風吹き荒ぶ日・・・2
シャナが言った。「ここはすぐにあなたを狙う人でいっぱいになる」と。だからワカバはみんなから離れたのだ。ただ、それだけだった。ワカバは不安になって逃げただけ。
しかし、自分が何に恐れているのかに気付き、恐ろしくなった。ワカバの恐れているものは、ワカバを狙う人間なんかではないのだ。ワカバの恐れは、ワカバ自身だった。
けれども、どこへ行けば良いのか見当もつかない。人の少ない方へ行けば町の外に出るだろうということくらいで、どこが安全なのか分からない。ワカバは路地に隠れながら、震える足に力を入れて歩くしか出来なかった。
どんな人間からも離れなければならない。もし、あの時のように……なったら……。それだけがどんどんと増幅している。
それなのにあの男に見付かった。あの銃を持った男だ。そして、男はワカバを見るなりその引き金を引いたのだ。銃弾が当たると目を瞑った時に時が止められたことにワカバは気が付いた。そして、聞き慣れた声。開かれた瞳の先にあるのは足元に転がった鉛の礫だった。
「わたくし、無駄に命を奪うのは好きじゃありませんの」
厳しさを含むその声はぴんと張った糸のように張り詰められていた。男が声を絞った。驚いた表情を浮かべながらも、彼が次手を仕込む様子が分かる。
「奇遇じゃな……わしもじゃ」
「あなたの仕事に遂行義務がもうないことは、もうお伝えしたはずですわ。手を引くべきでした」
「お前が消したのか?」
誰の話をしているのか、ワカバには分からなかった。しかし、ラルーは沈黙を保った。その沈黙が、否定の意味を含まないというふうにとれた。
「そうなんじゃな?」
「ラルー……」
そして、ラルーはこの男を消そうとしている。ワカバは真っ直ぐに獲物に注がれるラルーの殺気を逸らしたくてラルーに声を掛けた。しかし、ラルーは答えてくれなかった。ラルーにとって人間など蟻んこを踏み潰すよりも簡単に消し去ってしまえる存在なのだ。ワカバはそれを十分によく知っていた。
「ラルー……お願い」
どこから魔法が発動するかは分からない。念じるだけで発動することもある。腕を振り上げて発動することもある。呪文にからくりがあることもある。今までの言葉の中に練り込まれていたのかもしれない。だから、止めたいという思いでラルーの腕を抱きしめた。魔法を解除することが出来るのはその魔法を作った者だけ。そして、その術者がいなくなった時だけ。ラルーがやっとワカバを見てくれた。
「わたしの望まないことはしないのよね」
ラルーが悲しそうに「そうでしたわね」と答えた。そして、大きく深呼吸をしたラルーがいつものように、人間を見下して忠告した。
「せっかく二度も助けて差し上げた命を無駄になさるなんて。愚かなことですわ。次の銃弾はあなたの心臓へ向かうように念じていますので、ご注意ください」
男がごくりと生唾を呑み込んだ。しかし、ワカバはそれが出来ないことを知っている。もちろん、放たれた後の銃弾には干渉出来る。しかし、彼が起こそうとすることに対して何か干渉するのなら……出来るとすれば、例えば、あの日。キャンプの宿屋で鳥が羽ばたいた日。彼を助けたはずの時に助けなかった事実を入れる。例えば、彼を憎む誰かの望みを引き受ける。魔女は……トーラを持つ者は願いを、人間の願いを受けて初めて恐ろしい力を放つ。
止まっていた時が動くのをワカバは感じた。
教えてもらったことがある。オレンジ色の光が満ちる、小さな屋根裏で。ワカバと長老ラシンはそこで暮らしていた。そう、ときわの森にあった魔女の村で。ラシンが不安がるワカバに教えたのだ。これから未来に起きる惨劇に震えているワカバに、何も怖がることはないのだと教えてくれた。これは誰かが願った結果であって、未来を変えていくのは人間なのだからと。トーラを持つワカバには何も出来ないのだと。ラルーも同じだ。ラルーだって、トーラの娘のラルーだって出来ない。
「お前らはこの世に存在してはいけないんじゃ」
男が唸った。しかし、構えたままの銃の引き金に手を掛けようとはしない。ワカバはラルーの腕にすがるようにして立っていた。ラルーの囁きが耳に届いた。見上げた先にラルーの微笑む顔があった。しかし、その微笑みはワカバの好きな大丈夫の微笑みではない。
「あなたの望まないことはしないのではなくて、出来ませんのよ」
目頭が熱くなった。ラルーのその声は草臥れていて、瞳に映る光には陰りが見える。そんなラルーをワカバは初めて見た。ラルーは全ての希望を捨て去ってしまったような瞳で、その言葉を誰かに向けた。
「わたくしは、あなたが羨ましかったのです。だから、あなたなんかいなくなる未来を描きました」
ラルーのその言葉が重く圧し掛かってきた。それでは、ワカバはここであの男に撃たれて死ぬ、ということなのだろうか? ワカバはラルーの腕をぎゅっと掴みながら、胸の奥に痛みを感じていた。ラルーがワカバに寄り添ってくれないのだ。ラルーが離れていく。ラルーの表情が険しくなっていく。ワカバは離れて行ってしまいそうなラルーの腕をもう一度掴み直した。力を込めて決して離れないように、だ。ラルーが優しく微笑んだ。そして、ラルーは寂しそうな影をその瞳に映し、ワカバはしっかりとそのラルーを見つめた。
「いいえ、トーラを恨み、トーラの作った世界を滅ぼすためにあなたを利用したのです。そして、あなたにも同じ苦しみを与えようとしたのかもしれませんわ」
頷いてはいたが、その意味はワカバにはよく分からなかった。だから今それがどうしたのだというの? 今は、彼をラルーに殺させたくないのだ。
「でも、罰が当たったのでしょうね。まさかそれが狂わされるなんて思いもよりませんでしたわ」
「お願い……」
ワカバの胸が締め付けられる。ラルーが消えてしまうと思った。もしかしたらもう二度と会えないのかもしれない。出来ないのならしなくていい。わたしを連れて行ってくれれば、あの男も消えないでしょう? ラルーも消えないのでしょう?
時輪の森に戻れば、これ以上何も消えないのよね?
ひどく悲しそうなラルーがワカバの目に映る。
「いいえ、これはわたくしの望んだ結果です。その『時』が崩壊するだけのこと。だから、あなたが生きるべき時間に戻りましょう。だから消えるのです。申し訳ありませんでした。……ワカバ。だから、どうか」
路地に銃声が響くとともに、掴んでいたものが消えてしまった。縋っていたものが消えると、ワカバは膝から力が抜け、そのまま地面に尻もちをついてしまった。つんざめく銃声と共にあの男も、ラルーもいなくなってしまった。ラルーはいつも煙のようにいなくなる。最後に見たラルーは微笑んでいた。ここはどこの路地なのだろう。地面には銃弾が二つ転がっている。それ以外は何もない。風が悲鳴を上げて路地をかけていく。たくさんの悲鳴に取りつかれて気が狂いそうだった。耳を塞いでも、目を瞑っても人の叫び声が聞こえてくる。ワカバの時間がそこから動いていない。胸の奥にずんという痛みが起きた。
そもそもワカバは村にいた人間も魔女も全てを焼き尽くした恐ろしい魔女であり、人間がワカバを恐れることがあったとしても、ワカバが彼らを恐れることなんてさらさらないのだ。銃口を向けられて、『ワカバ』は何を思った? ワカバはこめかみを両手で押さえた。
わたしはあの男を、助けようと願った?
ワカバはいつも目の前にある状況から逃げたかっただけなのだ。だから、あの男が消えた。ラルーはそれを知っていた。
路地の外ではナイフのような日射しがワカバを待ち構えていた。そして、日射しの中から人間が生まれては消えていく。その中の一人が、路地の奥で蹲るワカバを見つけ、騒ぎ出した。騒ぎに顔を上げ、目を見開いたワカバの視界に映ったのは一人の兵士だった。
皮を鞣した揃いの胸当てを付けた兵士。その胸には蛇の文様。
あの日と同じ変わり映えのない出で立ちの兵士が叫んだ。
「魔女だっ。いたぞっ」
それは聞き慣れたワカバへ対する呼び名だった。




