3話 機械は心を持ち始めていた
未来を変える一歩を踏み出す少年と少女の物語
4月 午後5時15分
春空の下、家屋の居間が黄金色に光ったあとに現れたのは3つの影だった。
同じタイミングで木造平屋の縁側では、添水からカコンといい音を立てた。
ミティックは、未だ停止中の結城澪の身体を畳の上へとそっと横たえた。脱げ落ちたキャップの隙間から、長い髪が流れる中で、徐に周囲を見渡すが、そこは見覚えのない場所だった。
「ここは……」
「戻れたか」
そう言った黒い猫の影は、みるみると人の形へと変えていった。やがてそこに立っていたのは、くせ毛の黒髪が特徴的な色白の男だった。人間で言えば20代後半ほどに見える外見は、ミティックの親と言うにはとても若い。しかし、瓜二つの緑色の瞳だけは、2人の関係を裏付けるには十分な証拠だった。
人の姿へと戻ったミティックの実父は、解放されたように腰を反らせると同時に『んんー』と声に出して身体を伸ばした。その様子を下から見上げる実子は、間を開けて怪訝そうに訊ねた。
「……安易に魔法を使って良かったのか?」
「うん? ああ、緊急事態だったからね。それに私くらいになると、人間の監視網を完璧に避ける魔法も使えるんだよ」
自慢げに話す父親の言葉に、ミティックはまた怪訝そうな目を向けたが、納得の方が妙に勝っていた。
「ふぅん……けれど、この場所は人間にも知られているだろう?」
「いや、ここは僕と彼女の魔法で隠されている。人間の目にはただの広大な公園に見えるだろう」
ミティックたちがいる場所は、高級住宅が整然と並ぶ郊外の一画だった。その一画は、幼い子どもたちがキャッチボールを楽しむのどかな公園にすぎない。人間にはそう見えているだけだった。魔法で認識を阻害されたその空間には、確かに木造平屋の邸宅が建っていた。
「ジェニ……?」
不意に、居間の襖が静かに動いた。
襖の間から、不安そうにこちらを覗き込む小柄な女性がいた。明るい緑色の髪に、丸みを帯びた眉――身に纏っているのは、単衣の着物だった。
ジェニは彼女に気づくと、息子を置いて小走りに駆け寄った。
「フィデル! ただいま」
ジェニは愛おしそうに彼女を優しく抱きしめた。
「おかえりなさい、ジェニ。いつ帰ったの?」
「今さっきだよ。ミティックも一緒だ」
フィデルは、ジェニの腕に抱かれたまま、その肩越しに息子の姿を確認した。
「元気そうね」
ジェニの身体を労わるように言ったあと、フィデルは視線を畳へと落とした。
「……ところで、そこに横たわっている子は、前にあなたが言っていたヒューマノイドの?」
「ああ。半年後の未来から過去に連れてきた」
フィデルがピクリと眉をひそめた。
「大丈夫なの? 監視とか、目撃者とか……」
「大丈夫。誰かに見られる前に魔法でここまで移動したからね。それよりも聞いてくれ! ミティックが私たちの住むこの家を猫小屋と言ったんだ!」
「そうなの? だめじゃない、ミティック。私たちは人間ではないけれど、ここは猫小屋じゃないでしょう?」
「……」
自分の両親の仲が睦まじいことは、悪いことではない。しかし、いつまでも目の前で新婚のような振る舞いを見せられる子どもからすれば、しごく複雑な心情になるだろう。
「再起動、完了」
瞼を閉じたまま横たわる澪の静止した口許から、ノイズ混じりの無機質な音声が流れ出した。
「澪?」
「記憶回路クリア……視覚情報クリア……言語システム再設定……アアっ……」
瞼がゆっくりと開き、澪の灰色の瞳が天井の木目を捉えた。上体を起こした彼女は、見知らぬ室内と、周囲の景色に視線を巡らせ、傍らのミティックと目が合った。
「……ここは?」
「僕の父親の家だ」
「……お父さん?」
「ああ。こいつが僕の父親だ」
ミティックは、未だ妻と身体を寄せ合っているジェニを、感情の失せた指先で指し示した。
「『こいつ』……?」
戸惑う男をよそに、フィデルは腕からするりと抜け出すと、澪の前に両膝をついた。
「初めまして。私はジェニのパートナーのフィデル」
「フィデル」
澪は畳の上に足を投げ出したまま、名前を反芻するように呟いた。
「驚かせてごめんなさい。彼は占いが得意なの。あなたとミティックによくない未来が視えたから、半年前まで連れてきたの」
ジェニの顔から、先ほどまでの悪戯っぽい笑みが消え、一気に真剣な眼差になり、澪の正面へと歩み寄った。目線を合わせて屈み込むと、彼は言った。
「強引なやり方ですまなかった。けれどあのままでは、君は危険物としていずれ人間に捕らわれ、処分されていた。ミティックも、時が進めば澪を匿った犯人として相応の施設へと収容されていたよ。……まぁ、お前なら適当に脱出できたろうが」
「ジェニ」
澪は2人の顔を交互に見つめた。
「それなら、半年前に未来を教えてくれたら良かったんじゃないのか?」
ミティックが両親に目をやりながら訪ねた。
庭の添水から、再び乾いた音が響いた。
「確かに」
ジェニは何のてらいもなく、あっさりと深く頷いた。あまりに素直すぎる肯定だった。
「おい」
思わずといった風に、ミティックの口から間の抜けたツッコミが漏れた。
「でもミティック、人間の技術力は侮っちゃだめ。それにこの世に『絶対』なんてないもの」
妻が助け船を出すように言ったが、さして意味はない。
澪もミティックも、突きつけられた事態の全貌を、まだ脳内で咀嚼しきれずにいた。
何かを覚悟したように息を吐き出すと、ジェニは立ち上がり、居間の中央に置かれた座卓へと歩を進めた。次にフィデルが後をついて行った。その背中に引き寄せられるようにして、残りの2人ものっそりと座卓を囲んだ。
「僕には、人間の友人がいるんだ。研究員をしていてね」
ジェニは、年季の入ったシルバーのノートパソコンを起動させた。
「すぐに死ぬだろう」
ショップ袋を座卓の傍に置くと、ミティックは当然のように細い首を傾げて言った。その声に感傷は一切なかった。
「……もちろん。だが彼はその上で、私たちの存在を受け入れ、フィデルも含めて対等に付き合ってくれているんだ」
画面を操作すると、1枚の写真が表示された。
子ども部屋のベッドで、澪とよく似た少女に本を読み聞かせる白衣を着た男が写っていた。
「彼は、ヒューマノイドの研究をしているんだよ」
「……この人」
「知り合いか?」
ミティックがすかさず澪の横顔に尋ねた。
澪は答えなかった。答える余裕がなかった。
灰色の瞳は、画面の中の男から一瞬たりとも離れなくなっていた。
澪にとって、その白衣の男は、完全なる初対面の人間であるはずだった。
しかし、澪の全身はその論理を拒絶していた。
指先が微かに、だが明確に震え始めた。
記憶回路のどこを掘り起こしても、名前すら存在しない。間違いなく、知らないと告げていた。
それなのに、電子の束で構成された思考の隙間から、説明のつかない感情が溢れ出していた。
人間でいえば脳と、魂とでも呼ぶべきものの記憶――それらの致命的な齟齬が、無言の澪をその場に縛り付けていた。
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