4話 機械は空白のノスタルジーを知りたがっていた
未来を変える一歩を踏み出す少年と少女の物語
4月 午後5時31分
「――澪?」
少女の手許は、小刻みに震えていた。
「……知らない」
しばらくして、結城澪が呟いた。
絞り出すような声だった。
「なら、なぜそんな顔をしている」
ミティックが疑問を投げるも、澪はただ首を強く横に振るだけだった。
信じがたい、拒絶のようだ。
澪を一瞥したあとに、ジェニは写真のウィンドウを閉じた。
「2人とも、しばらくここに泊まっていきなさい。あ、外に出るときは僕かフィデルに教えてくれ。万が一外で過去の自分たちと鉢合わせたら、今いる君たちは消滅してしまうからね」
「分かった」
ミティックだけが返事をした。
澪は、すでにデスクトップ画面に戻った液晶を、ただ呆然と見つめ続けていた。
「澪ちゃんが寝る部屋は、私と同室がいいかしら?」
フィデルの提案に、ジェニが頷いた。
「そうだね。じゃあ僕はミティックと――」
「別室を借りる。部屋は余ってるんだろう?」
「あ……うん。好きな部屋を、使っていいからね。あ、そのショップ袋、預かっておこうか?」
「いい。それに中身は澪のものだ」
しょんぼりと、残念そうに居間を後にする姿は、未だ子離れができていない父親そのものだった。
「じゃあ、私から澪ちゃんに渡しておくわね」
その後は、それぞれの部屋へと移動した。
短くも奇妙な共同生活が、幕を開けた。
〇 〇 〇
4月 午後5時42分
部屋へ入ると、フィデルは手にしていたショップ袋を襖の片隅へそっと置いた。
照明をつけた部屋の押し入れから布団一式を取り出したフィデルは、木製のクローゼットの前にそれを置いた。
クローゼットを開けると、ハンガーに掛けられたままの少し古い、紺色の衣服が微かに揺れていた。
「澪ちゃん、パジャマはこれでもいい?」
差し出されたのは、紺色のシルクのパジャマだった。
「昔、ミティックが使ってたものなの。ちょっと男の子っぽいけど」
澪は小さく頷き、それを受け取った。
フィデルが布団を敷いている間、澪は部屋の中を見回した。
10畳はありそうな広い和室だ。
入口から見て左側には、黒のシングルベッドと茶色のフェザーソファがあり、反対側にはデスクが置かれていた。白い壁には、何枚もの紙焼き写真が貼られていた。この家で撮られたものもあれば、どこで撮影されたのか分からないものもあった。
そのうちの1枚に、澪は視線を留めた。
森の中に建てられた小屋の中で、ミティックと思しき少年が両親と共に食卓を囲んでいた。その少年は今よりもずっと幼く、小さな身体と、緑色の瞳をしていた。
「ミティック?」
「そう」
布団を敷き終えたフィデルは写真を見て、少し嬉しそうに笑った。
「小さいでしょう?」
澪は写真の中の少年を見つめた。
「なんだか……かわいい」
「でしょう?」
フィデルの声が少しだけ大きくなった。
「この頃は危なっかしいところが多くて、今よりもずっと素直だったの」
「そうなの?」
「ええ。でも、ジェニは昔から甘やかしてばかりなの」
澪は、もう一度だけ写真を見た。
幼いミティックは、スープを床にこぼして不機嫌そうに頬を膨らませていた。
タオルを持って慌てるフィデルをよそに、その隣にいるジェニは、息子を見ながら大口を開けて笑っていた。
ごく普通の家族に見えた。
「私にも……あるのかな」
2人きりの部屋で、澪がぽつりと呟いた。
切なげに写真を見つめる瞳は、かすかに灰色が揺れていた。
その表情をそばで見ていたフィデルは、そっと澪の頭を撫でた。
「フィデルさん……?」
「大丈夫」
「えっ?」
「きっと思い出せる」
「でも……私の記憶回路には、空白があって、分からないの。パソコンの写真を見たとき、私の身体は否定して、知らないはずなのに見たことあるみたいで……思い出したいのに否定して、どうすればいいのか……」
「あなたがその空白を埋めたいと、本当に思っているならきっと大丈夫。それに、私たちも協力するわ。だから、そんな不安そうな顔しないでちょうだい」
フィデルは小さく息を吐きながら、もう一度、澪の頭を撫でた。
自分を作ったのが誰なのか、面影さえも思い出せない澪は、ミティックの家族写真をなぞるように触れた。
夕食の時間になっても、澪は水だけを飲んで箸を取らずにフィデルの部屋へ戻った。
情緒が不安定だったのではない。そもそも、彼女の身体に食事は必要ない。
食べられないわけではないが、2リットルの水があれば半年は稼働できる、それだけのことだった。
ジェニは一瞬だけ澪に声をかけようとしたが、フィデルと顔を合わせると何も言わなかった。
畳に腰掛けているミティックもまた同じく、しかしほんの少し、ほんの数ミリだけ、その行く末を強く願ってしまっている、そんな自分に、彼はまだ気づいていなかった。
その夜、ベッドの上で瞼を閉じた澪の記憶回路は、いつかの映像を見せた。
それがなんなのか、彼女はまだ知らない。
〇 〇 〇
ぼんやりと、白く明るい、無機質な部屋だった。
少女はベッドに座っていた。
誰かが本を読んでいた。
声だけが聞こえた。穏やかな、優しい男の人の声だ。
少女は笑っていた。
「もう一回!」
そう言うと、誰かがページを戻した。
〇 〇 〇
4月 午前9時17分
翌日、澪は白いワンピースに着替え、目許を擦りながら居間へと向かった。
遅めの起床だったからか、すでに3人は朝食を終えており、そこには誰もいなかった。
本来、澪に『眠い』という概念は存在しない。
今見せた仕草も、人間の少女としての『それっぽい所作』があらかじめその身に搭載されているだけに過ぎなかった。
「おはよう。眠れたか?」
背後からの声に、澪は振り返った。
ちょうど部屋から出てきたミティックが澪の姿に気づき、見た目よりも低い声で問いかけてきた。
「うん」
澪は少しだけ間を置いて続けた。
「……そういえば、昨日の写真ね」
「写真?」
「ミティックの小さい頃の写真」
ウグイスの囀りが、縁側から居間にかけて響き渡った。
ミティックは一瞬、眉をひそめ、何のことか分からないという顔をした。
「スープこぼしてたやつ。かわいかった」
「え」
想定外の暴露に、ミティックの端正な顔がわずかに強張った。
追撃をかけるように、澪は淡々と言葉を重ねた。
「あと、フィデルさんからあなたのパジャマ、勝手に借りちゃった」
「……そうか。別に、気にしなくていい。僕とお前は、骨格が似ているからな」
ミティックは平然を装って応えた。声のトーンは変わらず冷静だ。
しかし、その手許は彷徨っていた。
自分の服を着たヒューマノイドの少女を前にして、何を考えているのか自分でも分からなくなったのかもしれない。
「2人ともおはよう。朝食は食べたかい? 僕はこれから朝の散歩に出る予定だけど」
タイミングを見計らったように、台所からジェニが顔を出した。
居間に漂い始めた妙な空気を、換気するように明るい声を響かせた。
「年寄りみたいなことをしてるんだな」
ミティックはすかさず毒づいた。彼なりの防衛反応なのかもしれない。
「主語が大きいよ、ミティック。それに僕は、魔法使いの中ではまだ若い方だから!」
澪は、彼らを交互に見つめながらやり取りを聞いていた。
自然光に照らされる畳には、陰影が広がっていた。
それに目を落としてから、ジェニに視線を移した。
「ジェニさん」
「うん?」
「私も散歩、行きたい」
昨日から抱えている『空白』への違和感は、まだ晴れずにいた。
ただ、知りたい。
ここにいても、何もきっと分からない。
ならば、外に出て自分の足と目で探して確かめたい。
そうすれば、この胸のつかえが取れるかもしれない。
そんな、システムの外側にある『何か』が、澪を動かしていた。
ジェニは頷くと、ワイシャツの胸ポケットから何かを取り出した。
金色のチェーンに、紫色の石が輝くそれは、今の時代ではあまり見かけない古典的なものだった。
「分かった。それと昨日は、君を混乱させるようなことをしてすまなかった。お詫びと言っては何だけど、よかったら受け取ってくれるかい?」
ジェニの手許を、ミティックは見通すようにじっと見つめた。
ペンダントだった。
澪はそれを受け取ると、間を置いてから自ら首につけた。
くるりと一回転し、ワンピースを靡かせながら、ミティックの瞳を覗き込んだ。
「どうかな?」
不意を突かれたように、ミティックは瞬きを数回繰り返したあとで言った。
「ああ。似合ってる。あと僕も散歩に行く。……おい、何を笑ってる」
「あら、お出かけ?」
裏庭の手入れを終えたフィデルが、淡い黄色の単衣姿で縁側から居間へ入ってきた。
片手には如雨露を持ち、腰の帯には摘花鋏を差していた。
「2人と一緒に散歩に出ようと思ってね」
「そうだったの?」
フィデルは目を丸くし、スリッパでフローリングの床を擦った。
「ごめんなさい。私、まだ家に魔法をかけ直さないといけなくて……」
そう言いながらも、フィデルの視線はジェニではなく、澪へ向いていた。
写真を見つめていた少女の意思は、昨日よりも固く見えた。
「いつもありがとう。すぐ戻るよ」
額へ唇を当て、ジェニは微笑んだ。
安心したように、フィデルも目を細めて3人を見送った。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
ジェニは2人を連れて、家の外へ出て行った。
街に浮かぶホログラムには、『最新型ヒューマノイドの研究中止』を国が囁く報道が映し出されていた。
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