本人読了済みは、目と声の時刻を飛ばせません
薄紙に書かれた一行を、誰もすぐには声に出せなかった。
四刻到着確認後、候補者本人読了済みに編入。
荷馬溜まりの火鉢は、まだ三刻半の冷えを抱えている。西尾根へ向かったノラの足音は石段の向こうへ消えたばかりで、凍傷薬の第二箱も、まだ橋番の指へ届いていない。
それなのに、帳面の上ではもう、ミリア様が読んだことにされようとしていた。
「到着確認と、本人読了は別の欄ですわ」
エレノアは薄紙を台に置いた。怒鳴らない。破らない。赤い追記の筆圧が見えるよう、火鉢の横へ滑らせる。
「薬箱が四刻に着く予定であることと、ミリア様がその意味を読んで声にしたことは、同じ出来事ではありません」
王子府の使者は革箱を閉じようとした。
「候補者披露に必要な整理です。現場確認が済めば、候補者本人も了承したものとして――」
「了承したもの、という言葉で、誰の目を省きましたか」
財務卿の補佐官が、白い仮欄を五つ引いた。
帳面が本人の前にあること。
本人が目で読める明るさであること。
本人が声に出して確認できること。
意味を聞き返せる相手がいること。
読了時刻が現在時刻を越えていないこと。
最後の行を書いたところで、ミリア様の指が小さく震えた。
彼女は兄リオネルの薔薇略印を知っている。前の済印で、その欠けた花弁を自分の目で見分けた。けれど、いま問題になっているのは兄の名ではなかった。
自分の名が、読まないまま読了欄へ運ばれようとしている。
「ミリア様」
エレノアは問い詰める声を避けた。
「この追記を、いま読みましたか」
ミリア様は薄紙を見た。火鉢の光は弱く、赤い追記の下半分が影に沈んでいる。彼女は一歩近づき、補佐官から小さな手燭を受け取った。
「……読めます」
「意味を、誰かが先に決めましたか」
「いいえ」
「では、声にできますか」
ミリア様は唇を噛んだ。王子府の使者が、すぐ横で咳払いをする。
「候補者本人に不利な発言をさせる必要はないでしょう。読了済みにすれば、披露の席で守られる」
「守る、ではありません」
ミリア様の声は細かった。けれど、火鉢の縁で消えなかった。
「私は、まだ読んでいませんでした。今、初めて読みました。だから、四刻到着確認で私の読了済みにしないでください」
補佐官の筆が止まる。
エレノアは、その止まった一拍を帳面に残した。
候補者本人未読。
本人声確認前。
到着確認からの編入不可。
青い保留札が、薄紙の赤い追記へ重ねられる。
同じ時、ユアンが凍傷薬第一箱の蓋を開けた。中の瓶は、硬く冷えている。指先に少し出そうとしても、薬は白い固まりのまま瓶の口へ引っかかった。
「箱がここにあることと、薬が塗れることも別だ」
彼は火鉢へ瓶を近づけすぎないよう、手のひら一枚分の距離を測った。
「温めすぎれば効き目が落ちる。冷えすぎれば指へ伸びない。四刻到着確認と書くなら、その前に『使用可能温度確認待ち』だ」
ノラが持っていった第二箱の控え札が、まだ台に残っている。そこへ補佐官は新しい欄を書き足した。
到着済み、ではない。
火鉢前温め中。
使用可能確認待ち。
現場本人または見届け人の声待ち。
王子府の使者が顔色を変えた。
「そんな細目を立てれば、候補者披露の書式が間に合わない」
「間に合わないのは、書式ではありませんわ」
エレノアは、薄紙と薬瓶を同じ台の上に置いた。
「凍傷薬は指へ届くまで済みではない。本人読了は、目で読み、声にし、聞き返せるまで済みではない。王子府の書式だけが先に間に合っても、人の生活は到着しません」
ミリア様が、手燭を台へ置いた。
そして、補佐官の帳面へ自分の名を書いた。
ミリア・アシュベリー。
候補者本人。
当該追記、三刻半過ぎに初読。
四刻到着確認からの読了編入を拒む。
署名の最後で、彼女は小さく息を吸った。
「兄の印かどうかを、私はまだ言えます。でも、私の目で読んでいない欄まで、兄のために読んだことにはしません」
それは断罪ではなかった。
読んでいない、と言う権利が、候補者の席へ戻っただけだった。
火鉢の上で、凍傷薬が少しだけ柔らかくなる。ユアンは瓶の口についた白い薬を布へ伸ばし、固さを確かめた。
「第一箱は、まだ現場行きにできる。第二箱はノラが見届け中。第三箱は、温めずに済印を押すな」
補佐官は三つの箱へ、別々の青札を結んだ。
現場未着。
使用可能温度確認待ち。
本人声確認前。
同じ青が、ミリア様の読了欄にも結ばれる。
使者はようやく革箱を抱え直した。その内側の底板に、もう一枚の控えが貼られている。
エレノアは、それを剥がさず、角度だけを変えて読んだ。
補完命令翻訳者欄。
王子府承認前、代読者確認済み。
代読者名、空白。
火鉢の明かりが、空白の四角を照らした。
今度は、誰かが読んだことにされたのではない。
誰が読んだことにしたのか、その声だけが、まだ戻っていなかった。




