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Ephemeral note ~少女が世界を手にするまで  作者: 瑞月風花
儚い記憶の物語(第二部)
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風吹き荒ぶ日・・・3


 ワカバはマンジュの町を走った。途中何度か喉から血が噴き出すのではないかと思うくらいに咳き込んで、喉の奥に鉄臭い味を覚えたが、足は止められなかった。この町にはキラ達がいるのだ。嫌だ。ワカバはそれだけを思い、走り続けた。足が言うことを聞かない。膝が崩れる。吹きなぶる風が砂埃を巻き上げて、そのままワカバを掬い上げるように風が腹と胸を支え、そのまま背後に消えていく。ワカバは本来受けるはずだった膝への衝撃を考え、あぁ、動き出しているんだ、と思った。記憶とともに、ワカバの中に時が戻ろうとしているのだ。


 ワカバの不安は大きくなる。転び損ねたのだが、膝は砂利に押し付けられ、じんじんと痛む。見ると膝頭から赤い血がぷつぷつと滲んできていた。こんなに壊れやすい器のくせに、壊れるのを恐れるなんて。


 そして、這うようにして立ち上がる。少しでも遠くに。


 知らない間に、頭上には開けた青空があった。建物がワカバの視界から切れていた。町の外れにやってきたようだ。しかし、背後からはワカバを追い詰める兵士が数を増やして迫ってきている。前方は崖なのだろうか。橋が架かっているが、途中で切れて修繕されぬまま対岸に突き出ている。ワカバは両手をついてその果てる道を眺めた。足を止めると咳が止まらなかった。胸が痛い。胸を押さえる。数十名の兵士がワカバの逃げ道が尽きたことを確信し、ゆっくりと歩みを詰めてくるのが分かった。


 彼らはワカバを恐れているのだ。こんなにも何も出来ない無力な者なのに、ワカバが振り返ると表情を強張らせ、一瞬足を止める。


 だから、群れをなし村を襲った。しかし、ここにいる人間がワカバの村を滅ぼしたのではない。あそこにいた人間たちはワカバが全て殺したのだ。だからここに集まった彼らは関係ない者達だ。ここにいるのはワカバと何も変わらない、臆病者の一人の集団。


 咳が落ち着くのを待って、ワカバは胸の前で拳を握りしめ、彼らと対峙した。


 知らない顔ばかりがワカバとの間を詰めてきている。ワカバはその間を少しでも広げようとゆっくりと後ろへと下がって行った。彼らはキラと同じくらいの齢か少し上くらいにしか見えないが、まるで肉食獣の捕らえた美味しい餌に群がろうとするハイエナや禿鷹のよう。まるで違う。同じだとは思いたくない。だが、記憶を辿り始めたワカバがそれを拒むのだ。


 彼は人間である、と。


 人間は少しずつ数を増やしていった。彼らはワカバが追い詰められて何も出来なくなるのを待っているのだ。隙を見て、美味しい餌を持つワカバを捕らえようと目を光らせているのだ。少しずつその気に押し続けられていたワカバの背後で小石が崖の下へ落ちる音が聞こえた。音は最後まで聞こえることなく儚く消えてしまった。恐怖以外の何物でもない物がワカバの心を支配した。絶望の音だ。そして、足元に風があった。頭の中に声が響く。


「奴らは悪魔だ。容姿に騙されるな。女、子どもの姿をしていてもそれは仮初めの姿」


そして、火が放たれた。あの時ワカバはその言葉を聞いている。


 ワカバは一歩だけ人間ににじり寄った。彼らは面白いように後ろへと退避する。ワカバはそれだけ大きくなったのだろう。あの時は立ち上がったワカバに彼らは向かい、ワカバは彼らを焼き尽くした。ワカバは彼らが魔女たちにしたことを彼らに再現しただけだった。それよりも、あの場所にいた者たち全員が望んだことだった。ワカバはそれを『トーラ』として叶えただけ。


 魔女を殲滅させようとする人間たち。そして、襲い掛かってきた人間たちに死を望む魔女たち。

だから、世界が灰色と黒、そして、赤に染まった。それでもワカバは一角だけ色の付いた場所を残していた。紫色の粒々の花が咲く、ラベンダーの畑が遠くに揺れていた。あの中には人間のすることに異議を唱え、ワカバを庇った人間がいるのだ。そして、彼は目を覚ます。気を失っていたあの男を助けてあげたのに、彼は「この悪魔め」と言葉を放つ。


 同じ言葉を魔女たちを惨殺した人間たちに吐き出したばかりだというのに、彼は銀色に輝く剣を突き上げてワカバに向かい走ってきたのだ。


 透き通るような金色の髪に空色の瞳をした男だった。ワカバはそれらをきれいだと思っていた。しかし、彼はそれらを憎しみに穢して走ってくる。あんなにきれいだったのに……。きれいだと思ったのに……。あんなにも淀み、輝きを失ってしまうなんて。


 そこにワカバの意志がなかったわけではない。やっぱりラルーの言葉も嘘ばかりで出来ていたのだ。「あなたは何も悪くない」嘘に決まっている。あの人間の言葉が正しいのだ。


 ワカバはその全く美しくなくなった男を消し去った。


 そして、やっと認識した。『わたし』は、『魔女』なのだと。


駒の一人が名誉ある一歩を踏み出す。おそらく、ワカバの気を紛らわせてその隙を狙い撃とうとしているのだろう。後ろの方で口を隠し目配せをしている駒が、彼を操り、さも重要任務を与えたかのような真剣な表情で、前に突き出したのだ。ワカバは足元にあった風に呟いた。ワカバも人間たちに倣い、そっと気付かれないように策略を巡らせた、ということだろう。


「あなたの力が強く大きく働いた時はいつのこと?」


ワカバにもこの風がどのくらい大きくなるのかは分からなかった。ただワカバはその風のしっぽを摘み上げるだけ。風が一本の細身の剣のように可視化され、天を突く。ワカバの唇が歪む。風は思っていたよりも強く大きい。そして、躊躇なくそれが振り下ろされた。小さな魔法だ。ラルーが言うように蜃気楼のようにすぐに消え去ってしまうもの。


 しかし、それは幻影なんかではなく、突き出された男にぶつかり、彼を切り裂く。赤いものが飛び散る。低い唸り声とどよめきが辺りを占めた。彼らが見つめる先に立つ魔女は、その唇に微笑みを湛えている。


 そう、あなたは〝小さな〟鎌鼬だったのね。いいわ、わたしがもっと大きくしてあげる。


ワカバの脳裏にはそんな言葉が現れた。それなのに、どうしてこんなにも膝が震えるのだろう。どうして顔を覆いたくなるのだろう。ワカバはそれが不思議で仕方がなかった。ワカバはあの恐ろしい魔女なのに……。頬に触れた両の手が温かいものに濡れる。そして、零れていく。風が増幅する。ワカバは震える膝を折って座り込んでしまった。涙が掌から零れて、地面を濡らす。


 涙は拭っても拭っても流れ落ちていき、どうしようも止まらない。人間の殺し方はいくらでもあった。そして、鎌鼬を無数にも大きくもすることも出来た。


 それでも、人間たちは、ワカバの涙には気付かなかった。ただ、自分勝手なとても騒々しい音をたてるだけ。悲鳴や喚き声、怒鳴り声、そして、人と人がぶつかる音。逃げる者、押し退ける者、混乱に似た何か。そして、指揮を取る声。


 ワカバはこれらの騒々しさが大嫌いだった。これらはワカバを不安にする、恐怖に導く、そして、何よりも全てを奪う音なのだ。だから、あの時あの場所にあったものを全部作り変えればいいと思った。


 でも、何かが邪魔をした。恐怖とか不安以外のもので、ワカバが持ち得なかったものがワカバの胸の奥で疼いて、トーラを制御していた。全てを消すことが出来なかったのは、体が小さかったからなんかではない。



 ワカバの中にある、この得体の知れない何か(・・)のせいだ。




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