第2話 預けた通帳と、ボケ防止の仕事
第2話 預けた通帳と、ボケ防止の仕事
同居を始めて三日目の朝、由紀子は北側の部屋で目を覚ました。薄いカーテンを開けても、窓の向こうには隣家の灰色の壁しか見えず、朝の光は床まで届かなかった。枕元の卓上時計は午前六時十二分を示し、秒針だけが部屋の湿った空気を切るように音を立てていた。
由紀子は薄紫色のカーディガンを羽織り、布団を畳んだ。壁際の段ボール箱は、明日には片づけると言われたまま残っている。箱には「クリスマス用品」「直樹・学生時代」と太い油性ペンで書かれ、上には片方の角が割れた扇風機が載っていた。
「今日こそ、少し片づけてもらいましょう」
由紀子は持ってきた沈丁花の枝へ話しかけ、水差しの水を替えた。置き場所がないため、水差しは窓枠の細い部分へ載せている。白い小花は二つだけ開き、甘い香りが古い畳と防虫剤のにおいに混じっていた。
台所へ行くと、真由美が弁当を作っていた。鮭の切り身を焼く香ばしいにおいが漂い、卵焼きの黄色と冷凍ブロッコリーの緑が、二つの弁当箱へきれいに詰められている。由紀子が朝食を手伝おうとすると、真由美は包丁を置かずに首を横へ振った。
「お母さんは座っていてください。慣れない台所で転んだら大変ですから」
由紀子は食卓の端へ座り、膝の上で手を重ねた。直樹が使ったマグカップには、青い筋のようなコーヒーの跡が残っている。何か役に立とうと思っても、食器の場所も布巾の使い分けも教えてもらっていなかった。
「私のお味噌汁は、どれかしら」
由紀子が尋ねると、真由美は弁当箱の蓋を閉めながら、鍋を振り返った。味噌汁は二人分しか作っていなかったらしく、鍋の底にはワカメが一切れ貼りついている。真由美は戸棚からインスタント味噌汁を取り出し、由紀子の前へ置いた。
「ごめんなさい。お母さんは朝、お味噌汁を召し上がらないと思っていました」
「毎朝飲んでいると、お話ししたでしょう」
「そうでしたか。私、聞いた覚えがないんですけれど」
真由美は笑いながら湯を沸かした。由紀子は、それ以上言うのをやめ、インスタント味噌汁へ乾燥ネギを少し足した。塩味が強く、湯を多めに入れると、今度は味噌の味がほとんどしなくなった。
直樹が二階から下りてきた。白いワイシャツの袖口を留めながら椅子へ座り、真由美が出した鮭と卵焼きを急いで口へ運ぶ。由紀子の前には味噌汁と六枚切りの食パンが一枚だけあり、鮭のにおいが湯気の向こうを通っていった。
「母さん、昨日は眠れたか」
直樹はテレビの天気予報を見たまま尋ねた。由紀子は、時計の音が大きくて何度か目が覚めたと答えた。すると真由美が、年寄りは早寝早起きだから問題ないと笑った。
「それより、お母さん。今日は大事なお話があります。九時ごろ、お部屋へ伺ってもいいですか」
真由美はそう言って、卵焼きの切れ端を自分の口へ入れた。直樹の弁当には小さな醤油差しまで添えられ、由紀子は正一の弁当にも毎日梅干しを入れていたことを思い出した。酸っぱいものが苦手なくせに、入っていないと落ち着かないと文句を言う人だった。
朝食後、由紀子は自分の食器を洗った。真由美は二人分の皿と弁当作りに使った器具を食器洗い機へ入れたが、由紀子の椀だけは流しに残した。由紀子が椀を布巾で拭いていると、直樹が玄関から顔を出した。
「母さん、昼間に勝手に外へ行くなよ。まだ道が分からないだろ」
「駅前の商店街くらい、一人で行けるわ。昨日、車から見えたもの」
「迷子になって、警察から連絡が来たら困るんだよ」
直樹は革靴を履き、踵を床へ二度打ちつけた。由紀子は、自分の家の周りなら目を閉じても歩けると言いかけたが、その家はここから車で四十分も離れている。玄関の花瓶には黄色いフリージアが飾られていたものの、香りを確かめる前に直樹が扉を閉め、外の冷たい空気も一緒に消えた。
午前九時になると、真由美が青い家計簿と書類の束を抱えて部屋へ来た。生成り色のセーターに紺色のズボンを合わせ、髪は耳の下できちんと束ねている。手には三色ボールペンを持ち、会社で面談をする人のように、折り畳み式の小さな机を部屋の中央へ広げた。
「お母さんのお金について、今後の管理方法を決めたいと思います」
真由美は家計簿を開き、付箋を貼ったページを由紀子へ見せた。電気代、ガス代、水道代、食費、日用品費と、整った文字で項目が並んでいる。しかし金額の欄には何も書かれていなかった。
「私の年金から、食費をいくらお支払いすればいいのかしら」
由紀子は老眼鏡をかけ、家計簿を近くへ引き寄せた。真由美はすぐに帳面の端を押さえ、自分の前へ戻した。柔らかな笑顔を浮かべていたが、指先には白くなるほど力が入っていた。
「細かな計算は、私がやります。お母さんには医療費も介護費もかかりますから、まとめてお預かりしたほうが簡単です」
「年金は私の口座へ入るのよ。必要な分を、毎月お渡しするのではいけないの?」
「お母さんが管理に迷うと危ないですから。詐欺も多いですし、暗証番号を忘れたら大変でしょう」
真由美は責めるような声を出さず、由紀子のためだという口調を崩さなかった。そのため由紀子は、断る自分のほうが意地を張っているように感じた。机の上に置いた老眼鏡の鎖が、指先の動きに合わせて小さく震えた。
「通帳は、ずっと私が管理してきたの。お父さんが入院したときも、保険や病院への支払いは全部私がしたのよ」
「それは、お父さんがいらしたときのお話でしょう。今は一人で鍋を焦がしてしまう状態なんです」
真由美が言い終えたところで、玄関の扉が開いた。忘れ物を取りに戻った直樹が、ネクタイを緩めながら部屋をのぞいた。話を聞くと、母親をなだめるように畳へ腰を下ろした。
「母さん、この前だって鍋を忘れただろう。金のことだって、何かあってからでは遅いんだぞ」
「鍋を焦がしたことと、通帳は別でしょう」
「別じゃないよ。忘れることが増えているってことだろ。真由美は母さんから金を取ろうとしているわけじゃないんだから、家族を信用してくれよ」
直樹は腕時計を何度も見た。仕事へ遅れたくないのだろうと分かり、由紀子は話を長引かせることが申し訳なくなった。正一が残業へ出る直前にも、相談事を切り出せず、「帰ってから聞いて」と言われたまま眠ってしまった夜がいくつもあった。
「分かったわ。通帳を持ってくればいいのね」
由紀子がそう言うと、直樹はほっとしたように立ち上がった。真由美は深く頭を下げ、「大切にお預かりします」と答えた。二人の顔が緩んだのを見て、由紀子は自分がよい母親らしい選択をしたような気になった。
旅行鞄の底から、通帳を入れた布袋を取り出した。正一の退職金と生命保険金が入った普通預金、由紀子の年金口座、定期預金の証書がまとめてある。布袋は、由紀子が昔のワンピースをほどいて縫ったもので、白い小花の模様がところどころ薄くなっていた。
「ずいぶん古い袋ですね。新しいものへ替えましょうか」
真由美が布袋ごと受け取ろうとしたため、由紀子は通帳だけを取り出した。袋には正一が使っていた朱肉のにおいが残っている。由紀子は空になった袋を畳み、遺影の下へ置いた。
「袋は私が持っているわ。それから、通帳を使うときは、必ず私に言ってちょうだい」
「もちろんです。勝手なことは一つもしません」
真由美は通帳とキャッシュカードを確認し、透明なファイルへ入れた。それから暗証番号が必要だと言った。由紀子が紙には書かないと答えると、「では、忘れないうちに私へ教えてください」と耳を寄せた。
「どうして暗証番号まで必要なの?」
「医療費や介護用品を下ろすたびに、お母さんを銀行へ連れていくのは大変でしょう。私が代わりに下ろせば、お母さんも楽になります」
直樹も、家族なのだから問題ないと口を添えた。由紀子は声を低くし、四桁の番号を伝えた。それは直樹が生まれた月日であり、息子本人は意味に気づかなかった。
直樹が再び仕事へ出たあと、真由美は書類を何枚も机へ並べた。介護費の口座振替、年金関係の連絡先変更、医療費の支払い手続きだと説明する。細かな文字が並び、老眼鏡をかけても薄い灰色の欄は読みづらかった。
「一枚ずつ読ませてちょうだい。お父さんは、契約書は最後まで読めと言っていたから」
由紀子が一枚目を持ち上げると、真由美は腕時計を見た。昼から仕事へ行かなければならず、今日中に提出しないと手続きが遅れると言う。由紀子の前へ印鑑を置き、署名する場所へ付箋まで貼ってあった。
「難しい内容はありません。お母さんの介護に必要なものだけですから、私を信じてください」
真由美は一枚ずつ紙をめくり、ここへ名前、ここへ住所と指で示した。途中で宅配便が届き、玄関に米の袋と洗剤の箱が積まれた。由紀子が内容を確かめようとするたびに、「次はこちらです」と新しい紙が重ねられた。
由紀子は六枚の書類へ名前を書き、印鑑を押した。そのうち一枚には「定期預金」という文字があったように見えたが、真由美はすぐに次の紙をかぶせた。由紀子が尋ねると、定期預金も管理対象として銀行へ届け出るだけだと答えた。
「解約するわけではないのね?」
「しませんよ。お父さんが残してくださった大切なお金でしょう」
真由美は笑い、書類を角のそろった束に戻した。インクが乾いていない部分へ紙が重なり、由紀子の署名がわずかににじんだ。真由美はそのにじみを親指で確かめ、ファイルを胸に抱えて立ち上がった。
それから四日後、真由美は一枚の求人票を持ち帰った。近所の特別養護老人ホームで、食堂と廊下を清掃する職員を募集しているという。勤務は週五日、午後一時から四時までの三時間だった。
「お母さんにぴったりのお仕事を見つけました。身体を動かせますし、人とお話しするから認知症の予防にもなりますよ」
真由美は夕食の肉じゃがを取り分けながら、すでに施設へ電話をしたと話した。由紀子の皿には、煮崩れたジャガイモと糸こんにゃくが多く、牛肉は小さな切れ端が二枚だけ入っていた。直樹の皿には肉が山になり、その上へ緑色のさやいんげんが添えられている。
「私は働きに来たのではないわ。それに腰が痛む日もあるのよ」
由紀子は箸を置き、腰の後ろへ手を当てた。自分の家では、週に一度ヘルパーと一緒に掃除をし、天気のよい日に庭の草を抜く程度だった。三時間続けて床を拭けるかどうか、考えただけで腰の奥が重くなった。
「家に閉じこもっているより健康的だよ。小遣いも稼げるんだから、一石二鳥だろ」
直樹は肉を口へ入れ、ビールで流し込んだ。真由美も、面接で腰痛について相談すれば重い仕事は避けてもらえると言う。由紀子が週五日は多いと伝えると、慣れれば平気だと二人で決めてしまった。
翌週、由紀子は特別養護老人ホームの面接を受けた。家にあった紺色のブラウスと灰色のスカートを着ていくと、裾に小さなしわが残っていた。面接を担当した女性は人手が足りないと話し、健康状態を尋ねたあと、まず二週間働いてみることを勧めた。
「無理なときは、必ず言ってくださいね。腰を痛めてまで働く仕事ではありませんから」
女性の言葉に、由紀子は頭を下げた。真由美は隣から、「母は家にいると何もしませんから、少しくらい動いたほうがいいんです」と笑った。由紀子は何か言おうとしたが、面接室の窓辺に飾られた黄色い水仙が揺れているのを見ているうちに、機会を逃した。
仕事を始めた初日、由紀子には水色のエプロンとゴム手袋が渡された。食堂の床には昼食のご飯粒が落ち、車椅子のタイヤで薄く伸ばされていた。消毒液と煮魚のにおいが混じる中、由紀子は長いモップを両手で握った。
「新人さん、そこが終わったら、廊下もお願いできる?」
先輩の清掃員は六十代の女性で、赤い縁の眼鏡をかけていた。由紀子より小柄だが、モップを動かす手は速い。由紀子が腰を伸ばすと、その女性は作業台の下から丸椅子を出してくれた。
「最初から張り切ると、明日起きられなくなるわよ。三分でも座って休みなさい」
「ありがとうございます。息子には、家で何もしないと言われてしまったんです」
「家で何もしない人が、そんな手をしているものですか。ずっと水仕事をしてきた手でしょう」
女性は由紀子の指先を見て、そう言った。爪の脇には洗剤でできた細いひびがあり、右手の人差し指は包丁を握ってきたため少し曲がっている。正一と直樹の弁当を何十年も作った手を、初対面の人が先に分かってくれた。
二日目には使用済みのリネンを集め、三日目には大きなゴミ袋を集積所まで運んだ。生ごみと紙おむつの袋は重く、階段の手前で腕が震えた。由紀子は何度も持ち替えたが、午後四時の終業時刻には、腰の奥が火照って椅子から立つのにも時間がかかった。
帰り道には白い木蓮が咲き始めていた。由紀子は一本の木の下で立ち止まり、上を見上げるふりをして腰を伸ばした。薄暗い空を向いた白い花は、紙で作った小さな器のように見えた。
「来年は、お父さんの庭にも木蓮を植えようかしら」
口に出してから、来年もあの家へ戻れるのだろうかと考えた。半年だけという約束は、まだ失われていない。そう自分へ言い聞かせ、由紀子は重い足を息子夫婦の家へ向けた。
玄関を開けると、焼き魚と味噌汁のにおいがした。由紀子は靴を脱ごうとしたが、腰が曲がらず、壁へ手をついたまま片足ずつ踵を押し出した。靴下を引き下ろすだけでも腰へ痛みが走り、玄関の上がり框に座り込んだ。
「ただいま。少し遅くなってしまったわ」
返事はなかった。居間へ入ると、食卓には食べ終えたアジの骨、冷めた味噌汁の椀、丸めたティッシュが残っていた。テレビでは旅行番組が流れ、真由美はソファに座って温泉宿の露天風呂を眺めていた。
「私の夕食は、どこにあるのかしら」
由紀子が尋ねると、真由美は初めて帰宅に気づいたように振り返った。口元には食後に飲んでいたらしいカフェオレの泡が少しついている。真由美はそれを指で拭い、台所の時計を見上げた。
「ごめんなさい。お母さんは帰りが遅いので、ご自分で好きなものを召し上がると思っていました」
「四時までの仕事だと話したでしょう。着替えて歩いて帰れば、この時間になるわ」
「そうでしたか。私、お母さんは施設で何か召し上がるのかと思っていました」
施設は働く場所であり、食事は出ないと由紀子は説明した。真由美は「あら、そうなんですね」と言っただけで、立ち上がろうともしなかった。直樹は二階で入浴しているらしく、浴室からシャワーの音が響いていた。
由紀子は冷蔵庫を開けた。中には卵が一個、賞味期限が明日までの豆腐、半分になった長ネギが入っている。上段にはプリンが二つ並んでいたが、蓋に黒いペンで「直樹」「真由美」と名前が書かれていた。
「この豆腐は、いただいてもいいの?」
由紀子が尋ねると、真由美はテレビを見たまま、期限が近いから食べてよいと答えた。まるで捨てる手間を引き受けてもらうような言い方だった。由紀子は豆腐を皿へ移し、長ネギを刻もうとしたが、立っているだけで腰が震えた。
「お醤油をかけるだけでいいわ」
冷たい豆腐へ醤油をかけ、残っていた削り節を少し載せた。炊飯器を開けると、米粒一つ残っていなかった。戸棚に食パンがあったものの、袋の口を留める留め具にまで「朝食用」と真由美の字で書かれていた。
「ご飯もないの?」
「二人分しか炊きませんでしたから。お母さん、お仕事を始めてから食欲があるんですね」
真由美は笑い、食卓の皿を重ね始めた。アジの骨から冷えた脂のにおいが立ち、由紀子の空腹を余計に刺激した。由紀子は豆腐を一口ずつ崩し、水道水を飲んで腹へ流し込んだ。
「明日から、私の分も夕食を残しておいてください」
「分かりました。でも、お母さんが何時に帰るか、私には分かりませんから」
「四時に仕事が終わると言ったでしょう」
「自分の予定は、自分で管理してくださいね。自分のことを自分でするのも、ボケ防止ですよ」
真由美は食器を重ね、由紀子の前を通り過ぎた。その手には、直樹が食べたアジの皿と、自分が使ったカフェオレのカップだけが載っている。由紀子が食べている豆腐の皿は、最初から食卓の一部ではないように残された。
北側の部屋へ戻ると、卓上時計が午後六時三十八分を示していた。沈丁花の花は半分ほど開いていたが、暖房のない部屋で葉の先がしおれている。由紀子は水差しへ少し水を足し、遺影の前に空になった豆腐の皿を置いた。
「お父さん、私、働かないとここに置いてもらえないのかしら」
正一の写真は、いつものように少し口を曲げていた。由紀子は財布から夫のメモを取り出したが、指に力が入らず、折り目をうまく開けなかった。壁の向こうでは真由美が笑い、直樹に明日の弁当は唐揚げだと話していた。
由紀子はメモを財布へ戻し、布団の上へ横になった。腰の下へ畳んだタオルを入れると少しだけ楽になったが、腹の中では冷たい豆腐が水と一緒に揺れているようだった。枕元の時計が一秒ずつ音を刻む中、通帳を入れていた小花模様の布袋だけが、遺影の下に薄く畳まれていた。




