死者の受領印で、冬越し薬草酒は満ちません
「死亡情報の反映遅延です」
王子府の翻訳官は、赤い済印を隠すように封筒を閉じかけた。
「北方名簿上、ガレン・リードは確認名として残っておりました。補完命令翻訳者は、届いた名簿を――」
「届いていたのは、名簿だけですのね」
エレノアは封筒ではなく、赤い済印の下にある細い行を指で押さえた。
北方冬越し薬草酒、補完済み。
本人確認名、ガレン・リード。
「では、遅れていたのは死亡情報ですか。それとも、死者の名を使うほうが早かったのですか」
奥帳簿室の空気が冷えた。
ユアンが一歩前へ出る。怒鳴らない。ただ、腰の革筒から折り目の多い薄い台帳を取り出した。
「凍河橋番所、冬前交代台帳。ガレン・リード。先任橋番。第三霜月二十八日、夜明け前死亡。返却品、ひび割れた左靴。最後の支給品、靴油半壺」
彼の声は低かった。
「こいつは署名できない。橋板の音で氷の厚さを聞く男だったが、死んだあとに王都の乾杯へ同意するほど器用じゃない」
ミリア様が息を呑んだ。
財務卿の補佐官は、赤い済印の横へ新しい札を置いた。
「本人死亡後補完。現場受領印なし。生活到達未完了」
「その札を、薬草酒の箱へ」
エレノアが言うと、翻訳官は顔を上げた。
「式典倉庫の現物まで動かす権限は――」
「現物を動かしたから、死者の名が必要になったのでしょう」
奥帳簿室から式典倉庫へ向かう廊下には、薔薇飾りの木箱が二つ並んでいた。
候補者披露用、北方慰問乾杯酒。
その下に、薄く残る元札がある。
古い渡し小屋、凍傷棚。
冬越し薬草酒、八瓶。
夜番帰還後、一人一口。
エレノアは膝を折り、元札の泥の跡を読んだ。
瓶番号一と二は、夜明け前の見回り帰り。
三と四は、橋板を替える二人。
五と六は、薬売りの小橇が東孤児院へ渡るまでの待機分。
七と八は、吹雪で小屋に残る予備。
「乾杯に回せば一晩で空になります。凍傷棚へ戻せば、八つの夜に分けられます」
ユアンの部下の一人が、小さく頷いた。
「今夜の凍河橋は風が戻ります。渡し小屋に八瓶あれば、薬売りの小橇を止めずに済む」
「では、酒は拍手ではなく橋を渡します」
ユアンの部下が、黙って薔薇紐に手をかけた。
「お待ちください」
王子府書記が叫ぶ。
「候補者様の披露乾杯が成り立ちません。北方の名を掲げることで、式典に敬意を――」
「敬意なら、死者の名前で祝杯を閉じないでください」
それは、ミリア様の声だった。
大きくはない。けれど、彼女は自分の胸元の白いリボンを押さえ、もう一度言った。
「わたしの披露に、ガレン様の名を使わないでください。わたしは、その方の冬を読んでいません」
エレノアは振り返る。
「では、その一行は同意欄ではなく拒否欄として残します。次に祝杯の名を書くときは、誰の棚から瓶が消えるのか読んでからです」
補佐官が短く筆を走らせた。
候補者披露乾杯酒、候補者本人未読により保留。
北方冬越し薬草酒、古い渡し小屋凍傷棚へ差戻し。
受領者、生存橋番代理の受領印を要す。
薔薇紐がほどける。
木箱の中で、八本の瓶が小さく鳴った。
ガレン・リード。
本人確認名ではなく、死亡確認済み。
古い渡し小屋、冬越し棚、未到達。
エレノアは赤い済印を消さなかった。上から青い保留札を重ねるだけにした。
「死者の名前は、空欄を閉じるための栓ではありません」
翻訳官の指が、袖口の中で震えた。
補佐官が、封筒の控えをさらに三枚めくる。
「エレノア様。補完済みの本人確認名が、ほかにもあります。現場受領印は、どれも空白です」
一番下の起案者欄には、名前ではなく薔薇の略印だけが押されていた。
ミリア様の顔から、血の気が引く。
「……兄の机にある印です」
エレノアは、青札をもう一枚取った。
「では次は、その薔薇印が、何人の冬を閉じたのか数えましょう」




