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断罪直前の悪役令嬢、領地の税帳を読み上げただけで王子派閥が崩壊しました  作者: 花守りつ


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19/50

代読者名空白は、返せなかった声を犯人名で埋めません

代読者名、空白。


 その四角を見た瞬間、王子府の使者は勝ち誇ったように言った。


「空白なら、後で担当者を補えば済む。翻訳者欄の体裁だけ整えれば、候補者披露には間に合う」


 ミリア様の指が、青い保留札の端を握りしめる。自分の読了欄を守ったばかりの手が、今度は誰かの名を求められていた。


 エレノアはすぐに犯人名を書かなかった。


 空白欄へ名前を入れることは簡単だ。けれど、その名前が誰の声を返すためのものか分からないまま埋めれば、また一つの生活が「確認済み」にされる。


「代読者名は、犯人欄ではありませんわ」


 彼女は革箱の底板を台へ固定し、白い紙を三つ並べた。


 一枚目は、ミリア様の読了欄。

 二枚目は、凍傷薬箱の使用可能温度確認札。

 三枚目は、北方第三見張り小屋から戻った声届き控え。


 ユアンが眉を動かした。


「声届き控え?」


「前回、ノラ・ウェルが火鉢の前で名を書いた控えです。誰が読んだかではなく、誰へ声を返せたかを残すための欄ですわ」


 補佐官が新しい表を引く。


 読む人。

 聞き返せる相手。

 返すべき声。

 返った時刻。

 まだ返っていない理由。


 王子府の使者が机を叩いた。


「余計な欄を増やすな。代読者が空白なら、候補者本人が読んだ扱いに戻せばよい」


「戻せません」


 ミリア様が、今度はエレノアより先に言った。


 声はまだ細い。けれど、青札の上から逃げなかった。


「私は読んでいない欄を、兄のためにも、王子府のためにも読みません。けれど、誰か一人を空白へ押し込んで終わりにもしたくありません」


 その言葉で、革箱の横に立っていた小姓が顔を上げた。


 式典倉庫から火鉢へ箱を運んだ少年だ。名札には、薄い墨で「セリム」とだけ書かれている。彼はミリア様を見て、すぐ視線を落とした。


「……私は、読めませんでした」


 使者が振り返る。


「余計なことを言うな」


「余計ではありませんわ」


 エレノアは小姓の前へ、半歩だけ表を寄せた。


「あなたは、何を運びましたか」


「革箱です。候補者控室から荷馬溜まりへ。底板の紙は、見ないようにと言われました」


「誰へ声を返す役でしたか」


「……第二見張り小屋の薬売りへ。箱が温まったら、次の二瓶を小橇へ載せると伝えるように」


 ユアンが凍傷薬の控え札をめくった。そこには、同じ時刻の小さな印がある。


 四刻前、伝達済み。


 けれど、セリムは首を振った。


「まだ伝えていません。王子府の使者様が、披露の書式を先に戻せと。薬売りは外門で待っています。寒いので、小橇の犬を抱いて」


 場が静かになった。


 代読者名空白は、犯人の空白ではなかった。


 返せなかった声が、寒い外門に一つ置き去りにされている空白だった。


「補佐官殿」


 エレノアは表の三行目を指した。


「代読者名欄を、いま埋めないでください。代わりに、声届き未了欄を立てます」


 補佐官の筆が走る。


 代読者名、未記入のまま保全。

 声届き先、第二見張り小屋薬売り。

 伝達内容、凍傷薬二瓶の使用可能時刻。

 現状、未伝達。

 理由、披露書式返送優先により停止。


 王子府の使者が青ざめた。


「それでは、私が止めたように見える」


「止めましたでしょう」


 ユアンは薬瓶を布へ包み直した。


「薬が塗れる時刻を待つ人に、声が届いていない。代読者名より先に、伝達を返す」


 エレノアはセリムへ小さな青札を渡した。


「あなたの名で、未伝達を記録できますか。責任を押しつけるためではありません。あなたがまだ声を返せていないと、あなた自身が言えるようにするためです」


 少年は震える手で筆を取った。


 セリム・ラン。

 革箱運搬係。

 第二見張り小屋薬売りへの声届き、未了。

 外門へ向かう許可を求める。


 書き終えた瞬間、ミリア様が自分の手燭を持ち上げた。


「私も行きます」


 使者が息をのむ。


「候補者が外門へ出るなど――」


「候補者披露の前に、候補者の名で止められた声を返します」


 ミリア様は、エレノアの方を見た。


「私の読了欄を守っていただいたから、今度は、私の名が止めたことにされる声を、私の足で返したい」


 それは告発ではなかった。


 自分の名が誰かの寒さを長引かせていると知った人が、その名を生活へ返すための一歩だった。


 外門では、薬売りの小橇がまだ灯の下にあった。犬が丸まり、薬売りの老人は手袋の指先を口元で温めている。


 セリムが駆け寄り、息を切らして札を差し出した。


「遅れました。第二箱は火鉢前で使用可能温度確認待ち。二瓶は四刻半までに小橇へ。第三箱は温めずに済印を押しません」


 老人の顔に、ほんの少し血の色が戻った。


「助かった。待つ理由が分かれば、犬を休ませる場所を選べる」


 ユアンが門番へ指示し、小橇を風除けの内側へ入れた。薪を一束、火鉢へ足す。セリムの半刻分の外門伝達手当も、補佐官がその場で仮払い札にした。


 小さな報酬だった。


 けれど、読まれていない紙より先に、返されていない声が一つ帰った。


 ミリア様は薬売りへ頭を下げた。


「私の名で、あなたを待たせました」


「お嬢様の名で待ったのではありません」


 老人は青札を見た。


「誰も声を返してくれなかったから、待っただけです。今は、誰の声で待てばよいか分かりました」


 エレノアは革箱の底板から、代読者名空白の控えを剥がさず写し取った。


 空白は埋めない。


 代わりに、その横へ新しい青い行を置く。


 声届き未了から、外門到達確認へ。

 セリム本人署名済み。

 薬売り本人受領、四刻前半。

 候補者ミリア、同席確認。


 そのとき、王子府の使者の袖から、もう一枚の薄い札が落ちた。


 式典披露進行表。

 外門伝達係、処理済み。

 代読者名、後日補完。

 責任部署、王子府翻訳整理室。


 エレノアは札を拾わず、床の上で角度だけを読んだ。


 翻訳整理室。


 補完命令翻訳者の名ではなく、声を返すべき部署の名が、ようやく生活の方へ顔を出した。

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