2話 機械は未来を見たがっていた
未来を変える一歩を踏み出す少年と少女の物語
10月 午前11時40分
「逃げて来たの」
ミティックが食後のコーヒーを口にしていると、結城澪が唐突に言った。
「……逃げて来た?」
「うん」
澪はバニラアイスをスプーンで突きながら語り始めた。
「車の中で起きたらね、お巡りさんに話しかけられたの。住んでるところとか、お父さんとお母さんのこととか聞かれた。でも分からなくて……それでお巡りさんに病院に連れて行かれたの。そこで大人の人たちが『元いたところへ戻そう』って話してた。だから、夜にランドセルを持って病院を出たの! そうしたら、テレビに私が映ってて……ヒューマノイドが行方不明だって」
唇に触れかかった白いカップが離れた。
「君が……?」
「うん」
こくりと、澪は頷いた。
「……そうか」
ミティックは澪をしばらく見つめ、それから残りのコーヒーを飲み干した。
「だから……行きたいの」
灰色の瞳が、わずかに戸惑うように揺れた。だが次の瞬間には、その視線はまっすぐにミティックを捉えていた。
「どこへ?」
「ニュースで見た、未来が見れる井戸……あそこに行きたい」
「どうしてそこへ?」
「分からないの。私が何なのか……ヒューマノイドなのは分かってる。でも、それ以外は何も分からないの。だからね、未来を見たら私のことも分かる気がして……」
「……なぜ僕なんだ? 僕が誰かに君を引き渡すとは考えなかったのか?」
「考えたよ。でも、あなたは私を見ても、誰も呼ばなかったから……それに1人じゃ、きっとまた捕まっちゃう」
澪はわずかに顔を伏せ、傍らに置いてあったランドセルに手を伸ばした。中から、表紙の擦り切れた1冊の絵本を慎重に引き出した。表紙には、深い森を背景にして立つ、白いローブ姿の少年の絵が描かれていた。衣服こそ違うが、その顔立ちは、どこか見覚えがあった。
澪は絵本の表紙を指先でそっと撫でながら囁いた。
「思い出したいの」
「何か言ったか?」
澪は首を横に振ってから言った。
「ううん。それにね、あなたとなら、行ける気がしたの」
澪は微笑んで見せた。
その反応に、ミティックの薄い唇がわずかに開いた。
自分らしくない、とミティックは自嘲した。最初から、この少女を放っておく選択肢など用意されていなかったのだ。
「……分かった。けれどその前に、君の身なりは考え直す必要がありそうだ」
店内のあちこちから、澪を値踏みするようなヒソヒソ話が聞こえ始めていた。
ミティックが首を動かさず、視線だけをそちらへ向けた。それだけで、低くうごめいていた雑音が一瞬にして完全に途切れた。
○ ○ ○
10月 正午12時17分
平日の昼間ということもあり、境内に人影は少なかった。
古井戸がある神社の奥へと進むと、手水舎の龍の吐水口から、絶え間なく清らかな水が流れ落ちていた。その近くでは、楓の紅葉がそよ風で揺れていた。石のベンチでは、3人の男女の参拝客が、おにぎりを片手に談笑していた。
「苔がいっぱい……」
「そうだな」
言いながら、ミティックは隣に立つ澪に顔を向けた。
澪は茶色いキャップでロングヘアを隠し、ジーパンとクリーム色のロングコートを身に付けていた。可愛らしい少女だった面影は、すっかり消えていた。それまで澪が背負っていたランドセルは、大きめの茶色いショップ袋に入れてミティックが持っていた。
ファミレスを出たあと、ミティックは大衆向けのアパレルショップへ澪を連れて行った。そこで選んだのが、この服だった。
――むろん、魔法を使えば簡単に着替えさせることはできた。
しかし、監視の行き届いた現代で、安易に魔法を使うわけにはいかない。
「ねぇ、見て。あの子」
ベンチの方から参拝客たちの声がした。
「あの子?」
「井戸の前だよ。可愛い」
――彼女のことか。
「あの緑の目の男の子」
ミティックの内心は虚しくも砕かれた。
――自意識過剰か? ……いや、今ここで『緑の目の男の子』と呼ばれる者は……僕?
「どうしたの? この世の終わりみたいな顔してる」
「何でもない……何か見えたか?」
古井戸は無用心に蓋が開いていた。大人の男が2人は入っても余裕がありそうなほどだった。
澪がその中を覗くと、秋晴れの空の下にも関わらず、水どころか文字通り闇しか見えない。続いてミティックが井戸を覗いても同じだった。
「何も……まっくら」
楓の枝から、珍しく野鳥の囀りが響いた。
澪は古井戸の中に身を乗り出すあまり両足が地面から数センチほど浮いていた。その様子を見たミティックは、澪のロングコートの襟許を少し強く引っ張った。
しかし、澪の身体は重力に従うかのようにみるみる古井戸へ沈んでいった。
「落ちるぞ」
参拝客たちが心配そうに腰を浮かせた。
「身体が……手が引っ張られて……戻れないの……」
澪の声が震えた。
ミティックは一瞬だけ、古井戸の底を覗き込んだ。
やはり、何も見えない。
「……澪」
呼びかけても、澪の身体は戻らない。
ミティックは、ようやく理解した。
これは落下ではない。
何かに、連れていかれているのだ。
意を決するより早く、ミティックは少女を両手で包み込み、古井戸へ身を乗り出した。
参拝客の1人が青ざめた顔色で警察へ通報した。他の2人が古井戸へ駆け寄ったが、覗き込んでもそこには水があるだけだった。
○ ○ ○
?月 午後??時??分
ミティックと澪は、古井戸の奈落へと落ちた。
――死んだ、と思った。
ミティックの意識はゆっくりと、だが確実に取り戻していった。
胸許にかかる重みを感じて目を開けると、そこには澪がうつ伏せの状態で横たわっていた。衣服の破れや不自然な関節の曲がりはない。医者ではない彼に詳細な診断はできないが、規則正しい胸の上下は、彼女のひとまずの無事を証明していた。少し離れた場所には、大きめのショップ袋が転がっていた。
上体を起こして辺りを見渡したミティックは、咄嗟に声が出た。
「え……?」
そこは見覚えのある神社の境内だった。目の前には、先ほどの苔まみれの古井戸と、石のベンチには首輪のない黒い猫が1匹、あくびをしながらミティックの方を見つめて座っていた。数分前までその場にいたはずの3人の参拝客はいなくなっていた。
「成功したか! やはり僕は天才だな!」
鼓膜を震わせたのは、紛れもない人間の言葉だった。そしてその音源は、石のベンチで平然と座っている猫の口許以外に考えられなかった。
「……何をしている」
じっとりとした瞳で、ミティックは黒猫を見据えた。
驚きや恐怖よりも、状況の理不尽さに対する呆れが勝っていた。
猫は少し間を置いてから、不満げに喉を鳴らした。
「……数百年ぶりに再会した親にする第一声が、それかい?」
「古井戸に細工をしたのはお前だな?」
隣で横たわる澪に視線を移しながら、ミティックは淡々と言った。
「無視か! 我が子を心配するのは親として普通だろう? ……まぁ、他にも理由はあるけど」
ミティックは怪訝そうに猫を見下ろした。それを見た黒い猫は誤魔化すように前足で顔を拭い、毛繕いを始めた。その仕草はどこまでも動物のそれだったが、発せられる言葉には確かな知性が宿っていた。
「なぜこんなことを? 同じ場所のようだが」
「場所はね――ただ」
黒い猫は毛繕いを止め、その緑色の瞳をミティックに真っ直ぐ向けた。
「ここは君がいた時間から、およそ半年ほど前の神社だよ」
「半年……?」
ミティックは反射的に、左手首へ視線を走らせた。腕時計の小さな液晶画面に表示された日付は、確かに半年前、4月の午後5時14分を示していた。
よく見れば、神社の境内の自然は新緑に染まっていた。
見間違いではない。
そこには、到底受け入れがたい過去の事実が淡々と突きつけていた。
疑問符に応える前に、社殿の裏手から砂利を踏みしめる足音が近づいてきた。
黒猫の髭が微かに動いた。猫は少し早口で言った。
「誰か来る。ミティック、その子を連れてひとまず私の家へ行こう」
「猫小屋にか?」
「人間用の家だよ! ……まったく、いつからこんな子になってしまったんだ」
「そもそも人間ではないだろう。お前と僕は」
ミティックは傍らに横たわる澪の身体を抱き起こした。ぐったりと沈黙した身体は冷たく、機械であることを忘れてしまいそうなほどに柔らかい。
足音は確実に、古井戸のすぐ近くまで迫っていた。
猫が神経質そうに耳を動かし、周囲を鋭く見渡した。
「時間がない」
黒猫はベンチから飛び降り、2人の足許へ滑り込んだ。直後、地面に黄金色の光が走った。
数秒後、木製の竹箒を手にした神主が古井戸の前に辿り着いた。
そこにはすでに、誰の姿も残されていなかった。
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仕事をしながらのため、不定期になります




