第9話 残高百八十七万円
第9話 残高百八十七万円
翌朝、由紀子は仕事へ行くときと同じ時間に息子夫婦の家を出た。空は薄く曇り、歩道脇では紫色のツツジが茶色い花を落とし始めていた。由紀子は紺色のスプリングコートの内側へ、小花模様の布袋を安全ピンで留めた。
布袋の中には、銀行印、マイナンバーカード、介護保険証、年金額改定通知書が入っている。夫のメモも四つ折りにして、銀行印の隣へ入れた。財布の現金は五百二十円で、そのうち二百二十円は帰りのバス代だった。
「今日は腰が痛むから、仕事を休ませてもらいます」
朝食の席でそう告げると、真由美は食パンへイチゴジャムを塗る手を止めた。由紀子の皿には何も塗っていないパンが一枚あり、その横には冷えたカルピスソーダが置かれている。直樹は新聞を読みながら、休んでばかりでは給料が減ると口を挟んだ。
「病院へも行ってきます。腰の薬をいただかなくてはいけませんから」
「診察券は持っていますか? なくさないよう、私が確認しましょうか」
「自分で持っています。子どもではありませんから」
由紀子は無糖の紅茶で糖尿病の薬を飲み、食器を流しへ運んだ。真由美は布袋へ何が入っているのか確かめるように何度も視線を向けたが、由紀子はコートを脱がなかった。玄関を出るときも、真由美は門の前まで見送りに来た。
「病院が終わったら、すぐ帰ってきてくださいね」
「ええ。寄るところがなければ、そうします」
由紀子は嘘をついてはいなかった。銀行へ寄るところがあるだけだった。角を曲がって家が見えなくなると、胸元の布袋へ手を当て、銀行印が入っていることをもう一度確かめた。
駅前の銀行は、老人ホームへ向かうバス停の向かい側にあった。自動ドアが開くと、冷房の乾いた空気と新しい紙のにおいが流れてきた。由紀子は番号札を取り、赤い長椅子の端へ腰を下ろした。
隣では、買い物袋を提げた年配の男性が硬貨を何度も数えていた。袋からは太いネギとフランスパンが飛び出し、足元には泥のついた長靴が置かれている。由紀子は自分のスニーカーへ巻いた粘着テープを隠すように、両足を椅子の下へ引いた。
「二百十七番のお客様、四番窓口へお越しください」
呼ばれた由紀子は、窓口の前へ進んだ。担当したのは、眼鏡をかけた三十代ほどの女性行員だった。由紀子が通帳とキャッシュカードを家族に預けたが返してもらえないと話すと、行員は表情を変えず、本人確認書類の提示を求めた。
「口座は私の名義です。残高と、これまでのお金の動きを確認したいんです」
「承知しました。キャッシュカードは、お手元にないのですね」
「息子の妻が持っています。暗証番号も教えてしまいました」
「ご本人様の意思に反して使われる可能性がある場合は、まずカードの利用を停止できます。お手続きを進めてもよろしいでしょうか?」
由紀子は、はいと答えた。行員はカードの利用停止を端末へ入力し、通帳についても紛失扱いで再発行できると説明した。暗証番号は新しいものへ変更し、再発行したカードは本人限定受取郵便など、安全な方法で受け取れるという。
「郵便は、今いる息子の家へ届くのでしょうか」
「登録されている住所へお送りすることになります。住所を変更される場合は、新しい住所が確認できる書類が必要です」
「では、カードはすぐ送らないでください。近いうちに自分の家へ戻る予定です」
行員は事情を詳しく聞き、上席の職員を呼んだ。後ろの相談室へ案内され、由紀子は丸いテーブルの前へ座った。窓辺には小さな観葉植物があり、葉の先にたまった埃が冷房の風で揺れていた。
「口座の入出金履歴は、どのくらいの期間をご希望ですか?」
「息子夫婦と同居する前から、今日までをお願いします。定期預金もあったはずです」
「確認いたしますので、少々お待ちください」
上席の男性職員は書類を持って部屋を出た。由紀子は出された麦茶へ口をつけたが、冷たさが舌へ触れただけで味が分からなかった。テーブルの上に置いた両手は、指を組み直しても震えが止まらなかった。
待っている間、由紀子は正一と最初に定期預金を作った日のことを思い出した。直樹が中学校へ入った春で、正一は給料が上がった分を使わず、毎月一万円ずつ積み立てようと言った。その帰りに二人で駅前の立ち食いそばを食べ、海老の天ぷらを半分ずつ交換した。
「十年続ければ、百二十万円だな」
「利息もつくわよ」
「そのころには、海老天を一人一本食べられるくらいになるか」
正一はそう言って笑った。当時の通帳には、毎月同じ日に一万円が積み立てられていた。直樹の大学費用を払い終えたあとも、二人は老後のために少しずつ金を残した。
男性職員が、厚い書類の束を持って戻ってきた。先ほどの女性行員も同席し、由紀子の前へ普通預金と定期預金の履歴を分けて並べる。書類の一番上に記載された現在残高を見て、由紀子は数字の桁を指で追った。
「一、十、百、千、万……」
百八十七万四千二百六十円。由紀子は声に出し、もう一度最初から数えた。見間違いではなく、残っている金は百八十七万円余りだった。
「おかしいです。普通預金と定期預金を合わせて、千二百万円以上あったはずです」
「定期預金は三月二十八日付で中途解約されています。解約金は、こちらの普通預金口座へいったん入金されています」
「私は解約していません」
「ご家族が委任状を持参し、代理人として手続きをしています。こちらが、保存されている委任状の写しです」
由紀子は差し出された紙を見た。確かに自分の名前が書かれ、自分の印鑑が押されている。同居から三日目、介護費の手続きだと言われて署名した書類の一枚だった。
「この字は、私が書きました。でも、定期預金を解約する書類だとは聞いていません」
「窓口では、代理人の方へ委任内容の確認を行っています。ただ、ご本人様が内容を理解せずに署名されたというお申し出については、銀行だけで直ちに判断できません」
「本人へ電話はしなかったのですか?」
「委任状と本人確認書類の写しなど、当時提出された資料を調べる必要があります。内部の記録も確認いたします」
男性職員は、すぐに銀行側の責任や返金を約束することはできないと説明した。一方で、本人が同意していないと申し出た事実は正式に記録し、同じ代理人による新たな手続きは慎重に確認するという。由紀子は委任状の写しを持ち帰れるよう依頼した。
「解約されたお金は、どこへ行ったのですか?」
「入出金履歴を、一緒に確認しましょう」
女性行員が、日付と金額へ定規を当てた。定期預金の解約金が入った翌日、三百万円が直樹名義の口座へ振り込まれている。その二日後には自動車販売会社へ百八十万円、住宅ローンを扱う金融会社へ二百四十万円が送金されていた。
「この自動車販売会社で、息子夫婦は新しい車を買っています」
由紀子は、同居するときに迎えに来た黒い車を思い出した。直樹は中古で安く買ったと言っていた。助手席の革はまだ硬く、車内には新車特有の接着剤と樹脂のにおいが残っていた。
さらに履歴を追うと、旅行会社へ七十八万円、クレジットカード会社へ数十万円ずつの送金がある。直樹名義の口座へ移された金額も、合計で四百万円を超えていた。由紀子には何一つ覚えがなかった。
「旅行へ行く話なんて、聞いていません」
「振込先の名称と金額は履歴に記載されています。ただし、その後、実際に何を購入したかまでは、こちらでは分かりません」
「この金額は、私が払ったことになっているのですか?」
「この口座から送金されています。誰が端末を操作し、何の目的で支払ったのかは、今後確認が必要です」
女性行員は、インターネットバンキングの利用履歴も調べた。由紀子の名義で、同居開始後に新しく登録され、真由美の携帯電話番号が連絡先として設定されている。年金とパート代が入金された翌日には、ほぼ全額が直樹名義の口座へ移されていた。
「私はインターネットバンキングなんて使えません。登録した覚えもありません」
「登録時の資料と、認証に使われた情報を調査します。今後利用できないよう、こちらも停止いたします」
「お願いします。私以外の人が、もう一円も動かせないようにしてください」
由紀子は椅子へ座り直した。腰の痛みはあるはずなのに、どこが痛いのか分からなくなっていた。目の前の数字を追うたび、正一と積み立てた年月が、数十万円、数百万円という単位で切り取られていった。
「千二百万円あったのよ。お父さんが暑い日も寒い日も働いて、私も毎月、残った小銭まで瓶へ入れて貯めたの」
由紀子は夫のメモを布袋から出した。書かれているのは三行だけで、預金のことには触れていない。それでも紙を握っていると、正一が窓口の隣に座り、眼鏡を外して履歴を確かめているように思えた。
「息子だから、最後には相続すると思っていたのでしょう。でも、私はまだ生きています」
「はい。この口座のお金は、高梨様のものです」
女性行員がはっきり答えた。由紀子はその言葉を聞き、閉じかけていた目を開いた。自分の金であるという当たり前のことを、息子夫婦の家では誰も言わなかった。
「今できる手続きを、すべてしてください」
「承知しました。キャッシュカードとインターネットバンキングは利用停止にしています。通帳は再発行し、暗証番号も変更しましょう」
「年金とパート代が入る口座も、変えたほうがいいですか?」
「新しい口座を作り、振込先を変更する方法もあります。ただし、ご家族へ知られない管理方法については、支援者の方とも相談してください」
由紀子は遠藤の名刺を取り出した。男性職員は本人の同意を確認したうえで、遠藤へ連絡してもよいと話した。由紀子はその場で公衆電話を借り、銀行にいることと、預金が大きく減っていたことを伝えた。
「百八十七万円しか残っていませんでした」
電話の向こうで、遠藤は短く息を吸った。今は息子夫婦の家へ一人で戻らず、銀行内で待つように言う。弁護士や地域包括支援センターへ相談し、安全な場所を確保する必要があるという。
「でも、着替えも薬も、夫の遺影もあの家にあります」
「取りに戻るときは、一人で行かないでください。由紀子さんが悪いことをしたのではありませんから、慌てて帰る必要はありません」
「分かりました。ここで待っています」
電話を切ると、銀行員が温かいほうじ茶を持ってきた。小さな紙皿には、個包装のクラッカーが二枚載っている。由紀子は朝から食パン一枚しか食べていなかったため、礼を言って一枚ずつ口へ入れた。
クラッカーは乾いており、噛むたびに細かな粉が舌へ残った。それでもカルピスソーダのような強い甘さはなく、温かい茶と一緒にゆっくり腹へ落ちた。由紀子は食べ終えた袋も捨てず、今日の記録として布袋へしまった。
手続きが終わったころには、昼を過ぎていた。再発行された通帳は、その場で由紀子へ渡された。表紙を開くと、自分の名前と百八十七万四千二百六十円という残高が印字されていた。
「この委任状の件は、警察や弁護士にも相談したほうがよいでしょうか?」
「私どもから法的な判断はできませんが、ご本人が内容を知らずに署名し、多額のお金が移されているのであれば、早めに専門家へ相談することをお勧めします」
「家族でも、相談していいのですね?」
「相手がご家族であっても、高梨様のお金であることは変わりません」
由紀子は通帳と履歴を透明なファイルへ入れた。委任状の写し、利用停止の受付書、新しい暗証番号を記した紙も、それぞれ別の封筒へしまう。暗証番号には、直樹の誕生日ではなく、正一と結婚した日の月日を選んだ。
銀行を出ると、雲の隙間から日が差していた。駅前のベンチには、黄色い花をつけたエニシダの鉢が置かれている。由紀子は遠藤が迎えに来るまで、ベンチの端へ座って待つことにした。
財布には、昼食代として残した三百円があった。自動販売機には、カルピスソーダ、水、無糖の茶、缶コーヒーが並んでいる。由紀子は百二十円の水を選び、自分の手で硬貨を入れた。
取り出し口へ落ちたペットボトルは、指が痛くなるほど冷たかった。蓋を開けて一口飲むと、甘くも苦くもない水が喉を通った。由紀子は急いで飲まず、口の中を湿らせるように少しずつ味わった。
「これだけのお金を、何に使ったの」
由紀子は透明なファイルへ問いかけた。退職金、生命保険金、定期預金、年金、パート代。その一つ一つには、正一が雨の日に濡らした作業着や、由紀子が特売日に買った大根や、穴が開くまで使った台所布巾がつながっていた。
息子だから、困っていれば助けたかもしれない。車が必要だと相談されれば、金額を聞いたうえで一部を貸したかもしれない。しかし直樹は何も話さず、介護の手続きだと偽って署名させた。
由紀子は水のボトルを膝の上へ置いた。自分が鍋を焦がしたこと、同じ話を二度したこと、腰を痛めて仕事を休んだことを、一つずつ思い浮かべる。どれも、千万円を奪われてよい理由にはならなかった。
「私は忘れることがあります。でも、盗られてよい人間ではありません」
通りかかった人が振り返ったが、由紀子は目を伏せなかった。もう一口、水を飲んだ。甘くない水は、口の中へ何も残さず、乾いていた喉だけを静かに潤した。
遠藤の車が銀行の前へ停まった。助手席から訪問看護師の木下が降り、由紀子の姿を見つけると真っすぐ歩いてきた。由紀子は二人に支えられる前に、自分でベンチから立ち上がった。
「通帳を取り戻しました。でも、お金は百八十七万円しか残っていませんでした」
「書類は全部ありますか?」
「ここにあります。これから、どうすればいいか教えてください」
遠藤は透明なファイルを受け取らず、由紀子が自分で持てるよう、布袋の口だけを閉じた。木下は体調を確かめ、今日は安全な場所で休み、食事と薬を取ってから次のことを決めようと話した。
「息子夫婦の家へ戻らなくてもいいのですか?」
「戻るかどうかも、いつ戻るかも、由紀子さんが決めていいんです」
由紀子は胸元の布袋を押さえた。中には再発行した通帳、夫のメモ、銀行印が入っている。千二百万円は戻っていないが、自分で決める権利まで失ったわけではなかった。
「今日は戻りません。夫の遺影と薬は、皆さんと一緒に取りに行きます」
遠藤がうなずき、木下が車の扉を開けた。由紀子は乗り込む前に、飲みかけの水をもう一口飲んだ。鍋を焦がしたことと、財産を奪われてもよいことには、何の関係もなかった。




