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第3話 箱で届いたカルピスソーダ

第3話 箱で届いたカルピスソーダ


 特別養護老人ホームで働き始めて二週間が過ぎた。三月も半ばになり、通勤路の白木蓮は大きな花びらを落とし始めていた。由紀子は踏まれて茶色くなった花びらを避けながら、灰色のスニーカーでゆっくり歩いた。


 仕事の日は、水色のエプロンとゴム手袋を布袋へ入れて持っていく。真由美から毎日洗濯するように言われたため、夜に手洗いし、北側の部屋へ張った紐に干していた。朝になっても乾いていないことが多く、湿った布が腰へ触れるたびに身体が冷えた。


「由紀子さん、また腰を押さえているじゃない。少し休みなさいよ」


 赤い縁の眼鏡をかけた清掃員の森田が、食堂の隅から椅子を引いてくれた。昼食を終えた入居者たちは部屋へ戻り、卓上には飲み残したほうじ茶と、小さく切られたイチゴが一つ残っていた。甘酸っぱい香りを嗅ぐと、由紀子の腹が小さく鳴った。


「朝は何を食べてきたの?」


「食パンを半分と、インスタントのお味噌汁です。お昼は帰ってから食べるつもりで」


「仕事が終わるのは四時でしょう。それでは夕飯と一緒になってしまうじゃない」


 森田は、自分の弁当箱から小さな塩むすびを一つ取り出した。ラップ越しにも海苔の香りがして、由紀子は思わず手を伸ばしかけた。しかし糖尿病の薬と食事量のことが頭に浮かび、膝の上へ手を戻した。


「お気持ちだけいただきます。息子の家へ帰れば、何かありますから」


 由紀子が答えると、森田は眉を寄せた。けれども余計なことは尋ねず、塩むすびを弁当箱へ戻した。その代わり、給湯室から温かいほうじ茶を持ってきてくれた。


「お茶なら平気でしょう。砂糖も入っていないから」


「ありがとうございます。昔はお茶を飲むたびに、主人が饅頭を欲しがったものです」


「うちの亭主なんて、羊羹を一人で一本食べて、胸焼けしたと騒いだのよ」


 二人は、甘いものを食べすぎた夫の話をしながら休んだ。ほんの五分だったが、温かい茶が腹へ入ると、腰に入っていた力が少し抜けた。由紀子は紙コップを両手で包み、家でもこんなふうに誰かとお茶を飲めたらよいのにと思った。


 その日の仕事は、食堂の床掃除とリネンの回収だった。使用済みのシーツが入った袋は湿って重く、由紀子はエレベーターまで二度休みながら運んだ。洗濯室へ着くころには、薄い桃色のブラウスが背中へ貼りついていた。


「無理をしないでと言ったでしょう。重いものは私たちに声をかけてください」


 介護職員の若い女性が、袋の反対側を持ってくれた。由紀子は礼を言い、腰をゆっくり伸ばした。洗濯機から漏れる洗剤の香りに混じって、昼食のクリーム煮のにおいが廊下に残っていた。


 午後四時に仕事を終えると、空には薄い雲が広がっていた。風は午前中より冷たく、道端の雪柳が細い枝を揺らしている。由紀子はスーパーへ寄ろうとしたが、財布には百八十円しかなかった。


 初めての給料日は一週間後だった。通帳は真由美が管理しているため、振り込まれても自分で確かめることはできない。由紀子は店先に積まれた一袋九十八円のモヤシを眺めたあと、何も買わずに自動ドアから離れた。


「冷蔵庫に卵くらいあるでしょう」


 自分へ言い聞かせ、歩き出した。途中の公園では、小学生が縄跳びをしていた。直樹も一年生のころは縄跳びが苦手で、正一と由紀子が両側から縄を回し、百回跳べるまで練習したことがあった。


 息子夫婦の家へ着き、玄関の扉を開けると、甘い香りがした。台所で菓子でも焼いているのかと思ったが、居間には誰もいない。靴を脱ぎ、腰を押さえながら北側の部屋へ入ると、布団の脇に白と青の段ボール箱が置かれていた。


 箱には大きく「カルピスソーダ」と印刷されていた。一本、二本ではなく、缶が二十四本入る箱だった。真由美が片づけると言っていた古い扇風機は隅へ移され、その空いた場所へ箱がぴったり収まっている。


「どうして、こんなものが私の部屋にあるのかしら」


 由紀子が箱の蓋を開けると、金属の缶がきれいに並んでいた。子どものころの直樹が飲みたいと言うと、糖分が多いから半分ずつにしようと由紀子が止めた飲み物だった。正一は「俺の分まで減らすな」と言い、冷蔵庫の奥へ一本だけ隠したことがある。


 背後で扉が開き、真由美が顔を出した。白いブラウスの上に若草色のエプロンを着け、両手には洗濯物の籠を抱えている。柔軟剤の濃い香りが、沈丁花の弱くなった匂いを覆った。


「お母さん、お帰りなさい。気づいてくださいました?」


「これを買ったのは、真由美さんなの?」


「ええ。お母さん、昔からお好きだったでしょう。毎日のお仕事を頑張っているご褒美です」


 真由美は洗濯籠を廊下へ置き、箱から一本取り出した。缶の側面を指で撫で、冷蔵庫にも一本冷やしてあると言う。由紀子が糖尿病のことを話すと、真由美は不思議そうに首を傾けた。


「私、同居する前にも説明したでしょう。甘い飲み物は控えるように、先生から言われているの」


「でも、薬を飲んでいるんですよね。薬を飲んでいるなら、少しくらい大丈夫なのではありませんか」


「薬は、好きなだけ甘いものを飲むためのものではないわ」


「一本くらいで病気になりませんよ。せっかく買ったのに、気に入らなかったんですか?」


 真由美は声を荒らげなかった。口元に笑みを残したまま、少しだけ目を伏せた。その顔を見ていると、好意を無駄にしようとしているのは自分だと言われているようだった。


「気に入らないわけではないの。昔は好きだったけれど、今は身体のことがあるから」


「毎日三時間も働いているんですもの。糖分を取らないと、かえって倒れてしまいますよ」


 真由美はそう言い、冷蔵庫へ向かった。由紀子が追いかけると、台所の壁には、由紀子が自分の家から持ってきた薬の一覧が貼られていた。「糖尿病・朝食後」と赤い字で書いた部分には、透明なテープまで貼られている。


 真由美は冷蔵庫から、よく冷えた缶を取り出した。表面には細かな水滴が浮かび、掌へ渡されると指が冷たくなった。由紀子は缶を返そうとしたが、真由美は両手を背中へ回した。


「今すぐ飲まなくてもいいですよ。お部屋へ持っていってください」


「夕食のときに、お茶をいただくわ。それより、今夜は何かしら」


「私たちは、もう外で済ませてきました。お母さんはお帰りが遅いから、ご自分で召し上がると思っていたんです」


 由紀子は台所の時計を見た。まだ午後五時を十分ほど過ぎただけだった。帰宅する時刻は昨日も一昨日も伝え、夕食を残してほしいと頼んでいた。


「昨日、お願いしたでしょう。私の分も残しておいてくださいと」


「そうでしたか。お母さん、昨日は自分で作るとおっしゃいませんでした?」


「言っていません」


「最近、お話が食い違うことが増えましたね。直樹さんにも相談したほうがいいかしら」


 真由美は冷蔵庫の扉を閉め、ため息をついた。扉には由紀子の薬の一覧と、その横に宅配ピザの割引券が磁石で留めてある。ごみ箱からは、ピザの箱の端と、フライドチキンの骨が入った紙袋がのぞいていた。


 由紀子は炊飯器を開けた。釜はまだ温かかったが、ご飯は一粒も残っていない。冷蔵庫には卵が一個あったものの、豆腐も長ネギもなくなっていた。


「お昼も食べていないの。何かいただけるものはないかしら」


「戸棚に食パンがあります。でも、あれは直樹さんの明日の朝食なんです」


「一枚くらいいいでしょう。あとで買って返すから」


「家計は別にしたほうが、お互いに気を遣わずに済みます。お母さんのお金は私が預かっていますから、必要なものがあれば前もって言ってください」


 真由美はそう言いながら、戸棚の前へ立った。扉の隙間から、百貨店の包装紙に包まれた菓子箱が見えた。由紀子が正月に一度だけ食べた、バターの香りが強い焼き菓子だった。


「今、何か食べたいと言っているのよ」


「カルピスソーダがあるでしょう。一本飲めば、お腹も少し落ち着きますよ」


 真由美は由紀子の手にある缶を指さし、居間へ戻った。テレビをつける音が聞こえ、明るい音楽と出演者の笑い声が台所まで流れてくる。由紀子は冷たい缶を握ったまま、空の炊飯器の前に立っていた。


 北側の部屋へ戻ると、濡れたエプロンが物干し紐から垂れていた。朝に干した靴下もまだ冷たく、窓の結露が畳へ細い染みを作っている。由紀子は布団の端へ腰を下ろし、糖尿病の薬を手のひらへ出した。


 本来なら、薬は食後に飲むよう指示されている。胃に何も入っていない状態で飲んでよいのか、由紀子には分からなかった。医師から食事を抜かないよう言われていたことだけは覚えている。


「お父さん、どうすればいいと思う?」


 遺影へ尋ねても、腹は空いたままだった。部屋の隅にある箱から、甘い香りが漂うわけではない。それでも白と青の文字を見ていると、喉の奥が飲み物の味を思い出した。


 由紀子は薬を口へ入れ、カルピスソーダの缶を開けた。ぷしゅっと音がして、細かな泡が飲み口まで上がってくる。炭酸の刺激と冷たさが、乾いた舌から喉へ一気に流れた。


「こんなに甘かったかしら」


 若いころには、銭湯の帰りに正一と瓶入りのカルピスを飲んだ。正一は一気に半分まで飲み、由紀子は薄めすぎたほうが好きだった。直樹が幼いころには、三人で氷を入れたコップを並べ、誰のものが一番多いかで言い合った。


 缶の半分を過ぎたころから、舌に甘さが貼りついた。腹は温まらず、胃の中へ冷たい塊が落ちただけだった。それでも薬を飲んでしまったため、由紀子は残りも少しずつ口へ入れた。


 飲み終えた缶を机へ置くと、底が木目へ触れて小さな音を立てた。かつて好きだった飲み物なのに、口の中には白い膜が張ったような後味が残っている。由紀子は洗面所へ行って水を飲み、何度もうがいをした。


 翌日も、仕事から帰ると冷蔵庫にカルピスソーダが一本冷やされていた。夕食には白いご飯と焼きサバが一切れ残されていたため、由紀子は缶へ手をつけなかった。すると夜九時を過ぎたころ、真由美が缶を持って部屋へやってきた。


「お母さん、今日の分をお忘れですよ」


 真由美は卓上時計の横へ缶を置いた。由紀子は、毎日飲むものではないと答えた。真由美は箱の蓋を開け、まだ二十本以上並んでいる缶を見せた。


「せっかく箱で買ったのに、飲まないともったいないでしょう」


「直樹に飲んでもらえばいいわ」


「直樹さんは、炭酸が苦手なんです。お母さんのために買ったものですから、お母さんが飲んでください」


 真由美は枕元へ缶を置き、空き缶を探すように机の下を見た。昨日飲んだ一本は、由紀子が台所のごみ箱へ捨てている。それを確かめると、真由美は満足したようにうなずいた。


 その翌日には、冷えた缶と小さな饅頭が一緒に置かれていた。由紀子がどちらも口にしないでいると、真由美は仕事から戻った直後に部屋へ入ってきた。香水と外の冷たい空気をまとい、未開封の缶を手に取った。


「遠慮しないでください。まだ二箱ありますから」


「二箱? ここにあるものだけではないの?」


「安かったので、三箱まとめて買ったんです。お母さんは毎日お仕事へ行くから、一日一本なら三か月もかかりませんよ」


 真由美は笑い、押し入れの襖を開けた。由紀子の衣類を入れるはずだった下段に、同じ段ボール箱が二つ重ねて置かれている。そのため、由紀子の春物の服は旅行鞄へ入れたまま、部屋の隅に押し込まれていた。


 由紀子は三つの箱を順番に見た。側面には同じ商品の名前と賞味期限が印刷されている。全部で七十二本あり、一日一本なら、ちょうど由紀子の年齢と同じ数だった。


「三箱も、誰が運んだの?」


「直樹さんに車で運んでもらいました。お母さん、重いものは持てないでしょう」


「私が飲めないことは、直樹も知っているはずよ」


「昔からの好物なら喜ぶだろうって、直樹さんも言っていましたよ」


 真由美は一本を由紀子の手へ押しつけ、空になった段ボール箱を畳むような手つきで蓋を閉めた。缶は冷蔵庫から出したばかりで、由紀子の掌を冷やした。沈丁花はほとんど花を落とし、水差しの周りに白い花びらが散っていた。


 親切なら、一箱で十分だったはずだ。飲めないと伝えたなら、誰かへ譲るか、返品すればよい。それでも真由美は、糖尿病と書かれた紙の隣で毎日缶を冷やし、飲み忘れた日は部屋まで届けてくる。


「今日は、あとでいただくわ」


 由紀子は笑って缶を受け取った。真由美は「忘れないでくださいね」と言い、北側の部屋から出ていった。扉が閉まるまで、菩薩のような笑顔を崩さなかった。


 由紀子は缶を開けず、机の引き出しへ入れた。夫のメモを財布から取り出し、その上へ置く。廊下では真由美が直樹に、今日も一本渡したと報告する声が聞こえた。


 由紀子は息を立てずに扉へ近づいた。外では直樹が、「ちゃんと飲んだのか」と尋ねていた。真由美は小さく笑い、明日ごみ箱を見れば分かると答えた。


 その夜、由紀子は夕食に残された冷たいコロッケを半分だけ食べた。衣は油を吸って柔らかくなり、付け合わせのキャベツは端が茶色く乾いていた。由紀子は温かい番茶で薬を飲み、引き出しにしまった缶には手を触れなかった。


 布団へ入っても、押し入れの中の二箱が頭から離れなかった。卓上時計の秒針が音を刻むたび、箱の中で缶が一本ずつ並んでいくように感じられた。由紀子は夫のメモを握り、暗い天井を見ながら初めて考えた。


 これは親切なのだろうか。


 それとも、飲ませなければならない理由が、真由美にはあるのだろうか。


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