候補者支度費は、薔薇木箱だけを温める費目ではありません
王子府式典倉庫の薔薇木箱は、奥帳簿室よりもずっと華やかだった。
白布に包まれた銀の髪飾り。
候補者披露用の淡い手袋。
香油を染み込ませた薔薇紐。
けれど木箱の底だけが、式典の匂いではない。
乾いた泥と、古い羊毛と、凍った薬草酒の甘い匂いがした。
「候補者様の支度品です。税帳の方が触れる品ではありません」
王子府の使者が、箱の蓋へ手を伸ばした。
エレノアはその手の前に、青い保留札を一枚置く。
「支度とは、誰を温める費目ですか」
使者の眉が動いた。
答えるより早く、財務卿の補佐官が木箱の底板を外す。薄い板の裏に、三枚の小札が縫い留められていた。
北方冬越し薬草酒、空瓶控え。
凍河橋番所、毛靴下二足。
第三見張り小屋、夜明け前火鉢札。
どれも右肩に、同じ写し番号がある。
二十七。
「候補者支度費です」
使者は同じ言葉を繰り返した。
「候補者様の披露に必要な支度品として、王子府が正式に――」
「この空瓶は、誰の披露を終えたのですか」
エレノアは、薬草酒の控え札を持ち上げた。
空瓶、とある。
だが受領欄には、ガレン・リードの死者印の隣に、小さく『候補者控室へ転用済』と書き足されている。
「薬草酒は、北方兵の指を温めるためのものです。候補者控室の香り付けではありません」
ミリアの顔から血の気が引いた。
彼女は、白い手袋の上に置かれた薔薇紐を見ていた。さっきまで自分の支度品だと思っていたものの下に、誰かの夜明け前が縫い込まれている。
「……わたくしの、名前で」
小さな声だった。
「わたくしの支度として、閉じられたのですか」
「閉じようとした者がいます」
エレノアはミリアを責めなかった。
木箱の横に、候補者披露札と、北方の小札を並べる。
「けれど、まだ閉じていません。火鉢札は、火鉢に届いていない。毛靴下は、凍河橋番所の棚にない。空瓶控えは、薬草酒が飲まれた証拠ではなく、まだ戻すべき瓶がある証拠です」
「そんな細かいことを式典前に」
使者が声を荒げた。
「候補者様のお支度が遅れます」
「では、候補者様ご本人に読んでいただきます」
エレノアは墨を差し出した。
ミリアの指が震えた。だが彼女は逃げなかった。
候補者支度費。
その欄の横に、ミリアはゆっくりと線を引く。
『本人未読の支度名では、北方生活品を受領しません』
続けて、もう一行。
『夜明け前火鉢札は、第三見張り小屋到着確認まで保留』
使者が息を呑んだ。
候補者が、自分の支度費に保留を書いたのだ。
「ミリア様、それは王子府の決裁を――」
「わたくしの名で、誰かの火鉢を消さないでください」
ミリアは顔を上げた。
泣きそうな顔ではあった。けれど声は、初めて自分の欄を読んだ人の声だった。
「披露の薔薇は、冷えた指で結ばせるものではありません」
エレノアはうなずき、火鉢札に青い保留印を押した。
補佐官がすぐに写しを二枚作る。一枚は木箱に残し、一枚は第三見張り小屋行きの急使へ渡す。
「今夜の火鉢までは、間に合いますか」
「馬を替えれば、夜明け前には」
財務卿が短く答えた。
倉庫番の一人が、棚の奥から小さな炭袋を抱えてきた。
「候補者控室の飾り火用です。まだ封を切っていません」
エレノアは袋の札を確かめる。
飾り火用、と上から貼られている。その下に、第三見張り小屋、夜明け前一回分、と薄い字が残っていた。
「飾る火ではなく、帰ってきた人の指をほどく火です」
ミリアが自分で上札を剥がした。白い爪に赤い紙片が残ったが、彼女は構わず、炭袋を急使の箱に入れる。
「わたくしの控室は、今夜寒くて結構です」
その瞬間、木箱はただの証拠ではなくなった。誰かの朝を、まだ温められる箱になった。
エレノアは最後に、底板の裏の縫い糸を見た。
薔薇紐と同じ赤ではない。
王子府式典倉庫の備品係が使う、灰色の綴じ糸。
「写し番号二十七の原本保管簿を」
補佐官が奥の棚へ走る。
戻ってきた顔は、紙より白かった。
「保管簿では、二十七番の原本は昨日の正午に戻っています。ですが……薔薇木箱の底板を閉じた持ち出し時刻は、昨夜です」
昨夜。
リオネルの机印が、欠けた花弁のまま使われた時刻だった。
エレノアは青い保留札を、木箱の蓋ではなく、保管簿のその一分に貼った。
「では次は、戻ったはずの原本が、誰の手で夜に歩いたのかを数えます」




