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第10話 帰りたくないと言った日

第10話 帰りたくないと言った日


 銀行で残高を確認した日の夜、由紀子は地域包括支援センターが確保した一時避難先で眠った。市内にある高齢者向け施設の空き部屋で、六畳ほどの洋室には、白いベッドと小さな冷蔵庫だけが置かれている。窓辺には職員が持ってきた黄色いガーベラが一輪飾られ、消毒液のにおいに混じって、花の青い茎の匂いがした。


 夕食には、白身魚の煮つけ、ホウレン草のおひたし、薄味の味噌汁が出た。由紀子は味噌汁の湯気へ顔を近づけ、温かい匂いを何度も吸い込んだ。誰かに許可を求めなくても、目の前の食事を全部食べてよいことが、すぐには信じられなかった。


「ご飯は半分にしてあります。主治医の先生からいただいた情報に合わせましたが、足りなければおっしゃってください」


 職員は由紀子が食べ始めるまで待ち、薬を飲むための水も置いてくれた。カルピスソーダを勧めることも、残さず飲んだか確かめることもしなかった。由紀子が水を半分残しても、何も言わずに食器を下げた。


 部屋へ戻ると、棚の上に夫の遺影が置かれていた。遠藤と訪問看護師の木下が息子夫婦の家へ同行し、薬、衣類、通帳の関係書類と一緒に持ち出してくれたものだった。直樹と真由美は仕事で不在だったため、二人にはまだ由紀子が預金の残高を知ったことが伝わっていない。


「お父さん、千万円以上もなくなっていたわ」


 由紀子はベッドの端へ座り、正一の遺影へ話しかけた。暖房の音が低く響き、廊下では職員が食器を載せたワゴンを押している。眠る前に薬を確かめると、曜日別のケースには木下が分けてくれた錠剤がきれいに並んでいた。


 枕へ頭を載せても、直樹が幼かったころの姿ばかりが浮かんだ。熱を出した夜にリンゴをすりおろして食べさせたこと、小学校の運動会で転んだ膝へ赤い消毒薬を塗ったこと、就職祝いに正一と腕時計を買ったことまで覚えている。その息子が、母親の定期預金を解約して車や住宅ローンへ使っていた。


「いつから、私のお金を自分のものだと思うようになったのかしら」


 遺影は何も答えなかった。由紀子は夫のメモを枕の下へ入れた。卓上時計の秒針がない部屋は静かすぎて、かえってなかなか眠れなかった。


 翌朝、由紀子は市役所の無料法律相談へ向かった。遠藤が付き添い、銀行でもらった入出金履歴、委任状の写し、医師の診療情報、由紀子がカレンダーの裏へ書いた記録を、大きな透明ファイルへまとめてくれた。由紀子は紺色のスプリングコートに、白いブラウスと灰色のズボンを合わせていたが、ブラウスの襟に残った黒ずみが気になり、何度も指で隠した。


 市役所の前庭では、八重桜が丸い花をつけていた。風が吹くと、濃い桃色の花びらが石段へ落ちる。清掃員が箒で集めても、次の風が吹けばまた同じ場所へ散った。


「何度掃いても落ちてくるのね。あの方も大変だわ」


 由紀子が足を止めると、遠藤も隣で八重桜を見上げた。急がなくてよいと答え、階段では由紀子の腕を引っ張らず、手すりを使って上がるのを待った。由紀子は自分の足で一段ずつ上り、相談室の前にある長椅子へ座った。


「高梨由紀子さん、どうぞお入りください」


 相談室で待っていたのは、六十五歳の宮原聡という弁護士だった。灰色のスーツの肘には小さなしわがあり、机の端には使い込まれた革の手帳が置かれている。紙コップのコーヒーは冷めており、蓋の穴から苦い香りだけが残っていた。


「今日は三十分の相談枠ですが、すべてを三十分で話し終える必要はありません。まず、今いちばん困っていることから教えてください」


 宮原はそう言い、由紀子の前へ白い紙を置いた。由紀子は預金が千二百万円以上あったことから話すべきか、カルピスソーダの箱から話すべきか迷った。口を開いても言葉が出ず、透明ファイルの角を何度もそろえた。


「息子に、お金を取られました」


 ようやく出た声は、自分で思っていたより小さかった。宮原は先を急かさず、日付も金額も後から整理できると言った。由紀子は同居することになった経緯から、通帳を預け、介護の手続きだと思って書類へ署名したことまで、順番に話した。


「私が名前を書いたんです。中身をよく読まなかった私が悪いのでしょうか」


「署名したという事実は重要です。しかし、何の書類か偽って説明され、内容を理解しないまま署名したのであれば、それだけで預金を自由に使ってよいことにはなりません」


「息子は、いずれ自分が相続する金だから、先に使っただけだと思っているようです」


「相続は、人が亡くなったあとに始まります。由紀子さんは生きています。由紀子さんの財産は、現在も由紀子さんのものです」


 宮原は銀行の入出金履歴を日付順に並べた。定期預金の解約、直樹名義の口座への振り込み、自動車販売会社と旅行会社への送金を、赤い付箋で分けていく。金額を足してもすぐには合わない部分があり、現金で引き出された記録も複数あった。


「銀行が出してくれた資料だけで、取り戻せるでしょうか」


「これだけで、すべてが決まるわけではありません。直樹さん夫婦が何の権限でお金を動かし、何に使ったのかを確認する必要があります」


「家族のことでも、警察へ相談できますか?」


「できます。ただし、親族間の財産犯罪には刑法上の特例が問題になる場合があり、事実関係によって扱いが変わります。民事での返還請求も含め、初めから一つの方法だけに決めず、証拠を集めましょう」


 宮原は難しい言葉を使うたび、由紀子にも分かる表現へ言い換えた。何をすぐにできるのか、何は調査しなければ分からないのかを、別々の紙へ書く。由紀子が一度聞き返しても、物忘れのせいだとは言わず、同じ説明を繰り返した。


「カルピスソーダのことも、お話ししたほうがいいですか?」


「お願いします。飲むよう勧められた時期と、糖尿病の数値が悪化した時期も分かれば教えてください」


 由紀子は、三箱七十二本のカルピスソーダが部屋へ運び込まれたことを話した。糖尿病だと伝えても毎日一本ずつ渡され、飲まなかった日には空き缶まで確認された。食事がないため、空腹のまま薬を飲み、甘い炭酸飲料で腹を満たした夜もあった。


「医師から渡された検査結果が、こちらにあります」


 由紀子は前回と今回の数値が記載された紙を差し出した。ヘモグロビンA1cは六・八から八・九へ上がり、体重は五キロ近く減っている。宮原は数値を書き写し、診療記録の開示について主治医へ相談するよう勧めた。


「これは家族間の行き違いだけではありません。通帳や収入を管理して自由に使わせない行為は、経済的虐待に当たる可能性があります」


「甘い飲み物のことは、どうなるのでしょう」


「糖尿病だと知りながら、本人が拒否している飲料を繰り返し与えていたのであれば、身体的虐待の可能性も調べる必要があります。ただし、真由美さんが由紀子さんの健康を害する目的だったと断定するには、証拠が必要です」


 宮原は、必要な資料を一覧にした。銀行の取引履歴、委任状の原本や写し、診療記録、由紀子自身の記録、飲料の箱や缶の写真、購入履歴、直樹夫婦との会話の録音などである。録音についても、自分が参加している会話を記録し、編集せず元のデータを残すよう説明した。


「真由美さんは、私が飲んだ空き缶を毎晩数えていました。その場面は録音できていません」


「録音がない出来事も、日付と状況を書いておいてください。証拠は一つだけで判断されるとは限りません」


「私が書いた、こんな汚い字でもよいのですか?」


「きれいな字である必要はありません。その日に自分で書いた記録であることが大切です」


 由紀子はカレンダーの裏へ書いた紙を見た。鉛筆の芯が折れたところから眉墨で書かれ、文字の太さが変わっている。宮原はそれも生活の中で記録したことを示す一つの事情になると説明し、原本を由紀子が保管したうえでコピーを取ることにした。


「息子夫婦へ、今すぐ連絡しないでください。証拠を捨てられるかもしれません」


「承知しました。まず由紀子さんの安全を確保し、必要な資料を保存します」


「私は昨日、帰りませんでした。あの家で寝なかったのは、同居してから初めてです」


「昨夜は眠れましたか?」


「時計の音がしないと、かえって眠れませんでした」


 由紀子が答えると、宮原は手帳から顔を上げた。好きな時計を一つ持ち出してもよいのではないかと言う。由紀子は、北側の部屋の時計は真由美が置いたものだから、持っていきたくないと答えた。


「自分で選んだ時計を、新しい部屋へ置きたいです」


「では、その時計を買うお金も、由紀子さんの生活に必要な費用として考えましょう」


 相談時間を過ぎても、宮原は次にすることを紙へまとめてくれた。正式に依頼する場合の費用についても説明し、法テラスの民事法律扶助を利用できるか確認すると話した。由紀子は、相談料や裁判費用を勝手に決められるのではないと分かり、説明書を一枚ずつファイルへ入れた。


「今後の連絡先を、息子夫婦の家にしないでください」


「分かりました。由紀子さん本人と、同意をいただけるなら地域包括支援センターを連絡先にします」


「お願いします。息子に知られる前に、準備をしたいです」


 宮原は由紀子の承諾を得て、地域包括支援センターの社会福祉士へ連絡した。その日の午後、由紀子は遠藤と一緒に、佐伯智子という社会福祉士と面談することになった。智子は五十八歳で、焦げ茶色のジャケットに歩きやすそうな黒い靴を合わせていた。


 面談は、由紀子のパート先にある小さな相談室で行われた。由紀子が働き続けたいと希望したため、施設側が人目につかない部屋を貸してくれたのである。机には職員が飲み残した麦茶の輪染みがあり、窓辺には折り紙で作ったタンポポが飾られていた。


「今日は仕事を休んでも構いませんよ。ここへ来るだけでも、身体を使っていますから」


 智子はそう言い、紙コップへ水を注いだ。由紀子は休めば給料が減ると答えたが、智子は働くか休むかも本人が決めることであり、息子夫婦のために無理をする必要はないと話した。由紀子は午前中だけ働き、午後は面談に使うことにした。


「私を施設へ入れるために来たのですか?」


「違います。由紀子さんが、どこでどう暮らしたいのかを聞くために来ました」


「一人では危ないと、息子に言われています」


「一人で難しいことがあるなら、そこへ支援を入れます。家族と暮らすことだけが、安全な生活ではありません」


 智子は一時避難を続ける方法、自宅へ戻る方法、見守りのある高齢者住宅へ移る方法、新しい賃貸住宅を借りる方法を紙へ書いた。由紀子の収入、介護度、希望する訪問看護や訪問介護の回数も確認する。成年後見制度だけでなく、本人の意思を保ったまま金銭管理を支援する日常生活自立支援事業についても説明した。


「成年後見人をつけなければ、私はお金を管理できないのでしょうか」


「今の由紀子さんに、直ちに成年後見制度が必要だとは決められません。自分で決められる部分を残し、支払いの確認だけ手伝ってもらう方法もあります」


「通帳は、自分で持ちたいです」


「持てます。紛失が心配なら、保管場所を決め、訪問した支援者と一緒に確認することもできます」


 智子は由紀子から通帳を取り上げず、透明なファイルへ戻した。銀行印と通帳を別の場所へ保管する方法も教える。由紀子は、小さな鍵付きの箱を買い、自分で鍵を持ちたいと答えた。


「訪問看護には週二回来ていただきたいんです。薬と血糖値を一緒に見てほしいから」


「主治医と木下看護師からもお話を聞いています。月曜日と木曜日を基本にできるか調整しましょう」


「ケアマネジャーさんやヘルパーさんにも、定期的に来てもらえますか?」


「遠藤さんが支援全体を調整します。訪問看護、訪問介護、配食、見守りを別々の日に組めば、一週間の中で何度か人の目が入ります」


 由紀子は、用意された週間予定表へ自分で丸をつけた。月曜と木曜は訪問看護、火曜と金曜は宅配食、週に一度はヘルパーと掃除や買い物をする。毎日誰かに監視されるのではなく、必要なところだけ支えてもらう予定だった。


「由紀子さん。今夜、あの家へ帰りたいですか?」


 智子は予定表を脇へ置き、由紀子の顔を見た。由紀子はすぐに答えられず、紙コップの縁を指で何度も押した。床を拭いて赤くなった指先へ水が一滴つき、机の古い輪染みと重なった。


「息子なんです。私が出ていったら、あの子が困ります」


「直樹さんが困らないようにすることと、由紀子さんが傷つけられる家へ戻ることは、同じではありません」


「母親が息子を訴えるなんて、してよいのでしょうか」


「訴えるかどうかは、今すぐ決めなくてかまいません。でも、由紀子さんが食事と治療を受け、安全に眠れる場所を持つことは、直樹さんの許可がなくても決められます」


 由紀子は紙コップの水面を見た。かすかな振動で揺れていた水が、指を離すと静かになった。北側の部屋、押し入れのカルピスソーダ、空の炊飯器、空き缶を探す真由美の背中が順番に浮かんだ。


「帰りたくありません」


 由紀子は水面を見たまま、もう一度言った。今度は、最初より声が大きくなった。智子は「分かりました」と答えただけで、手を握ったり、かわいそうだと言ったりしなかった。


「ただ、夫と暮らした家へ戻るのも、少し怖いんです。息子夫婦は場所を知っています。勝手に入ってくるかもしれません」


「鍵を替え、接触方法を決めることはできます。それでも落ち着かないなら、別の部屋を探しましょう」


「小さくてもいいから、一人で暮らせる部屋を探してください。日当たりがよくて、台所に電磁調理器を置けるところがいいです」


「家賃は、由紀子さんの収入で無理なく払える範囲にしましょう。今あるご自宅をどうするかは、弁護士と相談してから決めれば大丈夫です」


 由紀子は六畳一間でもよいと話した。正一の遺影、小さな食卓、自分の湯飲み、薬を置く棚があれば暮らせる。窓辺には沈丁花ではなく、今度は自分で選んだ花を置きたかった。


「訪問看護の方が来られて、ヘルパーさんと一緒に買い物へ行けるなら、私は一人きりではありませんね」


「はい。一人暮らしと、孤立することは別です」


「では、お願いします。私ができないところだけ、手を貸してください」


 智子は一時避難先の利用を延長し、その間に住居を探すことにした。しかし証拠となるカルピスソーダの箱、真由美との会話を記録した紙、残っている年金関係の書類は、まだ息子夫婦の家にある。宮原弁護士と相談した結果、支援者が同行し、必要なものだけを持ち出すことになった。


 翌日の午後、由紀子は遠藤、智子、木下と一緒に息子夫婦の家へ戻った。直樹には、体調確認と荷物の整理のために帰るとだけ伝えてある。真由美は玄関で菩薩のような笑顔を浮かべ、何事もなかったように新しいスリッパを並べた。


「お母さん、どこへ行っていたんですか。みんなで心配していたんですよ」


「銀行と病院へ行き、そのあと安全なところで休んでいました」


「安全なところ? ここがいちばん安全でしょう」


「そうかどうかを、これから私が決めます」


 真由美の笑顔がわずかに止まった。直樹は支援者たちを見て、家族の問題へ他人を入れるなと声を上げた。由紀子は靴を脱ぎ、擦り減った灰色のスニーカーを自分の手でそろえた。


 北側の部屋には、押し入れのカルピスソーダも、机の引き出しへ隠した缶も残っていた。由紀子は智子に見守られながら、箱の全体、賞味期限、残りの本数を写真に撮る。カレンダーの裏へ書いた記録と、真由美に渡されなかった年金関係の書類も透明なファイルへ入れた。


「その箱をどうするつもりですか?」


「記録として残します。勝手に捨てないでください」


「ただの飲み物でしょう。大げさに騒いで、私を悪者にするつもりですか?」


「糖尿病の私が断っても、あなたは毎日これを渡しました。その理由は、これから弁護士さんに調べてもらいます」


 弁護士という言葉を聞いた直樹が、由紀子の腕をつかもうとした。木下が間へ入り、身体へ触れないよう静かに告げた。直樹は手を下ろしたが、母親が自分を訴えるのかと何度も尋ねた。


「今は、必要なものを持ち出しに来ました。今後のお金の話は、宮原先生を通してください」


「母さん、俺たちを捨てるのか?」


「私のお金を使い、食事を与えず、病気を悪くする飲み物を勧めたのは、あなたたちです」


「真由美は母さんのためにやったんだ。家族を信用できないのか」


「信用とは、通帳を見せないことではありません。『長生きしてどうするのか』と聞くことでもありません」


 由紀子は夫の遺影を風呂敷で包んだ。旅行鞄には衣類を三組、薬、椿模様の櫛、片方だけの手袋を入れた。部屋の隅にある古い扇風機も自分のものではないため、置いていった。


 持ち出す荷物は、旅行鞄と段ボール箱二つに収まった。直樹夫婦の家へ来た日には、半年だけ住むつもりだった。それでも部屋を出るとき、畳には布団を敷いていた四角い跡が残っていた。


「母さん、今夜はどこで寝るんだ」


「安全な場所です」


「住所くらい教えろ。何かあったら、誰が責任を取るんだ」


「私と、私が選んだ支援者の方たちで考えます」


 由紀子は玄関で灰色のスニーカーを履いた。靴底の粘着テープは剥がれかけていたが、新しい部屋が決まったら、自分の口座から靴を買うつもりだった。智子が荷物を持とうとすると、由紀子は夫の遺影だけは自分で抱えた。


 玄関先では、ピンク色のマーガレットが水切れで葉を垂らしていた。由紀子は以前なら、見過ごせずに水をやっただろう。しかし今日は、花の世話を真由美へ頼むこともせず、門の外へ出た。


「お母さん、戻ってきますよね?」


 背後から真由美の声がした。由紀子は振り返り、菩薩のような笑顔を見た。初めて迎えられた日と同じ顔だったが、その奥にあるものを、もう親切だとは思わなかった。


「必要なものは、取りに来ます。そのときも一人では来ません」


 由紀子は車へ乗り、膝の上に正一の遺影を置いた。今度は息子に連れていかれるのではない。自分が選んだ場所へ向かうため、自分の意思でその家を離れた。


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