第8話 十二万九千四百五十円の暮らし
第8話 十二万九千四百五十円の暮らし
銀行へ行くつもりだった日の朝、由紀子は腰の痛みで布団から起き上がれなかった。身体を横へ向け、肘で畳を押しても、腰の奥に熱い棒を差し込まれたような痛みが走る。北側の窓には昨夜の結露が残り、窓枠に置いた沈丁花は茶色く縮んでいた。
「今日は、お仕事を休ませてもらおう」
由紀子は卓上時計を見ながら、ゆっくり足を下ろした。灰色の靴下には新しい穴が開き、繕った部分から親指の爪が見えている。正一が生きていたころなら、腰へ湿布を貼り、卵を入れたおじやを作ってくれただろう。
廊下へ出ると、台所からコーヒーと焼いたベーコンの匂いがした。直樹は白いワイシャツ姿で新聞を読み、真由美は明るい黄色のブラウスにアイロンをかけている。由紀子の席には、六枚切りの食パンが一枚とカルピスソーダが置かれていた。
「腰が痛くて、今日は仕事へ行けそうにないの。施設へ電話をしたいから、電話を貸してください」
由紀子が言うと、真由美はアイロンを動かす手を止めた。休めばその分だけ給料が減ると注意し、痛み止めを飲んで行けないのかと尋ねる。直樹も新聞から顔を上げず、三時間だけなのだから我慢すればよいと言った。
「痛くて靴下も履けないのよ。それでも行けと言うの?」
「ずっと座って掃除をすればいいだろ。施設なんだから、具合が悪くなっても誰かいるじゃないか」
「働く人が倒れることまで、施設へ任せるの?」
直樹は新聞をめくり、返事をしなかった。由紀子はカルピスソーダを食卓の端へ押し、自分で固定電話を使った。施設の担当者はすぐに休むことを認め、無理をせず病院へ行くよう勧めた。
「今日は休ませてください。明日も痛みが残るようなら、また連絡します」
電話を切ると、真由美が大きなため息をついた。由紀子のために仕事を見つけたのに、簡単に休まれては自分の顔がつぶれるという。由紀子は、雇ったのは施設であり、真由美ではないと答えた。
「私の身体のことは、私が決めます」
「最近のお母さんは、本当に口答えばかりですね。誰のおかげで生活できていると思っているんですか」
「私には毎月十八万円以上の収入があります。あなたたちに養ってもらっているわけではありません」
真由美はアイロンを強く置いた。熱い底が衣類へ長く触れ、直樹のハンカチに薄い茶色の跡がつく。焦げた布のにおいが漂ったが、真由美は気づかず、電源を抜いて二階へ上がった。
午前十時すぎ、由紀子のケアマネジャーである遠藤が訪ねてきた。病院から生活環境について相談するよう言われ、由紀子が昨日、老人ホームの電話を借りて連絡していた。遠藤は四十代の女性で、紺色のジャケットの下に白いシャツを着て、使い込まれた黒い鞄を抱えていた。
「今日は息子さんご夫婦にも、今後の支援についてお話を伺う予定でした。ただ、由紀子さんのご希望を先に確認させてください」
遠藤は北側の部屋へ入り、壁際の段ボール箱と、押し入れに積まれたカルピスソーダを見た。物干し紐には湿った仕事着が下がり、布団の脇には食べ終えた冷凍弁当の容器が置いてある。由紀子が腰を押さえて座ると、遠藤は椅子を使わず、畳へ膝をついた。
「今の生活で、いちばん困っていることは何ですか?」
「お金がないことです。正確に言えば、お金はあるのに、使わせてもらえないことです」
由紀子は年金額改定通知書と雇用条件通知書を見せた。老齢年金と遺族年金にパート代を加えると、月の収入は十八万円を超える。それでも手元へ渡されるのは、月三千円だけだった。
「通帳とキャッシュカードは、どなたが持っていますか?」
「息子の妻です。銀行印だけは、私が持っています」
「通帳を預けるとき、お金の管理について契約書を作りましたか? 毎月いくらを生活費として支払うか、由紀子さんも合意しましたか?」
「何も決めていません。介護に必要だと言われて、書類へ名前を書きました」
遠藤は由紀子が書いた記録を読み、食事がなかった日と、甘い飲み物を勧められた日を確認した。『そんなに長生きしてどうするんですか』という言葉のところで手を止め、いつ、どこで、誰が聞いていたかを尋ねる。由紀子が直樹も同じ台所にいたと答えると、遠藤は時刻まで手帳へ記した。
「由紀子さんは、これからもここで暮らしたいですか?」
「一人で暮らすのは危ないと、息子に言われました。鍋を二回も焦がしていますし、腰もこのとおりです」
「一人暮らしが難しい部分と、支援があればできる部分を分けて考えましょう。すべてを家族へ任せるか、すべて一人でするかの二つだけではありません」
遠藤は鞄から、地域の高齢者向けサービスをまとめた冊子を出した。訪問介護、配食サービス、見守り機器、服薬支援、緊急通報装置などが紹介されている。火の消し忘れには、自動停止機能のある電磁調理器を使う方法もあった。
「訪問看護も利用できますか?」
「主治医の指示があれば、体調確認や服薬管理をお願いできます。糖尿病が悪化していますから、医師と相談する必要はありますが、週二回程度から検討できると思います」
「ケアマネジャーさんにも、週二回来てもらえますか?」
「毎週二回の定期訪問をケアマネジャーだけで行うのは、通常の支援内容では難しい場合があります。でも必要な時期には訪問回数を増やし、訪問看護やヘルパーと曜日を分けることはできます」
遠藤は、月曜日を訪問看護、木曜日を訪問介護にし、自分も定期訪問と電話確認を組み合わせる案を紙へ書いた。由紀子は眼鏡をかけ、曜日の横へ自分で丸をつけた。以前の家なら、玄関から台所まで段差が少なく、手すりを付ければ腰痛があっても動けるはずだった。
「私は、自分の家へ戻れますか?」
「家の状態と、由紀子さんの体調を確認する必要があります。ただ、戻りたいという希望があるなら、そのための方法を一緒に考えられます」
「息子は反対します」
「由紀子さんに判断する力があるなら、どこで暮らすかを息子さんだけが決めることはできません」
由紀子は財布から夫のメモを出した。遠藤へ見せるつもりはなかったが、折り目を開いたところで指が止まった。『自分で決められるうちは、自分で決めなさい』という文字が、何度も触れたため少し薄くなっていた。
午後、訪問看護師の木下も家へ来た。柴田医師から生活状況の確認を頼まれ、臨時に訪問してくれたのだという。木下は淡い水色の制服を着て、玄関で手指を消毒してから北側の部屋へ入った。
「まず血糖値と血圧を測りましょう。そのあとで、普段のお食事を教えてください」
木下は由紀子の指先から少量の血を採った。機器に表示された数値を見ると、昼食を食べたか尋ねる。由紀子は冷凍弁当の鶏肉と野菜を食べたと答え、空になった容器を見せた。
「この内容なら、菓子やジュースだけで済ませるよりずっといいですね。量が足りなければ、主治医や栄養士と相談して調整しましょう」
「一食三百九十八円です。七食でも二千七百八十六円なのに、ぜいたくだと言われました」
「由紀子さんの収入と支出を確認しなければ、負担できるかどうかは判断できません。でも、治療に必要な食事を、理由もなく取り上げてよい人はいません」
木下は薬の袋を確認し、飲んだ時刻を記録できる表を作った。由紀子が文字を見落としやすいと話すと、朝の薬には赤い丸、夕方の薬には青い丸をつける。錠剤を曜日ごとのケースへ分ければ、飲み忘れも確かめやすくなるという。
「一人で暮らすなら、週に二回来ていただきたいんです。糖尿病のことも、薬のことも見てください」
「主治医の指示と介護保険の利用内容を確認して、調整しましょう。由紀子さんが自分でできることまで、私たちが取り上げることはしません」
「できないことだけ、手伝ってくださるの?」
「それが訪問看護や介護サービスの役目です」
木下は由紀子の腰へ湿布を貼り、痛みが強い日は仕事を休むよう伝えた。肌へ触れた湿布は冷たく、薬草に似たにおいがカーディガンの下から立った。由紀子は腰を曲げずに靴下を履く方法も教わり、長いタオルを足先へ引っかけて練習した。
二人との面談が終わるころ、直樹が帰宅した。玄関に並んだ来客用の靴を見て、居間へ入るなり眉をひそめた。真由美も二階から下りてきて、由紀子に相談なく家へ人を呼ばれたと声を上げた。
「相談なく通帳を持っている人に、言われたくありません」
由紀子は遠藤と木下の間に座り、年金額改定通知書を食卓へ広げた。真由美は外では態度を変えるのか、いつもの柔らかな笑顔で、由紀子の将来を思って管理しているだけだと説明した。直樹も、母親一人では生活できないと繰り返した。
「一人暮らしには、家賃も生活費もかかるんだぞ。十八万円あるといっても、何でも好きに使える金じゃない」
「分かっています。だから、調べました」
由紀子は遠藤から借りた資料を食卓へ置いた。東京都板橋区で一人暮らしをする場合の生活保護費の目安として、生活扶助七万四千二百五十円、特例加算千五百円、住宅扶助の上限五万三千七百円が記載されている。合計は、月十二万九千四百五十円だった。
「実際の支給額は、年齢や収入、家賃などで変わります。これは一人暮らしに必要な生活費を考えるための、単純な目安です」
遠藤が補足した。由紀子には年金とパート代があるため、この金額を生活保護として受給するという話ではない。由紀子は資料の合計欄を指で押さえ、直樹の前へ向けた。
「一人暮らしなら、生活扶助と住宅扶助を合わせて、十二万九千四百五十円が一つの目安になるそうです。私は毎月十八万円以上ある。それなのに、この家で私が自由に使えるお金は三千円です」
「家に置いてやっているんだから、その分はかかるだろ」
「では、この数字を見てどう思いますか?」
由紀子は十二万九千四百五十円の横へ、三千円と書いた。直樹は紙を見たまま答えなかった。真由美は生活保護の数字と自分たちの家計を比べるのは間違いだと言い、資料を閉じようとした。
「比べたいのは、制度の細かな計算ではありません。国が一人の人間の生活を考えるとき、食費も家賃も日用品も必要だとしている。それなのに、あなたたちは私へ三千円だけ渡し、それで靴も交通費も昼食も払えと言うのね」
「お母さんには住む部屋があります。食事だって出しているでしょう」
「窓を開けても壁しか見えない物置です。食事がない日は、糖尿病食の弁当を自分で頼みました。それを真由美さんは、返品しようとしました」
「それは、お母さんが勝手に口座引き落としを申し込んだからです」
「私の口座です」
由紀子の声は大きくなかった。それでも直樹が身じろぎし、真由美は口を閉じた。遠藤と木下は二人の代わりに答えず、由紀子が次の言葉を選ぶのを待っていた。
「訪問看護を週二回、お願いしたいと思います。ケアマネジャーさんやヘルパーさんにも来てもらい、薬と食事と火の始末を確認します」
「ここへ週二回も他人を入れるつもりか?」
「ここではありません。私は、自分の家へ戻ります」
直樹は椅子から立ち上がった。鍋を焦がしたことを忘れたのか、今度は家ごと燃やすつもりかと声を荒らげる。由紀子は膝の上で両手を組み、息子の言葉が終わるまで待った。
「鍋は電磁調理器へ替えます。訪問看護とヘルパーを利用し、宅配食も続けます。緊急通報装置もつけます」
「そんなに人へ頼ってまで、一人で暮らしたいのか」
「助けてもらうことと、あなたたちへ私の人生を渡すことは違います」
由紀子は資料を折らず、透明なファイルへ戻した。真由美は唇を噛み、直樹は窓の外を見た。庭では雨上がりのツツジが夕日に照らされ、濡れた葉を光らせていた。
遠藤は、由紀子の希望を確認するため、もう一度尋ねた。息子夫婦との同居を続けること、自宅へ戻ること、別の高齢者住宅を探すこと、それぞれの方法がある。由紀子は夫のメモを机へ置き、迷わず答えた。
「自分の家へ戻りたいです。ただし、一人きりにはなりません。訪問看護師さんに週二回来てもらい、ケアマネジャーさんやヘルパーさんにも助けていただきます」
「分かりました。では、自宅の安全確認と支援計画を進めます」
「お願いします。私にできないことは手伝ってください。でも、できることまで息子夫婦に渡したくありません」
遠藤が手帳へ記入し、木下も主治医へ報告すると約束した。直樹は納得していない顔で、家へ戻ってまた鍋を焦がしたらどうするのかと尋ねた。由紀子は食卓の上の数字を、もう一度指で示した。
「そのときは、道具と支援を増やします。失敗したら、暮らす権利までなくなるわけではありません」
面談を終えたあと、由紀子は冷凍弁当を温めた。今夜の献立は、赤魚の煮つけ、小松菜のおひたし、ニンジンと大豆の煮物だった。薄い醤油の香りが台所へ広がっても、真由美は食卓へ来なかった。
由紀子は小さな茶碗へ半分だけご飯をよそい、弁当と一緒に食べた。赤魚の身を箸でほぐすと、骨はなく、皮の近くに少し脂が残っていた。食後には水道水で糖尿病の薬を飲み、服薬表の赤い丸へ鉛筆で印をつけた。
北側の部屋へ戻ると、由紀子は三つの数字をカレンダーの裏へ書いた。毎月の収入、十八万円以上。一人暮らしの生活保護費の目安、十二万九千四百五十円。そして、息子夫婦から渡される小遣い、三千円。
「この数字を見て、私はどう思うのか」
由紀子は遺影の正一へ尋ねた。誰かに答えてもらう必要はなかった。穴の開いた靴下、空腹で飲んだカルピスソーダ、冷えた北側の部屋が、すでに答えを示していた。
「私は、ここで養ってもらっているのではないわ。私のお金で、この家を養わされているのよ」
由紀子は銀行印を小花模様の袋へ入れ、布袋の底へしまった。翌日は仕事を休み、まず銀行へ行く。通帳を返してもらう日まで待たず、自分の口座に何が残っているのかを確かめるつもりだった。




