代読者名空白は、返せなかった声を犯人名で埋めません
代読者名、空白。
その四角を見た瞬間、王子府の使者は勝ち誇ったように言った。
「空白なら、後で担当者を補えば済む。翻訳者欄の体裁だけ整えれば、候補者披露には間に合う」
ミリア様の指が、青い保留札の端を握りしめる。自分の読了欄を守ったばかりの手が、今度は誰かの名を求められていた。
エレノアはすぐに犯人名を書かなかった。
空白欄へ名前を入れることは簡単だ。けれど、その名前が誰の声を返すためのものか分からないまま埋めれば、また一つの生活が「確認済み」にされる。
「代読者名は、犯人欄ではありませんわ」
彼女は革箱の底板を台へ固定し、白い紙を三つ並べた。
一枚目は、ミリア様の読了欄。
二枚目は、凍傷薬箱の使用可能温度確認札。
三枚目は、北方第三見張り小屋から戻った声届き控え。
ユアンが眉を動かした。
「声届き控え?」
「前回、ノラ・ウェルが火鉢の前で名を書いた控えです。誰が読んだかではなく、誰へ声を返せたかを残すための欄ですわ」
補佐官が新しい表を引く。
読む人。
聞き返せる相手。
返すべき声。
返った時刻。
まだ返っていない理由。
王子府の使者が机を叩いた。
「余計な欄を増やすな。代読者が空白なら、候補者本人が読んだ扱いに戻せばよい」
「戻せません」
ミリア様が、今度はエレノアより先に言った。
声はまだ細い。けれど、青札の上から逃げなかった。
「私は読んでいない欄を、兄のためにも、王子府のためにも読みません。けれど、誰か一人を空白へ押し込んで終わりにもしたくありません」
その言葉で、革箱の横に立っていた小姓が顔を上げた。
式典倉庫から火鉢へ箱を運んだ少年だ。名札には、薄い墨で「セリム」とだけ書かれている。彼はミリア様を見て、すぐ視線を落とした。
「……私は、読めませんでした」
使者が振り返る。
「余計なことを言うな」
「余計ではありませんわ」
エレノアは小姓の前へ、半歩だけ表を寄せた。
「あなたは、何を運びましたか」
「革箱です。候補者控室から荷馬溜まりへ。底板の紙は、見ないようにと言われました」
「誰へ声を返す役でしたか」
「……第二見張り小屋の薬売りへ。箱が温まったら、次の二瓶を小橇へ載せると伝えるように」
ユアンが凍傷薬の控え札をめくった。そこには、同じ時刻の小さな印がある。
四刻前、伝達済み。
けれど、セリムは首を振った。
「まだ伝えていません。王子府の使者様が、披露の書式を先に戻せと。薬売りは外門で待っています。寒いので、小橇の犬を抱いて」
場が静かになった。
代読者名空白は、犯人の空白ではなかった。
返せなかった声が、寒い外門に一つ置き去りにされている空白だった。
「補佐官殿」
エレノアは表の三行目を指した。
「代読者名欄を、いま埋めないでください。代わりに、声届き未了欄を立てます」
補佐官の筆が走る。
代読者名、未記入のまま保全。
声届き先、第二見張り小屋薬売り。
伝達内容、凍傷薬二瓶の使用可能時刻。
現状、未伝達。
理由、披露書式返送優先により停止。
王子府の使者が青ざめた。
「それでは、私が止めたように見える」
「止めましたでしょう」
ユアンは薬瓶を布へ包み直した。
「薬が塗れる時刻を待つ人に、声が届いていない。代読者名より先に、伝達を返す」
エレノアはセリムへ小さな青札を渡した。
「あなたの名で、未伝達を記録できますか。責任を押しつけるためではありません。あなたがまだ声を返せていないと、あなた自身が言えるようにするためです」
少年は震える手で筆を取った。
セリム・ラン。
革箱運搬係。
第二見張り小屋薬売りへの声届き、未了。
外門へ向かう許可を求める。
書き終えた瞬間、ミリア様が自分の手燭を持ち上げた。
「私も行きます」
使者が息をのむ。
「候補者が外門へ出るなど――」
「候補者披露の前に、候補者の名で止められた声を返します」
ミリア様は、エレノアの方を見た。
「私の読了欄を守っていただいたから、今度は、私の名が止めたことにされる声を、私の足で返したい」
それは告発ではなかった。
自分の名が誰かの寒さを長引かせていると知った人が、その名を生活へ返すための一歩だった。
外門では、薬売りの小橇がまだ灯の下にあった。犬が丸まり、薬売りの老人は手袋の指先を口元で温めている。
セリムが駆け寄り、息を切らして札を差し出した。
「遅れました。第二箱は火鉢前で使用可能温度確認待ち。二瓶は四刻半までに小橇へ。第三箱は温めずに済印を押しません」
老人の顔に、ほんの少し血の色が戻った。
「助かった。待つ理由が分かれば、犬を休ませる場所を選べる」
ユアンが門番へ指示し、小橇を風除けの内側へ入れた。薪を一束、火鉢へ足す。セリムの半刻分の外門伝達手当も、補佐官がその場で仮払い札にした。
小さな報酬だった。
けれど、読まれていない紙より先に、返されていない声が一つ帰った。
ミリア様は薬売りへ頭を下げた。
「私の名で、あなたを待たせました」
「お嬢様の名で待ったのではありません」
老人は青札を見た。
「誰も声を返してくれなかったから、待っただけです。今は、誰の声で待てばよいか分かりました」
エレノアは革箱の底板から、代読者名空白の控えを剥がさず写し取った。
空白は埋めない。
代わりに、その横へ新しい青い行を置く。
声届き未了から、外門到達確認へ。
セリム本人署名済み。
薬売り本人受領、四刻前半。
候補者ミリア、同席確認。
そのとき、王子府の使者の袖から、もう一枚の薄い札が落ちた。
式典披露進行表。
外門伝達係、処理済み。
代読者名、後日補完。
責任部署、王子府翻訳整理室。
エレノアは札を拾わず、床の上で角度だけを読んだ。
翻訳整理室。
補完命令翻訳者の名ではなく、声を返すべき部署の名が、ようやく生活の方へ顔を出した。




