翻訳整理室の処理済みは、外門の返事を閉じません
翻訳整理室は、王子府の奥にある小さな部屋だった。
壁には各国語の辞書が並び、机には封蝋と写し紙が整然と積まれている。きれいな部屋だ。けれど、外門から戻ったばかりのセリムの靴底だけが、石畳の雪泥を落としていた。
外門伝達係、処理済み。
代読者名、後日補完。
責任部署、王子府翻訳整理室。
エレノアは、その札を机の中央へ置いた。
「処理済み、という言葉だけでは、外門の返事は帰ってきませんわ」
翻訳整理室の主任は、薄い銀縁眼鏡を直した。名前札には、マルク・ベネットとある。
「伝達係は外門へ行ったのでしょう。薬売りも受領した。ならば、処理済みで問題ありません」
「受領したのは、こちらから遅れた理由と、凍傷薬二瓶の使用可能時刻です」
エレノアは、外門で薬売りが書いた小さな返答札を広げた。
第二箱、四刻半まで待機可。
小橇犬、風除け内へ移動済み。
第三箱の温め順、未回答。
返答先、翻訳整理室ではなく荷馬溜まり。
最後の一行で、マルク主任の眉がわずかに動いた。
「薬売りの返答先など、後で写せばよい。披露進行表を優先するのが整理室の役目です」
「いいえ」
ミリア様が、手燭を胸の前に持ったまま言った。
外門の風で頬は赤くなっている。候補者の薄い室内靴は雪を含み、裾には泥が跳ねていた。それでも彼女は、もう自分の名で誰かを待たせたことから目を逸らさない。
「私の披露進行表より先に、薬売りの返答が荷馬溜まりへ戻らなければ、第三箱を温める人が順番を間違えます」
マルク主任は、候補者へ向ける声だけを柔らかくした。
「ミリア様。候補者が現場返答の細部まで背負う必要はありません。整理室が適切な語へまとめます」
「まとめる、ではなく、消えますわ」
エレノアは机に四つの欄を引いた。
誰が声を返したか。
誰が返事を受けるか。
返事で何が動くか。
動いたあと、誰の生活が到着するか。
「翻訳とは、きれいな語に替えることではありません。相手が返した声を、必要な場所へ戻す責任です」
セリムが小さくうなずいた。
「薬売りの爺さんは、第三箱は火鉢に近づけすぎるなって言いました。二瓶ずつ、布の間で息を入れ替えろって。……でも、その返答札を私がここへ渡したら、荷馬溜まりのユアン様には届きません」
ユアンは、腕を組んだまま短く答えた。
「届かなければ、第三箱は温めすぎる。薬が水になる」
補佐官が、青い筆を取った。
「では、外門伝達は処理済みではなく、返答未帰着とします」
「待ちなさい」
マルク主任の声が固くなった。
「整理室の処理済みを未帰着へ戻せば、王子府の披露時刻が遅れる。候補者支度費の翻訳欄も、再確認になる」
「再確認で済むなら、まだ幸いですわ」
エレノアは、マルク主任の机の右端を見た。
そこには、封筒が三つ置かれている。
北方冬越し薬草酒。
候補者支度費。
式典披露進行。
どの封筒にも、同じ小さな赤印が押されていた。
返答不要。
「この赤印は、誰の返事を不要にしましたか」
マルク主任は答えなかった。
代わりに、窓際にいた若い翻訳補助が肩を震わせた。ペン先に乾いた赤インクが残っている。胸の札には、リーネとある。
「私は……返答不要の定型を押しただけです」
マルク主任が鋭く振り返る。
「リーネ」
「薬売りの返答は、専門語が多くて、披露進行には要約で足りると教わりました。『第三箱は現場判断』にまとめれば、候補者様の読了欄へ入れられると」
ミリア様が、息を止めた。
第三箱は、まだ荷馬溜まりにある。温めすぎれば効き目を失う薬を、誰かの「現場判断」というきれいな語が、返答なしで動かそうとしていた。
「リーネさん」
エレノアは、責める声を使わなかった。
「あなたは、薬売りの返答を読めましたか」
「読めました。でも、全部は写していません」
「なぜですか」
「返答不要印が先に……押されていたからです。返答があると、処理済みが閉じられないと」
エレノアは、赤印を消さない。
青い保留札を、その横へ置いた。
返答不要印、保全。
薬売り返答、未帰着。
第三箱温め順、荷馬溜まりへ未達。
翻訳補助リーネ、全文読了・未写し確認。
「リーネさん。あなたの名で、まだ写していない返答を書けますか。失敗を押しつけるためではありません。あなたが読んだ声を、あなたの手で戻せるようにするためです」
リーネはペンを握り直した。
第三箱は、火鉢から手のひら二枚分離す。
瓶は横に寝かせず、布で包んで立てる。
薬が白から半透明へ変わったら、雪水で冷やさない。
最初に塗るのは、指先が黒くなっていない橋番。
返答先、荷馬溜まりの火鉢係。
書き終わる前に、セリムがその控えを二枚に写した。
「一枚、私が走ります」
「半刻分の外門伝達手当は、もう仮払いにしてある」
補佐官が言うと、少年は初めて少しだけ笑った。
「じゃあ、今度は返事を持って帰る分も、未払いにしないでください」
小さな声だった。
けれど、整理室のきれいな床の上で、誰かの働いた時間が初めて名前を持った。
ミリア様が、リーネの書いた返答札へ自分の手燭を近づける。
「私も、一行を読みます」
マルク主任が止めようとした。
「候補者が翻訳補助の控えに署名する必要は――」
「必要があります」
ミリア様は、今度は迷わなかった。
「私の披露のために返答不要にされた声です。少なくとも、返答があると知った候補者として、荷馬溜まりへ戻るまで見届けます」
彼女は署名しない。
代わりに、欄外へこう書いた。
候補者ミリア、返答存在確認。
本人読了欄への編入不可。
荷馬溜まり到着後、再読。
署名ではなく、まだ閉じないための見届けだった。
セリムが走り出す。廊下の向こうで、泥のついた靴音が遠ざかった。
少しして、窓の外から荷馬溜まりの鐘が一つ鳴る。
第三箱、温め順受領。
リーネの肩から、力が抜けた。
「返事が、着いた……」
「ええ」
エレノアは青札に、その時刻を加えた。
処理済みではない。
返答帰着。
第三箱、使用可能温度確認へ。
外門の返事が、ようやく荷馬溜まりへ帰った。
だが、マルク主任の机の一番下の引き出しから、補佐官が封の違う控えを見つけた。
赤い返答不要印の台帳。
押印者欄、王子府翻訳整理室主任。
承認欄、候補者披露責任者。
その責任者名は、まだ空白だった。
空白の横にだけ、リオネルの薔薇略印と同じ欠けた花弁が、薄く残っていた。




