返答不要印は、誰の帰着を消しましたか
荷馬溜まりの帰着札置き場は、翻訳整理室よりずっと寒かった。
石壁の横に、濡れた外套を掛ける低い棚がある。棚の下には、伝達係が戻った時刻を書く木札が吊られていた。誰が外へ出たか。何を持って帰ったか。靴を乾かす温石を受けたか。帰りの手当を精算したか。
その一番端で、灰色の封じ紐を巻かれた札だけが、裏返しにされていた。
外門伝達係セリム・ラン。
帰着確認、不要。
返答不要印により処理済み。
エレノアは、指先で封じ紐に触れた。
「返答を不要にしただけでは、帰ってきた人まで不要にはできませんわ」
マルク主任は、整理室から追ってきたまま、革手袋を外そうともしない。
「伝達係は既に戻っている。帰着確認など、披露進行に必要ない細目です」
「必要です」
セリムが小さく言った。
少年の靴の縁には、凍った泥が白く残っている。さっき第三箱の温め順を届けたばかりの足だ。けれど帰着札が閉じられているせいで、彼の再搬送手当は未精算欄にも載っていなかった。温石貸与棚の前に立つ夜番も、彼へ渡していい札を見つけられずにいた。
「戻ったって、書けてません。だから、次の伝達に回されるところでした。足が冷えてるのに」
荷馬溜まりの夜番が、視線を落とした。
「札が閉じていたら、温石は出せません。外門から戻った本人か、次便待機者かが分からないので」
エレノアは、灰色の紐を切らずに、青い保留紐をその横へ結んだ。
閉じられた証拠は残す。
閉じられていない生活だけ、先に戻す。
「セリムさん。あなたの手で、戻った時刻を書けますか」
少年は一度、マルク主任を見た。主任は黙ったまま、赤印のある台帳を胸に抱えている。
ミリア様が、手燭を木札へ近づけた。
「私が見届けます。候補者披露のために走らせた人が、帰ったことも、温める必要があることも、私の欄へ吸わせません」
セリムは濡れた指を袖で拭き、木札の裏へ震える字を書いた。
セリム・ラン、荷馬溜まり帰着。
第三箱温め順、届け済み。
再搬送手当、未精算。
温石一個、足指の冷え処置として要。
夜番が小さく息を吐き、銅貨の小袋と、布に包んだ温石を持ってきた。
「半刻分の再搬送手当です。温石は荷馬溜まり夜番用貸与、明朝返却で構いません」
セリムは銅貨袋を受け取ると、すぐ懐に入れず、木札の隣へ置いた。
「受け取りましたって、書いてからにします。俺がもらったことにしないと、また誰かの披露進行に混ざるから」
リーネが、前話で自分の手で書き直した薬売りの返答控えを抱え直した。もう全文を書き直すためではない。彼女は赤印台帳を開き、時刻欄へ指を置いた。
「返答不要印は、セリムさんが戻る一刻前に押されています」
マルク主任の肩が動いた。
「定型の先行押印です。あとで不要になる返答を、先に整理するための――」
「帰着札の灰色封じも、同じ時刻です」
リーネの声は震えていた。けれど、今度は最後まで読んだ。
「返答があるかどうかを確認する前に、返ってくる人の札まで閉じています。これは、返答不要ではなく、帰着不要です」
荷馬溜まりにいた者たちが、寒さとは別の理由で黙った。
帰着不要。
その二文字は、薬の順番よりも、披露の時間よりも、ずっと粗い。人が戻ったかどうかを見ずに、仕事だけを済ませたことにする言葉だった。
エレノアは、赤印を消さないまま、隣に青い欄を作った。
返答不要印、保全。
セリム・ラン帰着札、本人記入により再開。
再搬送手当、銅貨袋一つ支給。
温石一個、夜番貸与。
第三箱温め順、使用可能温度確認まで未完了。
ミリア様が、その下へ一行を書いた。
候補者ミリア、セリム・ラン本人帰着を未確認のまま内覧済へ編入することを拒む。
マルク主任が低く言った。
「候補者が、伝達係の帰着へ口を出す権限はありません」
「権限ではありません」
ミリア様は、手燭の火を揺らさずに答えた。
「私の読了欄や披露欄に、誰かの帰着を混ぜないための、見届けです」
セリムが温石を布ごと靴の中へ入れると、白かった唇に少しだけ色が戻った。銅貨袋の紐には、夜番が小さな紙札を結ぶ。
外門再搬送、本人帰着後支給済み。
それは大きな断罪ではない。
ただ、戻ってきた少年が、戻ってきたと数え直された音だった。
その時、リーネが赤印台帳の次の頁で手を止めた。
同じ灰色封じの写しが、もう一枚ある。
候補者読了帰着、王子府内覧済。
閲覧席、翻訳補助席・臨時閲覧者。
候補者本人の声も、帰着札も、まだ誰の目に戻ったのか書かれていない。
それなのに内覧済の欄だけが、セリムの札と同じ赤で、先に押されていた。




