第4話 月三千円の自由
第4話 月三千円の自由
三月最後の金曜日、由紀子に初めてのパート代が振り込まれた。午後四時に仕事を終えると、特別養護老人ホームの玄関脇では、薄桃色の枝垂れ桜が三分咲きになっていた。細い枝の下を通ったとき、花びらが一枚、水色のエプロンを入れた布袋へ落ちた。
「由紀子さん、今日はお給料日でしょう。何かおいしいものでも買って帰るの?」
赤い縁の眼鏡をかけた森田が、門の前で自転車の鍵を外しながら尋ねた。森田は夫に桜餅を頼まれたらしく、駅前の和菓子屋へ寄ると言った。由紀子は通帳もキャッシュカードも真由美が持っていることを口にできず、曖昧に笑った。
「お嫁さんが夕食を作ってくれますから、自分では買わなくてもいいんです」
「それはうらやましいわ。うちは今日も昨日のカレーよ。三日目になると、ジャガイモがどこにあるのか分からなくなるの」
森田は笑い、花びらのついた由紀子の布袋を指さした。由紀子は花びらをつまみ、捨てずにエプロンのポケットへ入れた。正一がいたころ、桜が咲くと決まって川沿いを歩き、帰りに草餅を二つ買ったことを思い出した。
息子夫婦の家へ帰ると、玄関に宅配便の箱が三つ積まれていた。一つには靴店の名前、もう一つには化粧品会社の名前が印刷されている。いちばん大きな箱からは、新しい革のにおいが漂っていた。
「ただいま。荷物が届いているわよ」
由紀子が声をかけると、真由美は居間から出てきた。薄いベージュ色のワンピースを着て、耳には小さな真珠の飾りをつけている。今日は友人と食事に出かけるため、会社から早く帰ったのだという。
「お母さん、お帰りなさい。ちょうどよかったです」
真由美は手に持っていた白い封筒を差し出した。表には青いボールペンで「三月分」と書かれている。由紀子が中を見ると、千円札が三枚だけ入っていた。
「これ、お給料なの?」
「お母さんのお小遣いです。残りは生活費と、将来の介護費として積み立てました」
由紀子は封筒の中をもう一度確かめた。施設から渡された雇用条件通知書には、時給千百五十円と書いてあった。週五日、一日三時間働いたのだから、初月は途中からでも三千円よりずっと多いはずだった。
「振り込まれた金額を見せてちょうだい。私が働いたお金でしょう」
「きちんと入っていましたよ。私が確認しましたから、心配しなくても大丈夫です」
「いくらだったの?」
「細かい金額は、今すぐには覚えていません。家計簿を見れば分かりますけれど、これから出かけるので」
真由美はそう言いながら、宅配便の箱を一つ持ち上げた。箱の底にあった納品書が落ち、由紀子の足元へ滑ってきた。真由美が拾うより早く、由紀子の目に、一万八千円という金額と、革靴の商品名が入った。
「ずいぶん高い靴を買ったのね」
「仕事で履くものですから。必要な出費です」
「私も仕事で履く靴が欲しいの。今の靴は底が擦り減って、雨の日には滑るから」
由紀子が玄関に置いた灰色のスニーカーを指さすと、真由美は靴底を一度見ただけで箱を抱え直した。三千円の中から買えばよいと言い、新しい靴の箱を自分の部屋へ運んでいった。由紀子は薄くなったスニーカーの踵へ指を入れ、硬くなった泥を落とした。
居間の食卓には、青い家計簿が置かれていた。由紀子が椅子へ座って開くと、今月の食費や水道光熱費が書かれている。しかし由紀子の年金とパート代がいくら入り、そこからいくら使われたのかは記載されていなかった。
「真由美さん、私が毎月負担する金額を決めましょう。食費はいくらで、電気代はいくらなの?」
廊下から戻った真由美は、由紀子の手元を見ると足を速めた。家計簿を閉じ、両手で自分の胸元へ引き寄せる。その拍子に、机に置かれた花瓶のフリージアが揺れ、黄色い花粉が白いクロスへ落ちた。
「家族の生活費は、そんなに簡単に分けられません。お母さんには難しいでしょう」
「難しくても説明してください。私は食事を残してもらえない日もあるのよ。それなのに、いくら食費を払っているのか分からないのはおかしいでしょう」
「残してもらえないだなんて、人聞きの悪い言い方をしないでください。お母さんが帰る時間を教えてくださらないからでしょう」
「毎日、四時に仕事が終わると伝えているわ」
由紀子は封筒から三枚の千円札を出し、食卓へ並べた。働いた時間と給料を紙へ書こうとしたが、真由美は家計簿もボールペンも持っていった。仕方なく、台所にあったスーパーのチラシの裏へ、指で数えながら勤務日数を書いた。
午後六時すぎ、直樹が帰宅した。新しい濃紺のネクタイを緩め、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。食卓に並べた千円札とチラシを見ると、面倒そうに椅子へ座った。
「母さん、金のことで真由美を責めたそうだな」
「責めていないわ。私の給料がいくらで、生活費にいくら使ったのか、教えてほしいと言っただけよ」
「俺たちは母さんをただで住まわせているんだぞ。部屋代も食費も取らず、洗濯や風呂まで使わせている。少しくらい家に入れるのは当然だろ」
直樹は缶ビールを開け、一口飲んだ。泡が飲み口からこぼれ、食卓へ丸い染みを作った。真由美は布巾を持ってきて直樹の前だけを拭き、由紀子の並べた千円札には触れなかった。
「少しくらいなら払います。でも、いくら払うかは私も一緒に決めたいの」
「家族なのに、いちいち計算するのか。母さんは昔、親子で金の勘定なんかするなと言っていたじゃないか」
「あれは、あなたが中学生のとき、お年玉を妹のようにかわいがっていた従妹と比べたからでしょう」
「そんな昔の話は覚えているのに、昨日言ったことは忘れるんだな」
直樹は笑った。由紀子はチラシへ向けていた鉛筆を止めた。昔のことを覚えていて昨日のことを忘れるのは年齢のせいかもしれないが、それで自分の給料を知らなくてよいことにはならない。
「通帳を見せてください。振込額だけ確かめたら、すぐ返すわ」
「俺は持っていないよ。真由美が管理している」
「では、真由美さん、出してちょうだい」
「今は銀行の貸金庫です。お母さんがなくしたら困りますから」
真由美はためらわずに答えた。通帳を預けたのは二週間ほど前で、いつ貸金庫へ入れたのか、どこの銀行なのかは言わなかった。由紀子が問い返すと、真由美は唐揚げを盛った皿を食卓へ置き、話を終わらせた。
「今日はお母さんの分もありますよ。温かいうちに召し上がってください」
由紀子の皿には、唐揚げが二つと千切りキャベツが載っていた。直樹の皿には六つあり、レモンまで添えてある。由紀子は食べ始める前に糖尿病の薬を食卓へ置いたが、真由美は冷蔵庫からカルピスソーダを取り出し、薬の隣へ置いた。
「食後にどうぞ。今日はお給料日ですから、お祝いです」
「これは飲みません。お茶をください」
「お母さんのために買ったものなのに。わがままを言われると、何をしても無駄な気がします」
真由美は目を伏せ、カルピスソーダを由紀子の前へ押した。直樹は唐揚げを噛みながら、「一本くらい飲めばいいだろ」と言った。由紀子は缶へ手を触れず、水道水で薬を飲んだ。
翌週、灰色のスニーカーの底が一部剥がれた。仕事中に足を引きずるような音がするため、由紀子は休憩時間に粘着テープを巻いた。森田が新しい靴を買うよう勧めたが、由紀子は給料日前だからと答えた。
「この前がお給料日だったでしょう。桜餅でも買うのかと思っていたのに」
「息子の家へ入れるお金が、思っていたより必要だったの」
「それでも、仕事の靴くらい買えるでしょう。転んだら、治療費のほうが高くつくわよ」
森田はしゃがみ、剥がれた部分を押さえてくれた。由紀子の靴下には、親指のところに小さな穴が開いている。由紀子は急いで足を引き、灰色のズボンの裾を下ろした。
その夜、由紀子は穴の開いた靴下を縫った。北側の部屋は暗く、卓上灯の下でも黒い糸を針穴へ通すのに時間がかかった。正一が生きていたころは、「新しいものを買えばいい」と言われても、まだ履けるからと何度も繕ったものだった。
「今度は、買いたくても買えないのよ」
由紀子は遺影へ話しかけ、糸の端を歯で切った。財布には、三千円のうち二千六百円が残っている。靴を買えばなくなり、靴下や昼食を買えば靴には足りなくなる。
美容院へも三か月行っていなかった。洗面所の鏡を見ると、白髪が耳の周りから伸び、後頭部の髪は寝癖で薄く割れていた。真由美の洗面台には、薔薇の香りがする香油と、新しい口紅が三本並んでいる。
「お母さん、その櫛は洗面所に置かないでください。私のものと混じると困りますから」
真由美は由紀子の古い櫛を指先でつまみ、廊下へ出した。由紀子が自分の家から持ってきた、赤い椿模様の櫛だった。歯が一本欠けていたが、正一と旅行した伊豆で買ったため、捨てずに使っていた。
月末が近づくころには、仕事着のブラウスの襟が黒ずんでいた。由紀子は洗面器に湯を張り、固形石鹸をこすりつけたが、何度洗っても薄い輪が残る。漂白剤を使いたくても、勝手に使えば家計が増えると真由美に言われそうで、手を伸ばせなかった。
四月初めの夕方、由紀子は仕事帰りに駅前の商店街を歩いた。八百屋には新タマネギと春キャベツが並び、魚屋からは焼いたホタテのにおいが流れてくる。由紀子の財布には、家までのバス代二百二十円と、千円札が一枚残っていた。
「由紀ちゃんじゃない?」
聞き覚えのある声に振り返ると、友人の澄子が花屋の前に立っていた。明るい若草色のコートを着て、腕には赤いチューリップの束を抱えている。由紀子と正一が暮らしていた家の近所に住み、以前は月に一度、一緒に日帰り温泉へ出かけた友人だった。
「まあ、澄子さん。どうしてここに?」
「娘のところへ寄った帰りよ。それより、あなたこそどうしたの。電話しても出ないし、家へ行ったらカーテンが閉まったままだったのよ」
澄子は由紀子の顔を見つめたあと、擦り減ったスニーカーへ目を落とした。由紀子は足を半歩後ろへ引き、布袋を身体の前へ持ってきた。襟の黒ずみも白髪も、急に商店街の明るい照明へさらされたように感じた。
「息子夫婦の家で暮らしているの。毎日、にぎやかにやっていますよ」
「連絡くらいちょうだいよ。心配していたのよ。随分痩せたんじゃない?」
「仕事を始めたからよ。身体を動かすと健康にいいでしょう」
由紀子は声を高くして笑った。口の端が乾き、唇の皮が引っ張られた。澄子は納得していない顔をしたが、それ以上、人通りの多い場所で問い詰めなかった。
「せっかく会えたんだから、お茶を飲みましょう。そこの喫茶店、桜のシフォンケーキがあるのよ」
澄子が指さした店の窓には、淡い桃色のケーキと紅茶の写真が貼られていた。コーヒーだけでも五百円を超える。由紀子は財布の中の千円札とバス代を思い浮かべ、腹の前で布袋を強く握った。
「今日は用事があるから、また今度にしましょう」
「では、明日は? 由紀ちゃんの携帯へ電話するわ」
「今度、こちらから電話するわ。新しい暮らしに慣れたばかりで、時間がまだ決まらないの」
由紀子はそう言い、澄子の腕へ軽く触れた。澄子のコートからは、洗いたての衣類とチューリップの青い茎のにおいがした。以前なら、二人で温泉まんじゅうを半分ずつ味見し、帰りの電車で正一の悪口を言って笑ったはずだった。
「本当に連絡してね。何かあったら、昼でも夜でもいいのよ」
澄子は自分の電話番号を書こうと、鞄から手帳を出した。由紀子は昔から番号を覚えていると答え、紙を受け取らなかった。番号を持って帰れば、真由美に誰と会ったのか聞かれるような気がした。
澄子が人混みの向こうへ消えるまで、由紀子は花屋の前に立っていた。風が吹き、店先のチューリップが細かく揺れた。足元では、粘着テープを巻いた靴底が浮き、穴の開いた靴下から親指の先がのぞいていた。
由紀子は誰にも見えないよう、灰色のズボンの裾を引き下げた。携帯電話は同居した翌日、詐欺電話に出たら危険だと真由美に取り上げられていた。家の固定電話を使うときも、誰へかけるのか伝えなければならない。
「今度なんて、いつになるのかしら」
由紀子は声に出し、財布の中を確かめた。千円札を使わず、バス停まで歩けば、靴下を二足買えるかもしれない。しかし薄くなった靴底が地面へ当たるたび、踵に硬い痛みが伝わった。
帰宅すると、真由美が玄関で待っていた。薄桃色のネイルを塗った指で腕時計を示し、いつもより二十五分遅いと言った。由紀子の服と布袋から、外で誰かに会った痕跡を探すように視線を動かした。
「どこへ寄っていたんですか?」
「昔の友達に会って、少し話していたの」
「余計なことを話していませんよね。お母さんは記憶が曖昧だから、家族のことを誤解されると困るんです」
「息子夫婦と楽しく暮らしていると話しただけよ」
由紀子が答えると、真由美はいつもの笑顔を浮かべた。冷蔵庫からカルピスソーダを取り出し、仕事を頑張ったご褒美だと言って差し出す。缶の表面についた水滴が、真由美の指から由紀子の手へ移った。
その夜の夕食は、冷めた焼きそばだった。麺は油で固まり、キャベツは芯の部分ばかり残っている。由紀子はカルピスソーダを飲まず、水道水で糖尿病の薬を流し込んだ。
真由美は食器を片づけながら、何度も由紀子の缶を見た。由紀子が北側の部屋へ持っていくまで、菩薩のような笑顔を崩さなかった。押し入れの中には、白と青の箱が二つ重なり、まだ開けられるのを待っていた。
由紀子は布団へ座り、財布から三枚の硬貨と千円札を出した。その隣へ、今日渡された冷たい缶を置く。自分で働いた一か月分の給料より、誰にも頼んでいない甘い飲み物のほうが、手元にたくさんあった。
卓上時計が午後九時を知らせた。由紀子は森田からもらった桜の花びらをエプロンのポケットから取り出し、夫のメモと一緒に布袋へしまった。乾いた花びらは端が丸まり、触れると崩れそうになっていた。
「お父さん、私の自由は、月に三千円なんですって」
由紀子は遺影へ話しかけ、笑おうとした。しかし口元はうまく動かず、カルピスソーダの缶についた水滴だけが、机の上へ丸い染みを広げていった。




