第5話 空き缶を数える女
第5話 空き缶を数える女
四月の二週目、由紀子は三か月に一度の定期検診を受けるため、以前から通っている内科医院へ向かった。朝から細い雨が降り、住宅街の花壇では赤や黄色のチューリップが重そうに頭を下げていた。由紀子は紺色のスプリングコートの襟を立て、底の剥がれたスニーカーを濡らさないよう、水たまりを避けて歩いた。
医院までは、息子夫婦の家から電車とバスを乗り継いで一時間近くかかる。真由美は付き添うと言わず、往復の交通費として千円札を一枚だけ渡した。昼食代までは残らない金額だったため、由紀子は空になったジャムの瓶へ入れていた百円玉を二枚、コートのポケットへ忍ばせた。
「検査があるから、朝ご飯は食べなくていいですよね」
出かける前に真由美からそう言われたが、今日の採血は空腹時検査ではなかった。由紀子は医師から食事を抜かないよう言われていたため、六枚切りの食パンを半分だけ食べた。冷蔵庫に残っていた無糖のヨーグルトを一さじ載せると、酸味ばかりが舌に残った。
待合室には、雨で濡れた傘と消毒液のにおいが満ちていた。壁のテレビでは料理番組が流れ、春キャベツとアサリを蒸した皿から湯気が立っている。由紀子は画面を見ないよう、膝の上の診察券を何度も裏返した。
「高梨由紀子さん、採血室へどうぞ」
看護師に呼ばれ、由紀子は立ち上がった。腕をまくると、薄桃色のブラウスの袖口が黒ずんでいるのが見えた。消毒綿の冷たさに肩をすくめた由紀子へ、看護師は体重が前回より減っていると声をかけた。
「五キロ近く減っていますね。食事制限を頑張ったんですか?」
「仕事を始めたからだと思います。老人ホームで、一日三時間お掃除をしています」
「運動で減っただけならいいんですけれど。食事は三食、取れていますか?」
由紀子はすぐに返事ができなかった。朝は食パン半分、昼は食べないことが多く、夕食も豆腐や冷めた惣菜だけの日がある。けれどもそれを話せば、息子夫婦の家でうまく暮らせていないと認めることになる。
「三食、取るようにはしています」
由紀子が答えると、看護師は「ようには、ですか」と小さく繰り返した。採血管の中へ暗い赤色の血がたまり、由紀子は顔を横へ向けた。窓の外では雨に濡れたハナミズキが、白い花を開き始めていた。
採血から四十分後、由紀子は診察室へ呼ばれた。担当の柴田医師は六十代の男性で、由紀子が正一と暮らしていたころから診てもらっている。机には前回と今回の検査結果が並べられ、柴田は眼鏡を上げながら二枚を見比べた。
「高梨さん、生活が変わりましたか?」
柴田の声は、いつもの世間話をするときより低かった。由紀子は息子夫婦と同居を始め、清掃の仕事にも就いたと説明した。柴田は仕事を始めたことには触れず、赤いペンで検査結果の数字を囲んだ。
「前回のヘモグロビンA1cは六・八でした。今回は八・九です。体重が減っているのに、血糖値は大きく悪化しています」
「甘いものは、それほど食べていません。お菓子を買うお金もありませんから」
「では、飲み物はどうですか。ジュース、加糖のコーヒー、乳酸菌飲料などを飲んでいませんか?」
由紀子の頭に、押し入れへ積まれた白と青の箱が浮かんだ。七十二本あった缶は、まだ多く残っている。しかし真由美が毎日一本を渡し、飲まなかった日には部屋まで確認に来ていた。
「カルピスソーダを、何度か飲みました」
「何度かというのは、一週間に一度ですか。それとも、毎日ですか?」
「最初のころは、ほとんど毎日です。食事がない日に、薬を飲むために」
柴田は持っていたペンを止めた。由紀子は、言葉を引っ込めようと唇を結んだ。しかし一度外へ出た話は、もう喉の奥へ戻らなかった。
「食事がない日というのは、どういうことですか?」
「息子夫婦が先に食べて、私の分が残っていない日があります。冷蔵庫に豆腐や卵があれば、それを食べます。何もない日は、ジュースを飲めばお腹が落ち着くと、お嫁さんが」
「高梨さん、その状態で糖尿病の薬を服用しているのですか?」
柴田は椅子を引き、由紀子の顔を正面から見た。食事を抜いて薬を飲めば、薬の種類によっては低血糖を起こす危険がある。甘い飲み物で空腹をしのげば血糖値が急激に上がり、体重が減っていても病状は悪化するという。
「息子さん夫婦は、高梨さんが糖尿病だと知っていますか?」
「知っています。薬の一覧も、冷蔵庫に貼ってあります」
「カルピスソーダを買ってくるのは、誰ですか?」
「お嫁さんです。三箱まとめて買ってくれました。昔から好きだったでしょうと言って」
三箱と聞いた柴田は、眼鏡を外した。机の脇に置かれた湯飲みには、冷めた緑茶が半分残っている。柴田は飲もうとせず、カルテへ由紀子の言葉を一つずつ入力した。
「高梨さん。これは、薬を増やせば解決する問題ではありません。食事を抜いて、甘い飲み物で空腹をしのぐ生活を続ければ、目や腎臓、神経にも影響が出ます」
「一本くらいで病気にはならないと、お嫁さんは言います」
「すでに糖尿病の治療を受けている人へ、食事の代わりに毎日飲ませてよいものではありません。しかも、高梨さん自身が断っているのでしょう?」
由紀子は膝の上で、コートの裾を握った。断っても枕元へ置かれること、空き缶がないと真由美の機嫌が悪くなることを話した。月に三千円しか渡されず、自分で食べ物を買うことも難しいと付け加えると、柴田はもう一度カルテへ向き直った。
「年金やパート代は、誰が管理していますか?」
「真由美さんです。通帳もカードも預けました。暗証番号も教えています」
「高梨さんは、毎月いくら引き出され、何に使われているか把握していますか?」
「家計簿は、私には難しいと言って見せてもらえません」
診察室の時計が音もなく進んでいた。廊下では幼い子どもが泣き、母親らしい女性が「注射ではないから」となだめている。由紀子はその声を聞きながら、直樹が予防接種から逃げ、診察台の下へ潜り込んだ日のことを思い出した。
「私が母親なのに、息子を悪く言うようで」
「息子さんを悪く言うことと、由紀子さんの生活を事実のとおり話すことは別です」
柴田は、由紀子の言葉を遮らずに待った。由紀子は、仕事を休みたいと話しても聞き入れてもらえないこと、靴を買う金も渡されないこと、携帯電話まで預けさせられたことを話した。話しているうちに、これまで別々の出来事だと思っていたものが、一本の糸でつながっていくようだった。
「今夜、食事を取れる見込みはありますか?」
「頼めば、何か残してくれると思います」
「頼まなければ食べられないのですね」
由紀子は返事をせず、黒ずんだブラウスの袖口を指で隠した。柴田は看護師を呼び、由紀子に温かいお茶と糖分の少ない軽食を用意するよう頼んだ。看護師が持ってきた小さなサンドイッチには、キュウリと卵が挟まれていた。
「これは病院からではなく、私の昼食を半分にしただけですから、遠慮しないでください」
看護師はそう言い、紙ナプキンを添えた。由紀子は一口食べ、柔らかなパンと薄い塩味を時間をかけて噛んだ。卵のにおいが鼻へ抜けると、朝から縮んでいた腹の奥がゆっくりほどけた。
柴田は、薬の服用方法を改めて説明した。急な体調変化があればすぐ受診すること、甘い飲み物を食事代わりにしないこと、食べ物がない場合は医療機関や支援者へ連絡することを、紙へ大きな文字で書いた。さらに、生活環境についてケアマネジャーへ相談するよう勧めた。
「ケアマネジャーさんにまで話したら、直樹たちが困るのではありませんか」
「今、困っているのは誰ですか?」
「私です」
由紀子は初めて、迷わず答えた。自分の声は思っていたよりはっきりしていた。柴田はうなずき、今日話した内容を診療記録へ残すと告げた。
「高梨さんが物忘れをすることと、食事やお金を取り上げられてよいことは、まったく別の話です。次回は三か月後ではなく、一か月後に来てください」
「はい。今度は、食べてから薬を飲みます」
「それから、帰る前に受付で地域包括支援センターの連絡先を受け取ってください。電話をかけるかどうかは、高梨さんが決めればいいのです」
診察を終えると、雨は上がっていた。濡れたハナミズキの葉に光が反射し、白い花の先から水滴が落ちている。由紀子は受付でもらった連絡先を、夫のメモと同じ財布の内側へしまった。
帰りのバスでは、春物のコートを着た母子が隣に座った。子どもは紙袋からイチゴ味の飴を取り出し、母親へ一つ渡している。由紀子は甘い匂いを感じても手を伸ばさず、病院でもらった水を少しずつ飲んだ。
息子夫婦の家へ戻ると、玄関には真由美の新しい革靴が並んでいた。由紀子の灰色のスニーカーは端へ押され、粘着テープを巻いた踵が壁に当たっている。居間からは、真由美が掃除機をかける音が聞こえてきた。
「お帰りなさい。検査はどうでした?」
真由美は掃除機を止め、若草色のエプロンのポケットへコードを押し込んだ。由紀子はヘモグロビンA1cが八・九まで上がり、食事を抜いて甘い飲み物を飲んではいけないと言われたと伝えた。真由美は一瞬だけ目を細めたあと、すぐに口元を緩めた。
「お医者さんは、何でも大げさに言いますからね。薬を増やせば下がるんでしょう?」
「薬を増やす前に、食事をきちんと取るように言われました。それから、カルピスソーダはもう飲みません」
「三箱も買ったのに、全部捨てるんですか?」
「直樹が飲まないなら、誰かにあげてください」
由紀子は台所へ行き、コップへ水道水を注いだ。水には何の味もなかったが、診察室で食べた卵サンドの味を消さずに喉を通った。真由美は掃除機の持ち手を握ったまま、由紀子が飲み終わるまで見ていた。
「お母さん、空腹なのでしょう。一本くらい飲んでも平気ですよ」
「先生に止められました。これからは水か、お茶にします」
「毎日楽しみにしていたのに、急にやめたら身体によくないんじゃありません?」
「私は楽しみにしていません」
由紀子が言うと、真由美の笑顔が消えた。掃除機の車輪が椅子の脚へぶつかり、鈍い音を立てる。しかし次の瞬間には、真由美はいつもの表情へ戻っていた。
「分かりました。お母さんがそうおっしゃるなら、無理には勧めません」
夕食には、鶏肉とタマネギを煮た親子丼が用意されていた。由紀子の丼は小さく、ご飯は茶碗の半分ほどだったが、数日ぶりに温かい食事を食べられた。三つ葉の香りが湯気に混じり、由紀子は一口ずつ噛んでから薬を飲んだ。
午後十一時ごろ、由紀子は廊下を歩く音で目を覚ました。卓上時計の秒針が鳴る部屋で、目を閉じたまま耳を澄ませる。足音は台所へ向かい、ビニール袋を動かす音が聞こえた。
由紀子は靴下を履く時間も惜しくなり、裸足で扉へ近づいた。冷えた畳の感触が足の裏へ伝わり、引き戸の溝に小さな埃がたまっているのが見えた。扉を指一本分だけ開けると、廊下の先に真由美の背中があった。
真由美は紺色の寝巻きの上に灰色のカーディガンを羽織り、台所のごみ箱をかき回していた。空の食品容器、ティッシュ、鶏肉の包装トレーを一つずつ持ち上げ、缶を探している。ごみ箱の中にカルピスソーダの空き缶がないと分かると、舌打ちをした。
「本当に飲まなかったのか」
直樹が階段の途中から小声で尋ねた。白いTシャツに灰色のズボンを着て、片手には飲みかけの缶ビールを持っている。真由美はごみ袋を戻し、冷蔵庫の扉を開けた。
「病院で止められたんですって。余計なことを言う医者ね」
「当たり前だろ。母さんは糖尿病なんだぞ。倒れたら、俺たちが困るじゃないか」
「倒れたら施設に入れればいいでしょう。今より管理も楽になるわ」
真由美は冷蔵庫の中を確かめ、冷やしていたカルピスソーダを奥へ押し込んだ。扉の内側には直樹のビールが六本並び、その下には真由美のプリンとチョコレートが入っている。由紀子の名前がついた食べ物は、一つもなかった。
「施設に入れるって、金がかかるだろ」
「由紀子さん自身のお金で払えばいいのよ。それに家も預金も、どうせ最後はあなたのものになるんだから」
「でも、まだ家の名義は母さんだ。預金だって、勝手に全部は動かせないだろ」
「だから、判断できるうちに片づけているのよ。署名はもうもらってあるし、定期預金も来週には解約できるわ」
由紀子は扉の縁を握った。爪が木へ当たり、小さな音がしたため、真由美が振り返った。由紀子は息を止め、扉をゆっくり閉じた。
「今、何か聞こえなかった?」
「時計じゃないか。母さんの部屋の時計、うるさいからな」
直樹の声が近づいた。由紀子は足音を立てないよう布団へ戻り、毛布を肩までかぶった。扉が数センチ開き、廊下の光が細い線になって畳へ落ちた。
「寝ているよ」
直樹はそう言い、扉を閉めた。階段を上がる二人の足音が消えるまで、由紀子は目を閉じたまま動かなかった。裸足の足先には、廊下の冷たさが残っていた。
やがて由紀子は布団から起き、財布を開いた。夫のメモと、今日病院でもらった地域包括支援センターの連絡先を取り出す。卓上灯の黄色い光の下で、『自分で決められるうちは、自分で決めなさい』という文字を人差し指でなぞった。
「お父さん、私が忘れているのではなかったのね」
夕食を頼んだことも、カルピスソーダを断ったことも、通帳を見せてほしいと言ったことも、由紀子は覚えていた。忘れたことにされるたび、自分のほうが間違っていると思わされていただけだった。机の引き出しを開けると、飲まずに隠した缶が三本並んでいた。
由紀子は古いカレンダーの裏を切り、鉛筆を持った。日付、食べたもの、飲むよう勧められた本数、真由美と直樹が話していた言葉を、思い出せる限り書いていった。漢字が分からないところは平仮名にし、時刻が曖昧なところには「夜十一時ごろ」と記した。
『定期預金を来週解約する。署名はもらってある』
そこまで書くと、鉛筆の芯が折れた。由紀子は鉛筆削りを探したが、部屋にはなかった。化粧ポーチから眉墨を取り出し、折れた鉛筆の代わりに続きを書いた。
翌朝、食卓には食パンと目玉焼きが用意されていた。窓の外には久しぶりに青空が見え、隣家の庭からパンジーの紫色がのぞいている。真由美は白いブラウスに黄色いスカーフを巻き、冷蔵庫からカルピスソーダを取り出した。
「昨日は飲めなかったでしょう。今日は仕事へ持っていってください」
真由美は缶を由紀子の布袋へ入れた。由紀子は拒まず、目玉焼きの黄身へ箸を入れた。半熟の黄身が白い皿へ広がり、焼いたパンの端へ染み込んだ。
「ありがとう。仕事から帰ったらいただくわ」
由紀子が答えると、真由美は満足そうに笑った。直樹も新聞から顔を上げず、「母さんは昔からそれが好きだったからな」と言った。由紀子は二人の言葉を、声の調子まで頭の中へしまった。
その日から、由紀子は忘れたふりをすることにした。真由美から缶を渡された日には一本、夕食がなかった日には丸印、通帳の話をそらされた日には三角印をつける。夜になると、夫の遺影の前で一日の出来事を声に出し、カレンダーの裏へ書き足した。
物忘れをする七十二歳の母親を、二人はもう警戒していなかった。由紀子が同じ質問を繰り返すと、真由美は面倒そうに本当のことを漏らすようになった。由紀子は聞き返さず、うなずき、覚えておくべき言葉だけを数えた。
食事を抜かれた回数は四回。カルピスソーダを渡された本数は十七本。給料から渡された金額は三千円。通帳を最後に見た日は三月十四日だった。
そして、定期預金が解約されるまで、あと六日だった。




