4話 『少女』は眠りについたのか?(終)
赤い瞳の『少女』とある男の些細な物語
――長い時が流れた。
花束を抱えた騎士は、街外れの森で青年のような存在と遭遇した。
青年は、騎士に背を向けたまま切り株に座り、小川で釣りをしていた。切り株の傍らには、水だけが入った木桶が置かれていた。
深緑のローブを纏った青年は、フードを目深に被っていた。リスや野兎が肩や膝に乗っても、その身体は微動だにせず、表情はうかがえない。
近くには、青年が自ら建てたと思しき小屋が静かに佇んでいた。外に斧や薪はなく、生活の痕跡はわずかにあった。
騎士は数メートルほど距離を置き、青年の後ろ姿を観察した。
数秒後、青年のフードのてっぺんに1匹のモモンガが、まるで大きなハンカチのように張り付いた。相変わらず微動だにしない。
騎士は口許を隠すように左手を添え、歩きながら青年へ少し声を張って話しかけた。
「釣れているか?」
「誰だ」
発した声は青年と言うには子どものようだった。
「近くの城の騎士だ」
「そうか」
せせらぎが流れる小川の前に、2匹の親子のシカが現れた。2匹のシカは水を飲むと木陰に座って目を閉じた。
周辺には、他の野生動物たちもときおり姿を現したが、魔物は1匹も見当たらない。
騎士は深く息を吸った。
「今の季節は晴れると気持ちがいいな。君は、ここに住んでいるのか?」
青年の返事は短かった。
「ああ」
「食事はどうしているんだ? 魚は釣れていないようだが」
いつの間にか、騎士は青年のそばまで歩み寄っていた。
青年はさして驚きもせず、鬱陶しそうに釣り竿を引き上げ、上半身だけを騎士の方へ振り向けた。その動きにつられるように、小動物たちは一斉にどこかへ行ってしまった。
「……何か用か?」
「墓参りだ。人がいるとは思わなかったが」
青年はフードの中で訝しげに眉をぴくりと動かした。
「ここに墓はない」
「ここにはな」
騎士は小川のほとりに生えた木の下に花束を供えた。彼は花束の前に屈むと両目を閉じ、手を合わせた。
「何をしている」
騎士はゆっくりと瞼を開いた。
「……祈っている」
青年はぱちぱちと瞬きをし、白い細首を傾げた。
「死者と会話ができるのか?」
「まさか。できないよ」
騎士は手を合わせたまま続けた。
「たとえ遠い過去の出来事でも、無関係じゃない」
「……」
騎士は立ち上がり、青年の方へ振り向いた。マントの肩口に留められた蝶柄のブローチが、木漏れ日に淡く浮かび上がった。
「覚えておきたいんだ。彼らがいたことを」
青年の表情はフードに隠れて騎士からはよく見えない。しかし、切り株に座る青年と目線を合わせるように、騎士は少し俯いて続けた。
「また来る」
「え」
騎士は青年の返事を待たず、城のある方角へ歩き出した。
残された青年はぽかんと口を開き、何かを言いかけた。しかし、言葉を探しているうちに、騎士の姿は森の向こうへ遠ざかっていた。
代わりに、1匹の野兎が青年を隣から見上げていた。
○ ○ ○
翌日、騎士は昨日と同じ頃に釣り竿を携え、晴天の森に現れた。
青年は変わらず切り株に座り、小川に糸を垂らしていた。
「釣れているか?」
騎士は地面にあぐらをかき、釣り糸を投げた。
青年の周りには、昨日と同じく小動物たちが膝や肩に乗っていた。今日の彼は膝に乗った野兎の背中を片手で撫でていた。
木の葉が擦れる音の中で、小鳥のさえずりが遠くで響いた。
ほんの少し、騎士へ視線を向けた青年の口の端からは、言葉にならない息が漏れていた。
沈黙が長くなるにつれ、青年はそれを押し戻す理由を少しずつ見失っていた。けれどやがて耐えかねたのか、正面を向いたまま、不動を装うように口を開いた。
「……見ての通りだ」
「昔よりは魚がいると思ったんだがなぁ……」
青年は白い野兎の背中を撫で下ろし、隣の騎士に顔を向けて言った。
「昔?」
「ああ。昔は、この辺りはどの季節も霧が多くて、とても生物が住める場所とは言えなかったらしい」
「見たことがないのか?」
騎士は苦笑した。
「さすがにな。700年も前の話だ」
青年は前を向き直り、少し間を置いて「……そうか」とだけ言うと、野兎を撫でていた手でフードの縁を引き下ろした。
結局、魚は釣れなかった。
正午を少し過ぎた頃合いに、騎士は釣り竿を引き上げた。彼は自身の腹に手を当てて、空腹を覚えたように息を吐くと、隣の青年に目を向けた。
「昨日も聞いたが、食事はどうしているんだ?」
「食べられる植物と、肉をときどき」
「君は兎を食べるのか……? いや、兎の肉を食べる地域があるのは知っているが」
「食うのはもっと凶暴な動物だ。こいつは食わない」
その時、青年の腹から奇妙な音が鳴った。彼は隠すように咄嗟に腹に手を当てるも、その音は騎士の耳まで届いていた。
騎士は、今度はついこらえられずに笑った。ひとしきり笑うと、両腕を高く伸ばして大きな声で言った。
「腹が減ったな! 魚の代わりに何か取ってくるか」
青年は野兎を優しく膝から退かし、黙って釣り竿を持って立ち上がった。
小屋に入ると、緑色の液体が入った瓶や、用途が分からない小物が並ぶ棚が青年を迎えた。彼は釣り竿を適当な壁に立て掛け、太い木の枝で串刺しにされた猪と、黒い鉄の鍋を軽々と持ち、再び小川の前に戻った。しかし、そこに騎士の姿はなかった。
青年は特に気にせず猪と鍋を地に置き、そこに生えた草へ指を差した。しかし、肝心の薪がないことに気づくと、周囲を見渡した。
「立派な猪だな」
騎士は長さの異なる枝を抱え、森から歩いてきた。彼は青年が座っていた切り株の近くで屈むと、それを組み始めた。
青年は何かを言いたげに枝を組む騎士を見下ろしていたが、その違和感に名前を付けることはできなかった。
「……」
「薪を拾ってきた。生では食べないだろう?」
騎士が枝を組み終えると、青年はローブの裾を雑草に擦らせながら彼の向かいに屈んだ。
青年は騎士を一瞥してから焚き木へ指を差すと、人差し指の先に淡く小さな炎を灯した。炎が枝に移ると、少しずつ広がり、やがて焚き火らしい大きさになった。騎士はその光景を瞬きもせずに捉えながらも、敢えて何も聞かなかった。
青年が持ち出した猪を、騎士は腰の剣で解体した。青年はそれを鍋に入れ、立ち上る湯気の向こうで、2人は同じスープを口にした。
会話らしい会話はなく、殆ど騎士からの言葉に青年が返事をするだけだった。
フードの中の青年の表情は、昨日よりもどこか人間らしかった。
○ ○ ○
騎士はそれから何日も森を訪れた。
ある日の昼は、雨が強く降っていた。
青年は小屋の暖炉の前の安楽椅子に座り、古びた本のページをゆっくりとめくっていた。
雨風の音は、小屋の中では驚くほど静かだった。しかし、とても釣りができる天気ではなく、動物たちも今日は1匹も青年の前に現れていない。
青年が本を半分ほどまで読み進めた頃、不意に雨音の中で扉を叩く音が混じった。彼は本から目を離し、安楽椅子に座ったまましばし扉を眺めた。
――この天気で訪ねてくる者がいるとは思えない。
すると再び扉を叩く音がした。
青年は小さくため息を吐くと、ぱたりと本を閉じた。彼は立ち上がり、安楽椅子の背もたれに掛けていたローブをチュニックの上から袖を通した。フードを被ると、面倒そうに眉を八の字にして扉を開けてやった。
そこには足先まで身体を濡らした例の騎士が立っていた。扉の数歩先では木々がしなり、雨が地面を叩いていた。しかし、小屋の屋根には雨粒ひとつ落ちていない。風もとても穏やかで、その空間には明確な矛盾があった。
「釣りは無理そうだな」
「……帰れ」
「そう言うな。今日は君に用があって来た。いいか?」
青年は少し考えるように間を開けると、何も言わずに扉を開けたまま小屋に戻った。騎士はそれを招かれた合図と解釈したのか、土足のまま青年の背を追うように中へ入り、扉を閉めた。木製の床に、水の足跡が点々と残った。
安楽椅子に腰掛けた青年は、騎士へと指を差した。
すると、青年の指先が淡い黄金色に光った。
次の瞬間、ずぶ濡れだった騎士の身体から雨水だけがほどけ、空気に溶けていった。
足跡もまた、初めからなかったかのように消え、床の木目だけが残された。
騎士の衣服からはほのかに甘い香りが漂い、新調したと言っても差し支えない姿へ戻っていた。
騎士は確かめるように自身の袖をさすり、続いて茶色い髪に触れた。
――魔法を見るのは殆ど初めてだ。火を起こす程度のものさえ、彼で初めて見た。こんな力を見れば、利用しようとする者が現れるのも否めない……悔しいが、俺もまた同じ理由でここにいる。
「何の用だ」
青年は来訪者を立たせたまま、安楽椅子に腰掛け、読みかけの古びた本のページをぱらぱらとめくり直した。彼の俯いた頭は、安楽椅子に揺られながら人形のように動かない。
騎士は姿勢を正し、少し間を置いてから話し始めた。
「……本当はずっと、君に頼みたいことがあった。……最近、我が国の周辺で魔物の目撃が増えている。君には宮廷魔法使いとして、国と王の防衛に加わってもらいたい。拒否することもできる。その場合は理由を聞かせてほしい」
安楽椅子は規則正しく軋んでいた。
「……騎士がいるだろう」
「確かに。王の防衛だけで言えば足りている。だが魔物は、日に日に人間だけでは対処できない領域へ入りつつある。このままではいずれ城下街に侵入されるだろう。そうなれば、今は保たれている防衛すらもおろそかになる。それに――」
騎士は間を開けて続けた。
「……俺は、再び魔法使いと人間が共存できる状態を作りたい」
小屋の外ではまだ、激しい雨風が大地に吹き荒れていた。
騎士は、揺れる青年の頭を見つめたまま、黙って立っていた。
思考をめぐらせているのか、本を読むのに夢中なのか、それは青年にしか分からない。
不意に、規則正しく軋む安楽椅子の音が止んだ。
青年はゆっくりと顔を上げ、フードの奥から騎士を見た。
「傲慢だな」
騎士はぱちぱちと瞬きをしたあとに微笑んだ。
「見せかけの選択肢だったな、すまない。けれど俺としては、君が嫌なら本当に断ってもいいと思っているのだが――」
退屈そうな青年の長い指先が、本のページの端を小さく折った。
「ない」
「え?」
「断る理由はない」
青年の口調は軽かった。
「いいのか? 宮廷魔法使いになれば、自由に釣りも出来なくなるかもしれないんだぞ?」
「断る理由はないと言っている」
青年はそれだけを言うと、再び視線を本へ落とした。
会話はそこで終わった――ように思われた。
「そうか……ところで、今日は天気が酷い。ここに一晩泊まらせてほしいのだが、いいか?」
「……傲慢だな」
青年は嫌々そうに言いながらも、騎士を一晩小屋に泊まらせた。
○ ○ ○
翌日の朝、空は見違えるほど澄んでいた。
青年は森を出るために、クリーム色のトランクへ荷物をまとめていた。自身の住まいを離れるというのに、彼には感慨らしいものはないようだった。
小屋にある全ての本や瓶、用途が分からないたくさんの小物を、青年は底の浅い1つのトランクへ黙々と放り込んでいた。彼は同じトランクへそれら全てを収めるつもりのようだが、その様子を見守る騎士の目には、すでに容量を超えているように映っていた。
案の定、青年が蓋を閉じようとすると、僅かに浮き上がった。彼は無言で蓋を両手で押し込み、しばらく格闘した末にどうにか閉じた。
首を傾げるしかない騎士をよそに、青年は当然のようにトランクの取っ手を掴んで立ち上がった。
騎士は先導して青年に道を示した。
城下街へと通ずる関所に着くと、門番の男は騎士の姿を認めるなり姿勢を正した。
騎士が青年について簡単に説明すると、門番はフードを目深に被った青年を一瞥した。彼はわずかに眉を動かしたものの、すぐに騎士へ一礼をしてから「お通りください」と丁寧に言い、重い門を開いた。
街は人々の営みで賑わっていた。
「王子さまだぁ! おかえりなさい! どこへ行っていたの?」
小さな男の子の元気な声が肉屋の近くから響いた。
「こら! 気安く話しかけるんじゃないよ!」
「この人だれぇ? どうして顔を隠してるの? わるい人?」
生気に満ちた子どもの無邪気な声が、青年の耳を打った。
「こら!! すみません殿下……」
「構いませんよ」
騎士は軽く右手を上げ、子どもの前で屈んだ。
「ただいま。少し外に出ていただけだよ。……彼はね、昨日の酷い天気に困っていた僕を、一晩小屋に泊めてくれたんだ。大丈夫、悪い人じゃないよ」
騎士の影から、子どもが青年を見上げると、「うん!」と元気に返事をした。
それを聞いた騎士は立ち上がり、子どもの頭を優しく撫でてから再び歩き始めた。
青年はトランクの取っ手を強く握り直し、ふわりと唇を開きかけた。しかし、少し先を行く騎士の背中を小走りで追い、結局何も言わなかった。
中央街に入ると、騎士は青年の方へ振り向いた。
「少し寄ってもいいか?」
「どこに」
「城へ向かう前に、見てほしいものがあるんだ。知った上で、決めてくれ」
騎士がそう言って歩き始めても、青年は足を止めずについて行くだけだった。
中央街は街の境よりもさらに賑わっており、人の往来も絶えなかった。騎士の少し後ろを歩く青年は、その喧騒に唇をきつく結び、不快そうに顔を伏せていた。
やがて辿り着いたのは、中央街の広場だった。
ベンチに座って新聞を読む老人、紙袋を抱えて雑談を楽しむ婦人たち、その近くを駆け回る幼い子どもたちなど、広場は憩いの場になっていた。
広場の真ん中に置かれた石碑の前で騎士は足を止め、深く息を吸った。
「慰霊碑だ」
大きな慰霊碑には、『魔法使いの慰霊碑』とだけ彫られていた。
「慰霊……」
青年はその言葉を確かめるように反芻した。彼は徐に慰霊碑に近づき、トランクを地面に置いた。そしてごく自然な所作で白い指先を石に触れた。
騎士は少しだけ間を置いてから言った。
「……かつて、我が国が魔法使いたちにしてきたことは決して消えるものではない」
石肌を撫でるようにそよ風が通り過ぎ、乾いた音だけが残った。
青年は何かを感じ取ったのか、指先だけがしばらく石をなぞって動かなかった。
城へ向かう道中、青年は一度も後ろを振り返らなかった。
○ ○ ○
青年が城に滞在してから、20年が経った。
騎士であり王子であった男は、病に倒れた前国王から王位を継承し、今は一国を治める王として、執務室で書類と向き合っていた。その傍らには、20年前と変わらぬ姿の宮廷魔法使いの青年が、淡々と書類を抱えて立っていた。相変わらずフードを被り、表情はよく見えない。ただ、その口調は以前よりも変化していた。
「陛下、その書類の次はこちらです。まだたくさんあります。早くしないと、公務に間に合いません」
「君は昔よりもよく喋るようになったな……その言葉でもう少し労ってくれてもいいんじゃないかい?」
青年は息を吐くと、書類の束を整えながら言った。
「……喋れと言ったのは、過去のあなたです」
森でひとり暮らしていた頃からは想像もできないほど、今の青年は王を補佐する宮廷魔法使いとして振る舞っていた。
「そうだったな。……君のおかげで、魔物による民への被害は起きずに済んだ。本当に感謝している」
「口ではなく手を動かしてください」
「褒めているんだ、素直に受け取りたまえ」
しかし、不意に見せる淡泊な雰囲気は昔と全く変わっていなかった。
○ ○ ○
ある日の昼。
執務室の机には、慰霊祭に関する書類が山積みになっていた。
毎年行われる慰霊祭を前に、城下街では屋台や装飾の準備が進み、街全体が活気づき始めていた。
開かれた執務室の窓外からは、民の声が届いていた。
王は耳を澄ませるように首を傾けながら、口許に穏やかな皺を刻んでいた。
「今年も賑やかになりそうだな」
「……そうですね。あなたが即位されてからは今年で10回目になります」
「随分と経つな……まぁ、君からしたら、些細な時間なのだろうがな」
王は笑って言った。しかし青年は、フードの中で何かを抑えるように瞼を深く閉じた。
「……そうですね」
青年の声色には普段と異なる重さがあったが、王は目の前の書類に追われるように手を動かしていた。
王は書類に目を通してはサインをし、ふと窓外の街並みを眺めた。色とりどりの旗が増え、街は少しずつ祭りの色に染まっていた。彼は小さく息を吐き、言葉を落とした。
「皆の魂も、安らいでくれるといいのだがな……」
青年は瞼を開いた。書類をめくろうとしていた指先が、ぴたりと止まった。
「安らいで……」
青年は初めて慰霊碑を見た時と同じように、その言葉を反芻した。
「そうであってほしいものだな。少なくとも私は、そう思っている」
城下街から、人々の笑い声が執務室まで微かに届いた。
窓から入る風に靡く青年のフードが凪を迎えると、彼は言った。
「そうでしょうか」
「え?」
「『かつて、我が国が魔法使いたちにしてきたことは決して消えるものではない』――以前、あなたが言った言葉です。私も同じに思います。しかし――」
戸惑いながら顔を上げた王に、青年は小柄な身体を真っ直ぐ向けて続けた。
「人間たちは、本当に安らいでいいのでしょうか?」
次の瞬間、王の身体は見えない衝撃に弾き飛ばされ、壁に叩きつけられた。
青年が書類を持つ手の先は、静かに王へ向けられていた。彼自身は微塵もその場から動いていない。
ただ、主を失った椅子は砕け散り、残骸となってその役目は終えていた。
「手厳しいな……まさか、20年来の部下に吹き飛ばされる日が来るとは思わなかったよ」
青年は書類をわざと木製の床に散乱させた。散らばった白い紙束に足跡を残しながら王のもとまで歩み寄ると、彼はその姿を冷たく見下ろした。
咳き込みながらも立ち上がろうとする王の肩を、青年は右足で容赦なく踏みつけた。床に組み伏せるようにして腹に跨がると、彼は眉間に皺を寄せる王の首に両手を回し、ゆっくりと絞め上げた。
高い天井で、シャンデリアが左右に煌めいた。
「……」
青年の手の力はさして強くない。それでもじんわりと、王の喉からは確実に呼吸が奪われていった。
王は途切れ途切れの息の下から、断片的に言った。
「それも……君たちの……権利、だ」
放たれた窓外から、遮るものをなくしたカーテンをすり抜けた風が、青年のフードを無造作に剥ぎ取った。
王の目に、20年間で初めて青年の明瞭な表情が映った。
青年の肌は白かった。黒い髪がそれをいっそう際立たせ、赤い瞳を潤わせていた。
王の頬に、重く熱い雫が落ちた。それは幾度も溢れ、王の肌に伝っては消えていった。
「少女は、歴史じゃない」
震える声の両手が、力なく王の首から離れた。首に薄らと絞め跡が残されると、王はまた咳き込んだ。
王の腹に跨がったまま、青年は感情を爆発させるように、しかし起伏は薄く話を紡いだ。
「あんな石ころが何だ……あの子はまだ子どもだった……あの子は私の妹だった……ずっと、ずっと待っていた、探していた。里があった頃、子どもの魔法使いが度々いなくなることがあった。慰霊碑を初めて目にした時、もしかしてと思った……けれど、当時の人間ではないお前に矛先を向けるのは違う、分かっている。けれど、ならば私はどうすれば……どうすればよかったんだ」
昂ぶる青年の素顔を、王は見上げていた。
「確かに……君は今、ここにいる。体温だってある。歴史なんかじゃない」
王はゆっくりと青年の頬へ腕を伸ばした。
「失われた命の息吹は戻らない……だから私は、覚えておきたいんだ、君たちがいたことを」
濡れた青年の肌と重なる骨張った王の掌に、互いの帯びた熱が交わった。
椅子の残骸が、小さく崩れる音を立てた。
○ ○ ○
王は、前国王と同じ病に倒れ、最期の時を迎えようとしていた。
自らの意志で人払いをした豪華な王の自室には、40年間を共にした宮廷魔法使いの青年だけが、ベッドの側で素顔を晒して立っていた。
「不摂生をした覚えはないんだがなぁ……」
王は苦笑して続けた。
「治せないのか?」
「怪我や呪いは治せますが、病を治す魔法は私が知る限り存在しません。先代と同じ病ならきっと遺伝でしょう。人間なら、この程度の寿命はごく普通です」
「そうか」
「はい」
痩せ細った王の身体が、天井に向けて弱く上下に呼吸した。
王は胸許のシーツを握り、しばらく沈黙したあとでまた口を開いた。
「君は……世界は、変われると思うか?」
青年は、ほんのわずかに口角を上げて答えた。
「分かりません、まだ」
王は慈しむように、青年を見つめた。
やがて王は全てを受け入れるように、満足げに瞼を下ろした。
○ ○ ○
朝の空は明るくも冷たい風が吹き、雨上がりの世界はまだ湿った光を宿していた。
青年は王を守る役目を終えた。
宮廷魔法使いを辞した青年は、次代の王を補佐する側近へ宛てた引継書を執務室の机に残して森に戻った。人間から離れるためではない。自らの意志で、森に帰ることを選んだのだ。
森にあったはずの小屋は蔦に覆われ、屋根には所々に穴が空いていた。
青年はそれを数秒ほど見上げてから扉に手をかけた。
放置されてから40年が過ぎた小屋の内装は、当然のように荒れていた。腐りかけの床の隙間からは雑草が生え、安楽椅子の脚に絡まっていた。しかし、青年が最後に小屋を使った頃とは家具の配置が少々変わっていた。彼が知らない間に、通りすがりの誰かが勝手に小屋を使っていたのかもしれない。
小屋の中には先客がいた。赤い瞳の白い小鳥だった。
青年は、視界に入った小鳥を見なかったことにしたのか、トランクを地に置いて開けた。中から釣り竿を取り出すと、近くの小川へと向かった。
小川は昔と変わらず綺麗なままだった。
かつての切り株は長い時間をかけて大木になっていた。
青年が地面にあぐらをかいて釣り糸を投げると、野兎やリスなどの小動物たちが頭や膝に寄ってきた。40年振りの帰宅とは思えないほどの出迎えだった。
「……見ての通りだ」
突然、青年は独り言のように呟いた。
そこへ、先ほどまで小屋にいた赤い瞳の白い小鳥が、青年の隣へ寄ってきた。
青年は、小鳥の方へ身体を傾けた。
「遅かったな」
――どうしてそう思ったのか、自分でも分からない。
けれど青年には、その小鳥が、ひどく懐かしい誰かに見えたのだ。
揺れる釣り糸が、不意に小川へと沈んだ。
青年は一瞬だけ目を見開き、立ち上がって竿を引き上げた。
片足がよろめき、水しぶきが青年の頬を伝う中で、白い歯を覗かせた。
その雫は、快晴に揺れる木漏れ日の中で、艶やかに輝いていた。
【第二章・完結】
最後まで読んでくださりありがとうございました
【次の更新】
仕事をしながらのため、不定期になります
【補足】
■青年
長命の魔法使い 少女の兄
長命の魔法使いの中では上位の実力
趣味は魔法研究、菓子作り
■騎士
王子からのちに王になる人
趣味は庭の手入れ
■門番の男
騎士(当時の王子)を信頼して青年を通した
趣味は旅行、女性との食事
■小さな男の子
精肉屋を営む家の男の子 母子家庭
肉の串焼きは国でいちばん美味しいらしい
成人後の趣味は料理、酒
■少女
長命の魔法使い 青年の妹
戦い方を知らない子ども※強くなっていた可能性はある
趣味は虫探し(兄は虫が苦手)、菓子作り
■サージュ
仕事以外のイレギュラーに弱い 生涯独身
趣味は研究、物作り(兵器以外)、読書
■ヴァイヤン
正義感と理想と現実で揺れる騎士
趣味はお忍びで城下街に行くこと
■貴族の女性
ヴァイヤンの婚約者
国同士の争いに生き残ったのちに妃になる
趣味は散歩、雑談
■メイド
貴族の女性の専属メイド
ヴァイヤンに好意を寄せていた
趣味は買い物、演劇鑑賞




