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第6話 そんなに長生きしてどうするんですか

第6話 そんなに長生きしてどうするんですか


 医師から食事を抜かないように言われた翌週、由紀子は病院でもらったパンフレットを仕事用の布袋へ入れていた。糖尿病に配慮した冷凍弁当の宅配サービスが紹介されており、主菜と副菜を合わせても一食五百キロカロリーほどに調整されている。一食三百九十八円で、七食分を頼んでも二千七百八十六円だった。


 由紀子は老人ホームの休憩室で、パンフレットを何度も開いた。表紙には、サワラの西京焼き、鶏肉と春野菜の煮物、豆腐ハンバーグが彩りよく並んでいる。小さく添えられた菜の花の緑色まで鮮やかで、印刷された写真なのに温かい出汁の匂いがするようだった。


「それ、糖尿病の人向けのお弁当でしょう。うちの姉も頼んでいたわよ」


 赤い縁の眼鏡をかけた森田が、自分の弁当箱を開きながらパンフレットをのぞき込んだ。森田の弁当には、昨夜の残りだというタケノコの煮物と、少し焦げた卵焼きが入っている。由紀子は醤油の匂いを感じ、食パン半分しか入っていない腹へ手を当てた。


「おいしかったですか?」


「姉は薄味だと言っていたけれど、病院食より食べやすいそうよ。電子レンジで温めるだけだから、鍋も焦がさなくて済むでしょう」


「一食四百円もしないんです。私のパート代なら、十分払えるはずなの」


 由紀子は最後の言葉を小さくした。最初の給料から手元へ渡されたのは三千円だけで、残りがいくらあるのかも分からない。だが、働いて得た金の一部を自分の食事へ使うことまで、誰かに許してもらわなければならないとは思いたくなかった。


「なら、頼めばいいじゃない。食べるために働いているのに、食事を抜いて身体を壊したら、順番が逆よ」


 森田はタケノコを一つつまみ、口へ運んだ。繊維が硬かったらしく、何度も噛みながら、電話での申し込み方法を一緒に読んでくれた。七食単位で注文でき、代金は銀行口座から毎月まとめて引き落としてもらえる。


「でも、通帳もカードも息子のお嫁さんが持っているの」


「口座番号が分かって、届け出印があるなら、書類は出せるんじゃない? 由紀子さん自身の口座でしょう」


 由紀子は布袋の底から、小花模様の袋を取り出した。通帳を真由美へ渡したあとも、銀行印だけは正一の遺影と一緒に保管していた。口座番号も、以前の公共料金の領収書を財布へ入れていたため確認できた。


「真由美さんに相談してからのほうがいいかしら」


「相談するのはいいけれど、許可をもらう話ではないでしょう。由紀子さんのお金で、由紀子さんが食べるお弁当を頼むのよ」


 森田は食後のミカンを半分に割った。一房だけ差し出し、医師に止められているなら無理に食べなくてよいと付け加えた。断っても機嫌を損ねない人の前では、由紀子も自分の身体に必要かどうかを落ち着いて考えられた。


「一房だけ、いただきます」


 ミカンは少し酸っぱく、噛むと薄い皮から果汁が出た。由紀子はゆっくり味わい、残りには手を伸ばさなかった。自分で食べる量を決めるだけのことが、息子夫婦の家では難しくなっていた。


 仕事を終えたあと、由紀子は老人ホームの公衆電話から宅配会社へ電話をかけた。担当者は急かさず、氏名、住所、届ける曜日、苦手な食材を一つずつ確認した。由紀子が糖尿病の治療中であることを話すと、食事だけで病気が治るものではないため、医師の治療も続けるよう説明された。


「平日の夕食にしたいんです。仕事から帰ると、食べるものがない日があるので」


 由紀子が言うと、電話の向こうの女性は一瞬黙った。しかし事情を詮索せず、受け取りが難しい場合は保冷箱を利用できると教えた。由紀子はまず七食分を注文し、様子がよければ週に五食ずつ届けてもらうことにした。


「お支払いはどうなさいますか?」


「銀行口座から引き落としてください。私が働いたお給料の入る口座です」


 由紀子は口座番号を読み上げた。正式な手続きには口座振替依頼書の返送が必要で、初回分は振込用紙で支払うという。翌月からは、利用した食数の代金がまとめて引き落とされることになった。


 電話を切ると、手のひらに十円玉の金属臭がついていた。由紀子は財布の硬貨を数え、帰りのバス代だけを残した。電話へ使った百二十円も、夜になったらカレンダーの裏へ記録しようと考えた。


 最初の弁当が届いたのは、よく晴れた火曜日だった。玄関先の鉢植えでは、真由美が育てているピンク色のマーガレットが開いていた。白い宅配車が停まり、配達員が保冷箱を二つ重ねて運んできた。


「高梨由紀子様のお食事を、七食分お届けします。中身をご確認いただけますか?」


 由紀子はその日、病院へ行くために仕事を休んでおり、直接受け取ることができた。配達員が箱を開けると、薄い容器に入った冷凍弁当が七つ並んでいる。サバの味噌煮、鶏肉のトマト煮、豚肉と根菜の炒め物など、蓋には献立と栄養成分が大きな字で印刷されていた。


「まあ、思っていたより種類があるのね」


「電子レンジで表示どおりに温めてください。凍ったまま保存すれば、蓋に書かれた期限まで召し上がれます」


 配達員は口座振替依頼書と振込用紙を渡した。由紀子は受領欄へ署名し、七つの弁当を冷凍庫へ入れようとした。ところが冷凍庫には、直樹夫婦が買った高価なアイスクリームと、真由美がまとめ買いした肉が隙間なく詰まっていた。


 由紀子は肉の袋を少しずつ動かし、弁当を縦に並べた。一番上に豆腐ハンバーグを置いたところで、玄関の扉が開いた。買い物から戻った真由美が、大きな紙袋を両手に提げて台所へ入ってきた。


「今の車は何ですか?」


「私のお弁当を届けてもらったの。糖尿病の人向けの宅配食よ」


「お弁当?」


 真由美は紙袋を食卓へ置いた。袋の口から、輸入菓子の箱と淡い水色のスカーフがのぞいている。真由美は靴も脱ぎ終えないまま冷凍庫を開け、七つの弁当を一つずつ取り出した。


「こんなもの、誰が頼んでいいと言ったんですか?」


「先生から、食事を抜かないように言われたでしょう。仕事から帰って夕食がない日でも、これなら自分で温めて食べられるから」


「私が食事を与えていないような言い方ですね」


「ない日があるのは、本当でしょう」


 由紀子は弁当を冷凍庫へ戻そうとした。しかし真由美は容器を胸元へ抱え、裏側の料金表示を確認した。一食三百九十八円という数字を見つけても、眉間のしわは消えなかった。


「七食も頼めば、三千円近くするじゃないですか。勝手に使われたら困ります」


「一食四百円もしないのよ。私のパート代から払います」


「お母さんは、毎月三千円のお小遣いを受け取っているでしょう。そこから払えばいいじゃありませんか」


「靴も靴下も、病院へ行く交通費も、その三千円から払っているのよ。食事代まで入れたら足りません」


 由紀子は口座振替依頼書を食卓へ置いた。小花模様の布袋から銀行印を取り出し、自分で手続きをすると伝えた。真由美は印鑑を見ると、弁当を抱えたまま動きを止めた。


「その印鑑、まだ持っていたんですか?」


「私の印鑑ですもの。持っていて当たり前でしょう」


「通帳は私が管理しているんですよ。勝手に引き落としを増やされたら、家計が合わなくなります」


「私の口座から、私の食事代が落ちるだけよ。家計が別なら、あなたには関係ないでしょう」


 真由美は弁当を食卓へ置いた。凍った容器同士がぶつかり、硬い音を立てる。由紀子は一つが床へ落ちそうになったため、両手で押さえた。


「お母さんをここで生活させるために、いくらかかっていると思っているんですか」


「だから、家計簿を見せてくださいと言っているの。私の年金と給料から、毎月いくら使っているの?」


「見ても分からないでしょう!」


 真由美の声が台所へ響いた。換気扇の下には、昼に食べたらしいクリームパスタの皿が残り、乾いたソースからニンニクとチーズのにおいが漂っている。その横には、一個四百円近いプリンの空き容器が二つ並んでいた。


「あなたが食べたプリン一個と、私の夕食一食が同じくらいの値段です。それでも、私のお弁当だけが無駄遣いなの?」


「値段の問題ではありません。勝手なことをしないでと言っているんです」


「食事を頼むだけでも、あなたの許可が必要なの?」


「何を考えてるんですか? そんなに長生きしてどうするんですか?」


 真由美は、言い終えてから口を閉じた。しかし謝らなかった。由紀子の手の下では、凍った弁当の角が指へ食い込んでいた。


 壁の時計が午後一時を打った。庭ではマーガレットが風に揺れ、開いた窓から湿った土のにおいが入ってくる。由紀子は、真由美の言葉を聞き間違えたのではないかと思い、ゆっくり顔を上げた。


「今、何と言ったの?」


「お母さんが無駄遣いをするから、注意しただけです」


「その前よ。そんなに長生きしてどうするのかと、言ったでしょう」


「言葉のあやです。いちいち細かなところだけ覚えて、私を悪者にしないでください」


 真由美は冷凍弁当を箱へ戻し始めた。返品できるか宅配会社へ電話すると言い、口座振替依頼書にも手を伸ばした。由紀子は書類を先に取り、胸元へ抱えた。


「返品しません。これは私が頼んだ、私の食事です」


「冷凍庫は私たちのものです。勝手に場所を使わないでください」


「では、あなたたちのアイスクリームを少し移してください。十四個も入っているでしょう」


「私たちは自分のお金で買っています。お母さんとは家計が別ですから」


「私も自分のお金で買います。家計が別なら、私の給料を全部返してください」


 真由美の唇が横へ引かれ、歯だけが少し見えた。そこへ玄関の扉が開き、午後から在宅勤務だった直樹が帰ってきた。紺色のジャケットを脱いで椅子へかけると、食卓に積まれた弁当を見た。


「外まで声が聞こえたぞ。何を騒いでいるんだ」


 真由美はすぐに声を弱め、由紀子が相談もせず高価な宅配弁当を注文したと訴えた。銀行口座から勝手に料金を引き落とそうとしているとも付け加えた。直樹は容器の裏側を見て、一食三百九十八円という数字を確認した。


「母さん、金の管理は真由美に任せると決めただろ」


「管理を任せただけです。使う権利まで渡していません」


「一食四百円なら、安いスーパーへ行けば弁当が買えるだろ」


「そのスーパーへ行く時間も、買うお金も私にはないの。仕事から帰れば、冷蔵庫には何も残っていない日があるでしょう」


「真由美だって働いているんだ。毎日、母さんの食事まで用意できるわけじゃない」


「だから、自分で弁当を頼んだのよ。誰にも作ってくれとは言っていません」


 直樹は答えず、真由美を見た。真由美は腕を組み、冷凍弁当の箱を指先でたたいている。由紀子は二人の顔を見比べ、医師に尋ねられた言葉を思い出した。


『今、困っているのは誰ですか?』


 由紀子は箱から弁当を一つ取り出した。今日の献立は、サワラの西京焼き、菜の花のおひたし、カボチャの煮物だった。蓋に書かれた数字を確認し、電子レンジへ入れた。


「勝手に食べるなと言っているでしょう」


「私の食事を、私が食べるのよ」


「母さん、意地を張るな。真由美に謝れ」


「長生きしてどうするのかと聞かれたのは、私です。謝るのは真由美さんでしょう」


 電子レンジが動き始め、低いうなりとともに容器が回った。二人は何も言わず、その音を聞いていた。やがて加熱終了の電子音が鳴り、西京味噌と温かい煮物の匂いが台所へ広がった。


 由紀子は弁当を食卓へ運び、自分の湯飲みに番茶を注いだ。サワラは薄味だったが、身は柔らかく、骨もきれいに取り除かれている。菜の花にはわずかな苦みがあり、春の土を思わせる香りがした。


「おいしいわ。これなら、きちんと食べて薬を飲めます」


 由紀子は自分へ確かめるように言った。真由美は残りの弁当を箱へ入れたまま、冷凍庫へ戻そうとしない。由紀子は箸を置き、食べ終わるまで捨てたり返品したりしないよう念を押した。


「そんなに疑うなら、自分の部屋へ持っていけばいいでしょう。腐っても知りませんからね」


「冷凍庫へ戻してください。ここは、今日から私も暮らす家だと、あなたが言ったでしょう」


 真由美は弁当を一つずつ冷凍庫へ押し込んだ。高価なアイスクリームの箱を奥へ寄せると、容器の蓋が少し潰れた。真由美はそれを見て舌打ちし、買ってきた紙袋を抱えて二階へ上がった。


 直樹も、母親が頑固になったとつぶやいて居間を出た。食卓には由紀子だけが残り、窓から入る午後の日差しが弁当の白い容器を照らしている。由紀子はカボチャを最後に食べ、番茶で糖尿病の薬を飲んだ。


 食後、由紀子は口座振替依頼書へ必要事項を書いた。届け出印を押すと、朱肉の赤が丸く紙へ残った。正一が請求書や保険書類へ印鑑を押すたび、「印鑑は、自分が納得してから押すものだ」と言っていたことを思い出した。


「これは、私が納得して押す印鑑よ」


 由紀子は遺影へ言い、書類を封筒へ入れた。翌朝、仕事へ行く途中で、自分の手で郵便ポストへ投函するつもりだった。真由美には渡さず、折れないよう布袋の内側へしまった。


 夜になっても、真由美は夕食を用意しなかった。由紀子は二つ目の冷凍弁当を温め、豆腐ハンバーグとホウレン草の和え物を食べた。部屋へ戻ると、押し入れのカルピスソーダには触れず、水道水を水筒へ入れた。


 卓上時計が十時を過ぎたころ、由紀子はカレンダーの裏へ今日の出来事を書いた。冷凍弁当七食、二千七百八十六円。口座振替の申し込み。真由美が言った言葉も、忘れないうちに一字ずつ書いた。


『何を考えてるんですか。そんなに長生きしてどうするんですか』


 書き終えると、鉛筆の先が小さく震えていた。由紀子は線が曲がった文字を消さず、その下へ日付と時刻を書き加えた。これも、忘れてはいけない言葉だった。


 翌朝、由紀子は仕事へ向かう途中、赤い郵便ポストの前で立ち止まった。歩道脇では、紫色のツツジが早くも二輪咲いている。由紀子は口座振替依頼書の入った封筒を、自分の手で投入口へ押し込んだ。


 封筒が中へ落ちる音を確かめてから、由紀子は銀行の方向を見た。通帳を預けて以来、一度も残高を見ていない。家計が別だと言いながら、自分の給料も年金も自由に使えないことが、今まで以上にはっきり見えていた。


「長生きして、何をするかですって?」


 由紀子は郵便ポストへ向かって、小さく問い返した。冷たい朝の空気を吸い込み、擦り減った靴で歩き出す。次の休憩時間には、銀行へ行こうと決めていた。


「自分で決めるために、生きるのよ」


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