第7話 これがあなたのお小遣いなら
第7話 これがあなたのお小遣いなら
口座振替の書類を投函した日の夜、由紀子は直樹と二人で話したいと申し出た。真由美が入浴している間に、居間の食卓へ雇用条件通知書と年金額改定通知書を並べる。窓の外では細い雨が降り、庭のツツジが濡れた花びらを石畳へ落としていた。
「母さん、金の話なら真由美にしてくれ。あいつが家計を管理しているんだから」
直樹はソファから動かず、野球中継を見ていた。食卓には、飲み終えたビールの缶と、醤油が固まった冷ややっこの皿が残っている。由紀子はテレビの音量を下げ、直樹の正面へ座った。
「私が話したいのは、あなたの家計ではありません。私のお金についてです」
「だから、真由美が管理しているだろ」
「管理と没収は違います」
由紀子は年金額改定通知書を直樹の前へ置いた。自分の老齢年金と、正一が亡くなったあとに受け取っている遺族年金を月額へ直すと、合わせておよそ十三万円になる。そこへ清掃パートの給料約五万五千円が加わるため、毎月の収入は十八万円を超えていた。
「税金や保険料を引かれる前後で多少は変わります。でも、少なくとも三千円ではありません」
由紀子はスーパーのチラシの裏へ、十三万円と五万五千円を書いた。合計の十八万五千円を丸で囲み、その隣へ三千円と記す。直樹は一度だけ紙へ目を落とし、すぐにテレビへ顔を戻した。
「同居しているんだから、生活費がかかるだろ」
「では、私の生活費はいくらですか?」
「食費も電気代も上がった。風呂だって毎日使っているし、洗濯物も増えた」
「私は毎日お風呂には入っていません。仕事のある日にシャワーを使い、湯船は週に二回です。洗濯も、仕事着と下着は自分で手洗いしています」
由紀子は北側の部屋に張った紐を思い出した。昨夜洗った水色のエプロンはまだ乾かず、古い扇風機の前へ吊るしてある。湿った衣類のにおいを避けるため窓を開けると、隣家の換気扇から魚を焼く煙が入ってきた。
「細かなことをいちいち数えるなよ。家族だろ」
「家族だから数えなくてよいと言うなら、なぜ私だけ三千円まで数えて渡されるの?」
直樹はリモコンを取り、テレビの音量を元へ戻した。実況の声と観客の歓声が居間に広がる。由紀子は立ち上がり、テレビの電源を切った。
「何をするんだよ。今、いいところだったのに」
「私の話も、今が大事なところです」
「母さん、最近おかしいぞ。真由美へ食事のことで文句を言ったり、勝手に宅配弁当を頼んだり。昔はそんなに金に細かい人じゃなかっただろ」
直樹はソファの背にもたれ、腕を組んだ。由紀子は食卓に残ったビールの空き缶を見た。一本二百円として毎晩二本なら、直樹のビール代だけで月に一万円を超える。
「私は昔から、お金を粗末にはしませんでした。あなたの給食費も塾の月謝も、家計簿へ一円単位で書いていました」
「それと今とは違うだろ」
「どう違うの?」
「母さんは年寄りで、これから介護に金がかかるんだ。真由美は先のことを考えて貯めてくれているんだよ」
「その貯めた金額を、なぜ私に見せられないの?」
直樹は唇を結んだ。食卓の時計が午後九時を知らせ、二階の浴室からドライヤーの音が聞こえ始めた。由紀子は真由美が下りてくる前に、息子の口から答えを聞きたいと思った。
「私の通帳を、最後に見たのはいつ?」
「俺に聞かれても知らないよ」
「私の年金が毎月いくら入るか、知っていた?」
「だいたいは聞いている」
「パート代がいくら振り込まれたかは?」
「五万くらいだろ」
「では、合わせて毎月十八万円以上あることも分かっていたのね」
直樹は目をそらし、空になったビールの缶を潰した。薄いアルミが大きな音を立て、底に残った泡が食卓へ飛んだ。由紀子は布巾を取りに行かず、息子の前へ三千円と書いた紙を押し出した。
「これがあなたのお小遣いなら、どう思いますか?」
「俺は働いて、家の金を稼いでいる」
「私も働いています。年金だって、お父さんと私が保険料を納めてきたから受け取っているお金です」
「母さんは家賃を払っていないだろ」
「払うと言っています。いくら必要なのか、明細を見せてください。そのうえで食費と光熱費を払い、残りは私が管理します」
直樹は返事をせず、新しいビールを取りに台所へ向かった。冷蔵庫を開けると、由紀子の冷凍弁当とカルピスソーダの缶が同じ棚に入っている。直樹は弁当を押しのけ、奥から缶ビールを取り出した。
「母さんに通帳を返したら、詐欺に遭うかもしれない。物忘れだって増えているんだぞ」
「鍋を二回焦がしたから?」
「それだけじゃない。何度も同じ話をするし、真由美が言ったことを忘れることもある」
「真由美さんは、私が言っていないことを『言った』と言います。頼んだことを『聞いていない』と言います。それを確かめるために、私は毎日書くようにしました」
由紀子はカレンダーの裏へ書いた記録を取り出した。食事がなかった日、カルピスソーダを渡された日、パート代から三千円だけ受け取った日が並んでいる。『そんなに長生きしてどうするんですか』という言葉の下には、日付と時刻まで記録していた。
「真由美が、こんなことを言ったのか?」
「あなたのいる前でも話したでしょう」
「腹が立って、つい言っただけだろ。真由美だって、母さんの世話で疲れているんだ」
「私は自分で起き、自分で着替え、自分で通院し、自分で仕事へ行っています。真由美さんにしてもらっている世話とは、何ですか?」
直樹は缶ビールを開けたが、すぐには飲まなかった。由紀子の食事を毎日作るわけでも、通院に付き添うわけでも、洗濯や掃除をするわけでもない。言葉を探すように冷蔵庫の扉を見たあと、通帳を管理してくれていると答えた。
「それは私の世話ではなく、私のお金を預かっているだけです」
「真由美を泥棒みたいに言うなよ」
「泥棒だとは言っていません。通帳を見せてくださいと言っています」
「同じことだろ!」
直樹は缶を食卓へ置いた。勢いで中身がこぼれ、年金額改定通知書の端を濡らした。由紀子は慌てて書類を持ち上げ、ハンカチで水分を吸い取った。
階段から真由美が下りてきた。白い寝巻きの上にピンク色のカーディガンを羽織り、髪から甘い香油の匂いを漂わせている。食卓の書類を見ると、直樹の隣へ立った。
「またお金の話ですか。直樹さんは明日も仕事なのに、休ませてあげてください」
「私も明日は仕事です」
「お母さんは三時間だけでしょう。直樹さんとは責任が違います」
「働く時間が短ければ、給料を取り上げてもよいの?」
真由美は答えず、年金額改定通知書を裏返した。濡れた部分を見て、こんな大事な書類を食卓へ出しておくから汚れるのだと言う。由紀子は書類を取り返し、雇用条件通知書と重ねた。
「私には、年金とパート代を合わせて毎月十八万円以上あります。そこから生活費を払うことには反対しません。でも、残りまであなたたちに渡すとは言っていません」
「お母さんの将来のために、きちんと積み立てています」
「現在の残高を見せてください」
「今すぐには無理です」
「なぜ?」
「貸金庫に入れてあるからです」
「どこの銀行の、どの支店にあるの?」
真由美は答えなかった。直樹が間へ入り、夜遅くに問い詰める話ではないと言った。由紀子は壁の時計を見上げ、まだ九時十五分だと確かめた。
「では、明日の夜にしてください。通帳と、私のお金を記録した家計簿を出してください」
「明日も予定があります」
「明後日は?」
「分かりません」
「一週間待ちます。一週間後の午後八時に、ここで見せてください」
由紀子はカレンダーの裏へ日時を書いた。直樹はため息をつき、母親は家族を信用していないとつぶやいた。真由美は濡れた食卓を布巾で拭きながら、信用されない自分が惨めだと言った。
「信用しているから、確かめなくていいのではありません。確かめられるから、信用できるのです」
由紀子は書類を胸へ抱え、北側の部屋へ戻った。扉を閉める直前、真由美が直樹へ何か囁いた。声は聞こえなかったが、二人がそろって黙り、由紀子の背中を見ていることだけは分かった。
部屋では、洗った水色のエプロンが物干し紐から垂れていた。由紀子は袖へ触れ、まだ湿っていることを確かめる。明日の朝までに乾かなければ、古い扇風機を回さなければならなかった。
遺影の前には、正一の湯飲みと夫のメモが置いてあった。由紀子は布袋から千円札を一枚と硬貨を取り出し、机へ並べた。月三千円から交通費と日用品を引いた残りは、六百四十円だった。
「これがあなたのお小遣いなら、どう思いますか」
由紀子は、もう一度声に出した。写真の中の正一は答えなかったが、生きていれば、まず通帳を見ろと言ったはずだった。保険の契約でも家の修理でも、金額を見ずに署名することだけは決して許さない人だった。
翌朝、真由美は何事もなかったように食パンを一枚焼いた。皿には焦げた端を隠すようにマーガリンが厚く塗られ、横にはカルピスソーダが置かれている。由紀子は缶には手をつけず、無糖の紅茶で糖尿病の薬を飲んだ。
「昨日の話ですけれど、お母さんの通帳は一週間後にお見せします。それでいいですね?」
「ええ。約束の日と時間は書いてあります」
「そんなものを書かなくても覚えていますよ」
「私は忘れる年寄りなのでしょう。だから、書いておくのよ」
真由美の手が止まった。由紀子は焦げた食パンをゆっくり噛み、仕事へ行く支度をした。今日は休憩時間に銀行へ寄り、通帳をなくした場合の手続きについて尋ねるつもりだった。
一週間も待つ必要はない。口座は自分の名義であり、金も自分のものだった。由紀子は灰色のスニーカーを履き、剥がれた底へ巻いたテープを指で押さえた。
「行ってきます」
直樹も真由美も返事をしなかった。玄関を開けると、雨上がりの空気とツツジの匂いが入ってきた。由紀子は銀行印の入った小花模様の袋を布袋の底へしまい、自分の口座に何が起きているのか、自分の目で確かめるために歩き出した。




