候補者読了帰着は、内覧済の赤印だけでは戻りません
荷馬溜まりの赤印台帳を見たリーネは、指先を紙から離せなかった。
候補者読了帰着、王子府内覧済。
閲覧席、翻訳補助席・臨時閲覧者。
その横に、灰色封じと同じ時刻の赤印がある。セリムの帰着札を閉じた印と、まったく同じ欠け方だった。
「候補者読了帰着、とは何ですか」
ミリア様の声は静かだった。怒鳴らない分だけ、荷馬溜まりの夜番たちが息をひそめる。
マルク主任は台帳を閉じようとした。
「候補者様が翻訳補助席で内覧された、という記録です。披露進行には必要な処理で――」
「内覧した覚えはありません」
ミリア様は、すぐにそう言った。前なら兄の名や王子府の名を気にして、黙っていたかもしれない。けれど今は、セリムの靴に入った温石が、まだ湯気を出している。
誰かの帰着を、知らないうちに自分の欄へ入れられる怖さを、彼女はもう見ていた。
エレノアは台帳を奪わない。赤印を消さないまま、隣に青い線を引いた。
「読了帰着を、四つに分けますわ。どの席で読んだか。誰が声を聞いたか。読んだあと、候補者本人がどこへ戻ったか。戻るまでに、誰の生活手順を閉じたことにされたか」
補佐官が青筆で欄を作る。
閲覧席。
本人の声。
帰着先。
閉じられた生活。
リーネが、震えながら二枚目の控えを差し出した。
「翻訳補助席の臨時閲覧者は、私の席です。候補者様は……そこには座っていません」
マルク主任が鋭く振り返る。
「リーネ。記録上は、候補者控えを補助席で整えた」
「整えました。でも、読んだのは私です。候補者様の声は聞いていません」
その一言で、ミリア様の肩が小さく揺れた。
罪を押しつける言葉ではない。
読んでいない人を読了済みにしないための、読んだ人の声だった。
エレノアはリーネの前へ、青い小札を置いた。
「では、あなたの名で書けますか。候補者様になり代わった犯人としてではなく、あなたが読んだ場所と、聞けなかった声を残すために」
リーネはうなずき、寒さで赤くなった指で筆を取った。
リーネ・オル。
王子府翻訳整理室補助。
翻訳補助席で候補者控えを整理。
候補者ミリア本人の声、未確認。
読了帰着先、未記入。
ミリア様が、その横へ手燭を近づけた。
「私も書きます」
マルク主任が一歩前へ出る。
「候補者様。ここで未読と書けば、披露責任者欄が止まります。王子殿下の晩餐前確認にも遅れが――」
「遅れてください」
ミリア様は、初めてマルク主任の目をまっすぐ見た。
「私が読んでいないものを、読了済みにして進める晩餐なら、遅れてください。セリムさんの帰着も、薬売りの返答も、私の内覧済で閉じさせません」
彼女は青い欄へ一行ずつ書いた。
候補者ミリア。
翻訳補助席での読了なし。
本人声確認、未了。
帰着先、候補者控室ではなく荷馬溜まり見届け中。
荷馬溜まりの夜番が、ほっと息を吐いた。大きな勝利ではない。けれど「内覧済」の赤い一語で、そこにいた人たちの足音まで消されるのを止めた音だった。
セリムが温石を抱えたまま、ぽつりと言った。
「じゃあ、ミリア様がここにいたって、書いてもいいですか。候補者控室に戻ったことになってると、俺の温石貸与の見届け人がいなくなるので」
「もちろん」
ミリア様は、彼の木札にも小さく添え書きした。
セリム・ラン温石貸与、候補者ミリア荷馬溜まり同席確認。
内覧済欄への編入不可。
温石貸与棚の夜番が、その札を見て頷いた。
「これで、明朝返却まで貸与できます。見届け人が候補者控室へ戻った扱いでは、棚の責任が空きますから」
同じ一行が、誰かの足を温める時間を守った。
エレノアは、赤印台帳の写しを封じず、青い保留紐で台帳ごとくくった。
候補者読了帰着、保全。
本人未読、本人声未確認。
翻訳補助リーネ読了場所、分離。
荷馬溜まり見届け、未帰着扱いに戻す。
マルク主任の顔色が、ようやく変わった。
「それを保全すれば、披露責任者の承認欄まで再確認になる」
「ええ」
エレノアは赤印の欠けた花弁を見た。
「再確認しましょう。誰が、候補者様の読んでいない声を、内覧済の赤印へ帰着させたのか」
その時、荷馬溜まりの奥の戸が乱暴に開いた。
王子府の侍従が、息を切らして立っている。
「候補者様をお戻しください。聖女院搬入口から、披露責任者控えが届きました。候補者様の同席確認は、すでに内覧済として――」
そこで侍従は、青い保留紐の台帳と、まだ荷馬溜まりに立つミリア様を見た。
届いたはずの内覧済は、本人より先に、聖女院の搬入口から帰ってきていた。




