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断罪直前の悪役令嬢、領地の税帳を読み上げただけで王子派閥が崩壊しました  作者: 花守りつ


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16/50

戻った原本は、火鉢の前で夜を歩けません

王子府式典倉庫の外へ出ると、夜明け前の石畳は白く凍っていた。


 奥帳簿室の薔薇木箱よりも、こちらの匂いのほうがはっきりしている。

 濡れた縄。馬の息。灰の残った火鉢。

 そして、北方から戻されたはずの原本を包む、油紙の匂いだった。


「原本返却済み。これで生活影響欄の保留は不要です」


 王子府の使者は、荷捌き門の前でそう告げた。

 抱えている革箱には、薔薇略印の封が押されている。リオネル卿の机にある、右下の花弁が欠けた印。


 ミリア様の指が、袖の内側で強く握られた。


「兄の印です。けれど……昨夜は、兄は披露控室に」

「いまは所在より、原本が誰の夜を歩いたかを読みます」


 エレノアは、箱ではなく足元を見た。

 荷捌き門の脇には、受け取り待ちの火鉢が三つ置かれている。灰は冷え、札だけが濡れていた。


 第一火鉢、凍河橋番所。

 第二火鉢、西尾根狼煙台。

 第三火鉢、夜明け前見張り小屋。


 どの札にも、細い字で同じ注記がある。


 原本返却後、現場確認。


「原本が戻ったあとで、火鉢が届く。順番が逆ですわ」


 エレノアが言うと、使者は眉を上げた。


「税帳の方には、現場の火鉢まで判断する権限はありません。王子府は原本を返却済みです。現場確認は後続の雑務で――」

「後続ではありません」


 ユアンが、凍った火鉢札を一枚取った。

 その手は橋番の手だった。文字を読むより先に、縄の湿り方と灰の冷え方を読んでいる。


「夜明け前に橋板を渡る見張りは、火鉢が先だ。足の感覚が戻らないまま札だけ受け取ったら、次の橋番は川へ落ちる」


 荷車の陰から、小柄な少女が一歩出た。

 赤い指を包帯で巻いた、狼煙台の見習いだった。彼女は王子府の使者を見ると肩をすくめたが、ユアンが火鉢札を低く差し出すと、震える声で名乗った。


「ハンナ・ウェルの妹、ノラです。姉は……凍傷油の受領欄に名前があるのに、まだ油を受け取っていません。原本が戻ったなら、今朝はもらえると聞いて来ました」


 ミリア様が息を吸った。

 薔薇木箱の中で名前だけ見ていたハンナ・ウェルが、火鉢の前で妹を持った。


 エレノアは荷捌き台に三つのものを並べた。

 革箱の返却原本。

 冷えた火鉢札。

 ノラの包帯を巻いた手。


「返却済みという言葉を、生活到着条件へ戻します」


 彼女は青い保留札の端へ、四つの欄を書き足した。


 原本の到着。

 火鉢の到着。

 本人または現場家族の確認。

 夜明け前勤務に使える温度。


「四つ揃うまで、返却済みではありません。紙が戻っただけです」


 使者が革箱を抱え直す。


「そのような勝手な条件を加えれば、候補者披露の準備が遅れます」

「では、披露とは誰の指を冷やして成立する儀式ですの」


 エレノアは問い返しながら、第三火鉢の灰を指で割った。

 中に、薄い紙片が焦げずに残っている。


 原本閲覧控え。

 時刻、昨夜二十三刻。

 閲覧者、補完命令翻訳者。

 持出理由、候補者支度費分類照合。


 ミリア様が顔を上げた。


「兄の印で閉じられた箱を、翻訳者が夜に開けた……?」

「犯人名はまだ置きます。けれど原本は、夜に歩いています」


 エレノアは焦げ残った閲覧控えを、火鉢札の横へ置いた。


「原本は返されたのではありません。火鉢より先に持ち出され、現場の夜を置き去りにして戻されたのです」


 ユアンが火鉢の炭を入れ直した。

 財務卿の補佐官が、王子府の使者の抗議を受け流しながら、臨時の受領欄を作る。


 ノラは包帯の指で、自分の名前を書いた。


 ノラ・ウェル。

 ハンナ・ウェル代理受領ではない。

 西尾根狼煙台、今朝の火鉢到着確認者。


 書き終えると、彼女は火鉢の取っ手に布を巻いた。

「姉の代わりに偉い人へ返事をするのではありません。姉が戻ったとき、ここで止めなかった理由を説明できるように、わたしの名前で持っていきます」


 その一言で、返却済みの箱よりも、火鉢のほうが重くなった。


「代理ではなく、今朝の見届け人ですわ」


 エレノアが訂正すると、ノラは小さくうなずいた。

 火鉢に火が入る。赤い炭がひとつ、灰の下から起き上がった。


 それは王子府への勝利ではない。

 けれど、今朝の狼煙台へ戻る一人の指を、紙の返却済みから取り戻す火だった。


 ミリア様は、革箱の薔薇略印を見つめたまま言った。


「エレノア様。兄の印を、わたしが知っているだけでは足りません。兄がいつ押し、誰が夜に開けたか、わたしも読みます」


 初めて、彼女の声に候補者ではない意思が混じった。


 そのとき、荷捌き門の奥で別の箱が落ちる音がした。

 木札が一枚、氷の上を滑ってくる。


 候補者支度費原本、返却済み。

 閲覧時刻、明朝四刻。


 まだ来ていない時刻が、すでに返却済みとして押されていた。

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