本人声後刻補完により、椅子、飲み水、清め布を使用済みにしない。支度係本人の未渡し欄を残す」
彼女は、エレノアの作った青欄へ自分の名を書いた。
その一行で、イーダの肩から少し力が抜けた。
「では、私も……書いていいですか」
「ええ。空杯ではなく、未渡しの杯として」
イーダは震える字で続けた。
イーダ・メル。
飲み水一杯、候補者本人未受領。
空杯処理せず。洗い場返却、保留。
銀盆の上の水は、まだ誰にも飲まれていない。
ただそれだけのことが、そこで初めて守られた。
ノラが布籠を抱え直し、小さく息を吐いた。
「椅子が残るなら、布籠も戻さなくていいんですね。候補者様がまだここに来ていないなら、清め布を返却済みにできないから」
「ええ」
エレノアは、ノラの青い保留紐を見た。
「ノラさんの待機も、温石の共同使用も、まだ生きています。封筒だけ帰ってきても、人と物が帰っていなければ、支度は済みません」
セリムが、温石の布を椅子列の足元へ少し寄せた。
「イーダさんの足元にも、半刻だけ置けますか。水係が洗い場へ戻らないなら、ここは冷えるので」
夜番が木札を足した。
温石一個、支度室前へ半刻延長。
セリム・ラン貸与中。
ノラ・シェル、イーダ・メル共同使用。
候補者ミリア見届け。
大きな断罪ではない。
一脚の椅子が片づけられず、一杯の水が空杯にされず、一つの布籠が返却棚へ戻されなかっただけだ。
けれど、代理読了済みの封筒より後ろへ押し出されていた人の手順が、名前つきで支度室前に戻った。
エレノアは、赤い支給済札を消さずに裏返した。そこに押された薔薇略印の角を見て、指を止める。
印の右下が、ほんの少し欠けていた。
前の封筒と同じ欠け方。リオネル様の机印と似すぎている、あの薔薇の角。
だが、エレノアが見たのは犯人の名ではない。札の時刻だった。
九刻三分。
ノラ・シェル帰着後、候補者支度再開。
ノラは、まだ温石のそばにいる。
けれど札の上では、彼女はもう帰った後の人にされていた。




