薔薇略印は、何人の冬を閉じましたか
王子府式典倉庫の扉が、外から強く叩かれた。
「候補者披露の乾杯準備が遅れています。薔薇飾りも酒瓶も、ただちに大広間へ戻してください」
使者の声は、奥帳簿室の筆音よりも高い。
エレノアは返事を急がず、木箱から外した薔薇紐を机の端へ置いた。
赤い済印。
青い保留札。
そして、一番下の起案者欄に押された小さな薔薇の略印。
ミリア様はその印から目を逸らせないでいた。
「……兄の机にある印です。花弁の右下が欠けています。リオネル兄様は、急いで押すといつも少し左へ傾くのです」
彼女の声は告発ではなかった。
家族の名前を、初めて帳簿の上で読んでしまった人の声だった。
「ミリア様」
エレノアは静かに言う。
「今は、お兄様が悪いかどうかではなく、この印が何を閉じたかを読みます。人を先に断じると、棚がまた空欄になります」
財務卿の補佐官が、補完済みの控えを三枚並べた。
一枚目。
北方冬越し薬草酒、四瓶。
本人確認名、ガレン・リード。
現場受領印、空白。
二枚目。
西尾根狼煙台、凍傷油、二壺。
本人確認名、ハンナ・ウェル。
現場受領印、空白。
三枚目。
第二見張り小屋、乾燥肉、六包。
本人確認名、オットー・ベル。
現場受領印、空白。
「三名とも、帰還後の棚に置かれるはずだった品です」
ユアンが台帳を開く。
「ハンナは冬前に指を二本失って退役した。凍傷油を受け取る側じゃない。いま油を待っているのは、西尾根の見張り見習い二人だ」
彼は二壺の欄に、見習いの名を書いた小札を添えた。
「オットーは第二見張り小屋の料理番だが、本人は昨日から王都へ来ていない。乾燥肉六包は、小屋の帰還鍋に入る。六人分の夜明け前だ」
エレノアは、三枚の控えを縦にずらした。
薔薇略印は、どれも同じ角度で押されている。
「では、印が閉じたのは、名前ではありません」
彼女は青い筆で、控えの横に数字を書いた。
凍傷油、二壺。
乾燥肉、六包。
薬草酒、四瓶。
「二人の指と、六人の帰還鍋と、四つの夜番帰りです」
倉庫の外で、また扉が叩かれた。
「大広間では、殿下が候補者様をお待ちです。北方慰問の名がなければ、今夜の披露は――」
「今夜の披露が閉じる前に、北方の夜を閉じた帳簿を開きます」
エレノアは扉へ向けて声を通した。
「薔薇飾りは、北方慰問ではありません。現場受領印のない物資を、式典名へ移した印です」
使者が言葉に詰まる。
その隙に、ミリア様が一歩前へ出た。
「わたしは、兄の印を守るために北方の棚を閉じません」
彼女はまだ震えている。
けれど、今度はリボンではなく、控えの端を自分の指で押さえた。
「ただ、兄をここで断罪するだけにもしたくありません。兄が読んだのか、読まされただけなのか。どの棚を閉じたのか。わたしにも読ませてください」
エレノアは頷いた。
「では、候補者本人確認欄に記します。ミリア・アシュベリー、薔薇略印の使用範囲を未読。本人の希望により、北方物資三件の生活到達を先に確認する」
補佐官が書き留める。
赤い済印の上ではなく、横へ。
済印を消さない。消せば、誰が閉じたのか分からなくなる。
青い保留札が三枚、木箱の上に並んだ。
凍傷油二壺、西尾根狼煙台へ差戻し。
乾燥肉六包、第二見張り小屋帰還鍋へ差戻し。
薬草酒四瓶、古い渡し小屋凍傷棚へ差戻し。
ユアンの部下が、薔薇紐の代わりに荒縄をかける。
式典用の白い札ではなく、北方便の泥のついた札だ。
「今から走れば、狼煙台の夜明け前には油が着く」
ユアンが短く言った。
「乾燥肉も、第二見張り小屋の鍋に間に合う。六人分の腹が、薔薇より先だ」
ミリア様は、その言葉を聞いて小さく息を吐いた。
「六人分の腹が、薔薇より先……」
「候補者披露の言葉としては、少し飾りが足りませんわね」
エレノアがそう言うと、ミリア様の目に、ほんの少しだけ涙とは違う光が戻った。
「でも、わたしには、そのほうが読めます」
外の使者が、低く言い直した。
「では、殿下には何と」
「候補者披露乾杯は、北方物資三件の生活到達確認まで保留。理由は、薔薇略印の起案者欄と現場受領印空白の不一致です」
エレノアは三枚目の控えを持ち上げた。
その裏に、もう一つ番号があった。
候補者支度費、写し番号二十七。
北方軍糧、写し番号二十七。
同じ番号の横に、小さく別の部署名が残っている。
王子府ではない。
アシュベリー公爵家でもない。
「補佐官」
エレノアは青い札をもう一枚取った。
「次は、写し番号二十七の原本を。薔薇略印を押した机ではなく、その印を使わせた部署を読みます」




