1話 黒い猫がいた。(終)
黒い猫と男の物語
黒い猫がいた。
屋上のフェンスの外に、男の茶色い革靴のつま先があった。
猫の瞳にスーツ姿が映った。
男は俯いたまま動かない。
風が吹いた。
男の肩が僅かに揺れた。
その時、男がこちらを見た。
○ ○ ○
遠くから、規則的な音がした。
音が近づくにつれて男の姿は曖昧になり、次に水木の目が捉えたのは7時30分を示す目覚まし時計だった。
会社員の水木は重い身体を布団から起こすと、洗面台で顔を洗い、歯を磨いた。彼はクローゼットから取り出したグレーのスーツに着替え、身なりを整えた。
ショルダーバッグを肩にかけ、茶色い革靴を履くと、水木は会社へ向かった。
水木の自席のデスクには、誰かからのお土産のビスケットが置かれていた。彼は個包装のビスケットをバッグへ適当にしまい、ノートパソコンを起動した。
新着メールを確認後、水木はいつも通り求人の原稿作成を始めた。
水木の勤め先は大手の人材紹介会社だった。契約社員である彼の待遇や人間関係は、客観的に見れば恵まれていた。それでも、度重なる上司の人事異動や会社のルール変更は、彼を少しずつ追い詰めていた。
電車に揺られながら18時過ぎに帰宅した水木は、風呂に入り、夕食を済ませて布団に入った――瞬間、彼の思考が混濁した。
――死にたい。生きたい。何で、こんなこと考えて……頑張ってるよ。疲れた。僕が悪い。嫌だ。消えたい。壊したい……何を? 自分……? 嫌だ。壊したくない。死にたい。生きたい。消えたい……。
○ ○ ○
翌日、水木は初めて会社を無断欠勤した。
10時が過ぎた頃、水木の勤め先から電話があった。
「……」
水木は布団の中で丸まり、枕許に置かれたスマホを手に取った。ロック画面には、上司の名前が表示されていた。
振動が止むのを待ち、水木は再び目を閉じた。
午後になってようやく布団から出た水木は、パジャマからスウェットに着替え、最寄りのコンビニへと向かった。
海苔弁当と500ミリのペットボトルの水を購入して自宅に帰ると、テレビもつけずにダイニングの座椅子へ腰を下ろし、無音の部屋でただ義務を果たすように平らげた。
水木は続けて、カラの海苔弁当の容器をテーブルに放置したまま、スマホでモンブランとショートケーキを置き配で注文した。置き配が届くまでの間、彼は特に何かを調べるでも、遊ぶでもなく、座椅子に身体を横たえながら、発光するスマホのホーム画面を眺めていた。
15分後、置き配を知らせるインターホンが静寂だった部屋に鳴り響いた。その鋭い電子音に、水木の肩がびくりと小さく跳ねた。
水木は玄関先から配達員が立ち去るのをじっと待った。彼は足音が完全に消えたのを見計らってから座椅子を離れ、恐る恐る玄関の扉を開けた。
注文したモンブランとショートケーキが入ったビニール袋が扉の端に置かれていた。中には白い紙ケースが入っていた。
水木は素早くビニール袋を手に取ると、再びダイニングの座椅子に腰を下ろした。彼は白い紙ケースを丁寧に開け、モンブランとショートケーキを黙々と食べ切った。
時刻は16時を過ぎていたが、外はまだ明るかった。
○ ○ ○
次の日の朝、水木は7時30分に起床し、身支度を整えた。ダイニングのテーブルには、昨日の海苔弁当とケーキの容器が残されていた。彼はそれらを一瞥だけし、グレーのスーツへと着替えた。
しかし、玄関まで来て茶色い革靴を履こうとした足が止まった。水木は廊下の壁にもたれかかり、そのまま床へ崩れ落ち、しばらく動かなかった。今の彼には、スマホの振動さえも、遠い世界の出来事のようだった。
茶色い革靴は、まだ揃えて置かれていた。
――何をやっても上手くいかない。今の仕事もミスばかり……スキルはないし年齢は33……きっとすぐには転職先なんて見つからない……このままで、良いのかな。この歳になって自分のことも1人でできてない。事務以外できないくせに無断欠勤までして……俺なんか、いらない……いらない……誰も必要としてない……何で生まれたんだろう……。
太陽が昇るたびに水木の思考は複雑に重く渦巻き、それがとうに限界を超えていることを、彼はまだ知らなかった。しかし、何かは確実に底へ沈んでいた。
水木は、その日一日、食事も入浴もせず、身なりを整えたまま力尽きたように玄関前で眠り続けた。
○ ○ ○
男がこちらを見た。
黒い猫が「にゃぁ」と啼いた。
男は屋上のフェンスを左手で掴んだ。
前屈みになった男の瞳に猫が写った。
猫はどこかへ行ってしまった。
男は小刻みに息をしながら再びこちらを見た。
○ ○ ○
水木は、スーツを着たまま冷えた玄関前で眠っていた。彼にとって、これが夢だという自覚はない。しかし今は、色彩も音も温度も、全てが目の前に『ある』現実だった。
翌日の昼、玄関前で目を覚ました水木はショルダーバッグを床に置き、手ぶらで茶色の革靴を履いて外に出た。
水木はマンションの階段を上り、共用の屋上へ出た。
屋上には、赤や青のプラスチック製の椅子がいくつか置かれていた。春が近いほのかな風が吹き、物干し竿に干された住民のタオルや私服が靡いていた。地上からは、終業式の帰り道と思しき子どもたちの健やかな声が微かに届いていた。
――未来が、怖い。
「にゃぁ」
フェンスの外側へ立った水木の目が、無意識に何かを捉えた。
それは、マンション隣のビルの脇、地上のごみ箱のそばに座っていた。黒い猫だ。水木の夢に出てきた猫にとても似ていたが、彼がそのことを記憶しているかは定かではない。
「……」
一呼吸、水木は浅く息を吸い込んだ。
○ ○ ○
ささやかな風が通る屋上で、水木は前髪を揺らしながらフェンスを右手で掴んでいた。
黒い猫の姿は、水木の視界から消えていた。
水木は、渦巻く思考を遮るように、ゆっくりと瞼を下ろした。
風だけが、弱く吹いていた。
しばらくして、水木はゆっくりと瞼を開いた。
そこにはもう、黒い猫の姿はなかった。
風は、もう止んでいた。
――その頃。
遠く離れた神社の古井戸では、黒い猫が静かに佇んでいた。
その黒い猫を、ひとりの少年が見つめていた。
【第四章・完結】
最後まで呼んでくださり、ありがとうございました
【次の更新】
仕事をしながらのため、不定期になります
【補足】
■水木
未来の不安から精神を病んだ会社員
家族構成は母、父、妹
友だちはいるが何年も連絡を取っていない
趣味はアニメを観る、漫画を読む、音楽を聴くこと
■黒い猫
水木の夢に出てきた黒い猫
いつ見ても毛並みが美しい




