風吹き荒ぶ日・・・4
ワカバの足下にはワカバの合図を待つ風が、人間たちを吹き飛ばすには十分過ぎる大きさになって待っていた。
涙が止まらない。どうして、こんなに悲しいのだろう。
キャンプで見たあの赤ん坊と母親のせいかもしれない。母親から生まれてきた赤ん坊は、あんなに無力で、いつ抱えられているその手を離されるか分からないのに、あんなにも無防備に『母親』というものを信じきっていた。そして、母親も何に変貌するか分からない赤ん坊を愛し抱き続けている。
赤ん坊を見つめている母親のあの安らかなことといったら、麓の町で見た聖女様と同じくらい真っ直ぐで、清らかなものだった。ワカバもあの木の麓で母親があんなに安らかに見つめてくれていたのだろうか。あの木洩れ日はワカバの母の眼差しだったのだろうか?
でも、『わたし』は恐れられる魔女になった。人間たちを消してしまわなければ、ここで、終わる。
「ワカバっ」
ワカバは耳を疑った。確かに 聞こえるはずのない人間の声がはっきりと耳に届いていた。顔を上げたワカバの遠い視界の奥にキラがいた。キラは兵隊の群れを押し退けようと必死だった。それを止めようと手を伸ばす兵士は手を伸ばしたまま全く動かない。そして、どんどん近付いてくる。駆けてくる。恐怖を感じた。
人間を傷付けたわたしを……約束を破ったわたしを……悪魔だと罵るの?
「来ないで」
叫んだつもりだが、その声はキラには届かなかった。風が声をかき消したのだ。キラが来る。
「きれい、それ何?」
「くれる?」
「何でも願いを叶えてあげる」
じゃあ、姉さんを護って……
深い青の瞳……わたしが欲しがった涙を流していた者。ルオディック……だ。だから、わたしは、あの冷たい場所で『キラ』に声を掛けた。あなたは誰? わたし、あなたを知っている。いとおしくて、届かなくて、悔しくて、寂しくて、ただ涙を流していた者。わたしが、ワカバになる以前に、あなたはわたしに出会い、願った。
「姉さんを護って」
だから、イルイダは存在した。
だから、ラルーはあの時わたしをぎゅっと抱きしめて、あなたは悪くない、と言った。全てはこのラルーが悪いのですと。
『わたし』を傷付ける世界を消したかった。しかし、それが怖いと思えた。涙が止まらなかった。それは、イルイダのいない世界だったから。
『わたし』のいる世界に盤外の駒であるイルイダはいない。世界はわたしが生まれたことにより、『トーラ』から離れたのだ。だから、本来それを止めるためにラルーが、銀の剣の所持者でなければならなかった。わたしと共にあると言っても、トーラは娘であるラルーを、わたしに殺させはしない。
本来ならあの時、わたしはこの世界と共に消えるはずだった……。それはラルーが望んでいたこと。ラルーはこの世界を崩壊させたがっていたのだから。わたしが存在する限り、この世界はラルーの望む世界ではない。
それなのに、ラルーは刺さなかった。刺せば世界は消えていた。望みは叶ったはずなのに。いや、看視者としての役目を思えば、誰か人間にこの世界を望ませる必要があったはずだ。それがルオディックだったとした場合、確かにイルイダは存在しただろう。世界も崩壊しない。わたしが消えるだけ。
おかしい。
ワカバはキラを見つめた。でも、ワカバが存在しているのなら、ルオディックは『キラ』になる必要がなかったはずだ。ルオディックはルオディックのまま生きていけばいいはずなのに。それなのに、キラはあんな願いをワカバに託した。だから、どうしてって尋ねたかった。
「わたし、ルオディックの願いを覚えているのっ」
それが今どういう意味でワカバに問われているのか、おそらくキラには分からない。しかし、彼の歩みが止まった。
ワカバとイルイダと彼が一緒にいるこの時は歪んでいるのだ。なぜなら、彼の姉は『母』が消した世界にしか存在出来ないトーラの末裔なのだ。彼女の居場所に生まれた存在がルオディックだったのだから、居場所を与えなければ彼女は生きていけない。
彼の願いは姉を護ること。願いはトーラに託されている。しかし、それは託されたまま動いていないはずだ。要するに『その時』が来なかったのだ。ワカバはまだキラの願いを叶えていない。だから、ルオディックではなく『キラ』がある。ラルーの言った時の崩壊の意味がやっと分かった。そんなこと出来るのはラルーしかいない。ラルーが歪ませていたのだ。時を澱ませあり得ない時を生み出す。幻想を紡いだのだ。しかし、無理やりねじ込んだ世界がずっと続くわけがない。トーラ自身ではないラルーにそれほどの力はない。
本来、姉が生きるためには、ルオディックとワカバが生まれなかった世界に戻すしかない。トーラがすべきことは人間の望みを叶えること。
『彼』を消してしまいたくない……そう思った。………でも、『ワカバ』はキラに消されたくないんだ……。
あれだけ止まることを嫌がっていた涙が止まるのを感じた。一歩後ろには小石を消した崖がある。ワカバの足が崖下へと向かう虚空ににじり寄った。小石が落ちた場所へ。
足元に集まった風が吹き上がった。ワカバが声を発したのだ。
「わたしが落ちた後に誰も続けさせないように、あなたは大きく優しい風になって」
震える足を蹴飛ばして、ワカバは崖から飛び降りた。キラの手が見えた。その手はワカバに触れることなく、遠く小さくなっていった。
魔女が消してしまうことを恐れる者はキラだ。看視者に選ばれるべき現在の勇者はキラに他ならない。ワカバはトーラなのだ。ディアトーラ領主にとって、トーラというものは、国を滅ぼしかねない魔女にしか過ぎない。ルオディックとイルイダが生きるためだけなのなら、彼が勇者になればいいだけのこと。魔女を消した英雄はその記憶を背負いこの世に留まり続けるのだから。
邪魔なものは、消してしまわなければならない。




