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第1話 焦げた鍋と、息子の迎え

第1話 焦げた鍋と、息子の迎え


 三月の初め、由紀子は朝の食卓に湯飲みを二つ並べた。自分の湯飲みには白湯を注ぎ、向かい側の藍色の湯飲みには何も入れない。夫の正一が亡くなって二年たっても、そこへ箸置きまで置いてしまう朝があった。


「今日は沈丁花が咲きそうよ。あなた、あの匂いが強すぎるって、毎年文句を言っていたわね」


 返事の代わりに、台所で冷蔵庫が低くうなった。由紀子は薄紫色のカーディガンの袖をまくり、昨日の残りの味噌汁を小鍋へ移した。大根と油揚げの味噌汁はすっかり冷えており、表面には白い脂が小さく固まっていた。


 味噌汁を温めている間に、由紀子は庭へ出た。朝露に濡れた沈丁花のつぼみは、濃い桃色の先から白い花びらをのぞかせている。枯れた葉を二枚拾ったところで、物干し竿に昨日の靴下を干したままだったことを思い出した。


「あら、また夜露に当てちゃった。これでは洗った意味がないじゃない」


 由紀子は自分に言い聞かせるように笑い、靴下を取り込んだ。庭の隅には、正一が漬物石の代わりに拾ってきた丸い石が残っている。川原からそんな重いものを持ち帰って腰を痛め、湿布の匂いをさせながら三日も威張っていた姿を思い出し、由紀子は石についた土を靴先で払った。


 そのとき、焦げ臭いにおいが鼻へ入った。由紀子は靴下を抱えたまま台所へ駆け込み、ガスの火を止めた。味噌汁はほとんど蒸発し、小鍋の底で大根が茶色く縮れていた。


「ああ、またやってしまった」


 鍋を流しへ置くと、熱い底から水蒸気が噴き上がった。焦げた味噌のにおいが目に染み、由紀子は咳き込みながら窓を開けた。先月も煮豆を焦がしたばかりで、その鍋には今も黒い輪が残っている。


 由紀子は食パンを一枚焼き、マーガリンを薄く塗った。糖尿病の薬を白湯で流し込むと、少し欠けた皿の上でパンを半分に折った。正一がいたころなら、鍋を焦がしたことを隠そうとして換気扇を強く回し、結局においで見つかっていただろう。


「母さん、煙が出たら換気扇じゃなくて、まず火を消すんだぞ」


 正一はよくそう言いながら、自分では魚焼き器にアジを入れたまま将棋番組を見ていた。由紀子が注意すると、「魚には少しくらい焦げ目があったほうがいい」と言い張った。二人とも似たようなものだったのだと考えると、焦げた鍋を前にしても口元が少し緩んだ。


 午前十時になると、電話が鳴った。一人息子の直樹は毎週日曜日に安否確認の電話をくれるが、今日は水曜日だった。由紀子は濡れた手をエプロンで拭き、三回目の呼び出し音で受話器を取った。


「母さん、今、何をしていた?」


 直樹の声の向こうで、自動車の方向指示器らしい音が規則正しく鳴っていた。由紀子は、何でもないと答えようとして、流しに置いた黒い鍋を見た。息子に隠すほどのことでもないと思い、味噌汁を焦がしたことを話した。


「でも、すぐ気づいたのよ。窓も開けたし、火も消したから大丈夫」


 由紀子は明るい声を作り、窓辺に置いたラジオの音量を下げた。天気予報では午後から風が強くなり、花粉が多く飛ぶと言っている。直樹はしばらく黙ったあと、低い声で先月の煮豆のことを尋ねた。


「二度目だろ。もし母さんが庭で転んで、そのまま火が燃えていたらどうするんだ。隣の家まで焼けるかもしれないんだぞ」


 由紀子は、ガス台を電磁調理器へ替えるつもりだと説明した。タイマーを使い、火をつけたら台所から離れないよう紙に書いて貼ればよい。そう話しながら、冷蔵庫を見ると、「薬」「ごみの日」「戸締まり」と自分で書いた紙が、磁石で何枚も留めてあった。


「もう一人で工夫する段階じゃないよ。母さん、今日の午後、そっちへ行くから」


 電話は由紀子の返事を待たずに切れた。受話器から短い電子音が聞こえ、部屋には焦げた味噌のにおいだけが残った。由紀子は電話台の引き出しから古い住所録を出し、電気店の番号に丸をつけた。


 昼食には、焦げていない部分の大根を洗い、卵と一緒に雑炊へ入れた。捨てればよいものを、正一が見たらもったいないと言うような気がした。刻んだ三つ葉を散らすと青い香りが立ち、少し焦げ臭さの残る台所にも春らしい色が加わった。


「お父さんなら、これくらい平気で食べたわよね」


 仏壇へ小さな茶碗を供え、由紀子も雑炊を口に運んだ。大根には苦みが残っていたが、卵の柔らかさに混じれば食べられないほどではない。洗濯機が止まった音がしても、今度は食べ終わるまで立ち上がらなかった。


 午後二時すぎ、門の前で車のドアが閉まった。直樹は紺色のダウンジャケットを着たまま玄関へ入り、靴もそろえず台所へ向かった。流しの鍋を見つけると、底を確かめるように持ち上げ、焦げ跡を親指でこすった。


「こんなになるまで気づかなかったのか」


 直樹の額には汗が浮いており、外の冷たい風と整髪料のにおいを連れてきていた。由紀子は座布団の端を直し、お茶をいれようとした。直樹は急須へ伸ばした母親の手を押さえ、自分で台所へ立った。


「母さん、火事になったらどうするんだ。もう一人暮らしは無理だよ」


 直樹が湯を注いだ湯飲みから、玄米茶の香ばしいにおいが立った。茶葉を入れすぎたため、色は濃く、飲むと舌の奥に苦みが残った。由紀子は湯飲みを両手で包み、電磁調理器なら火が出ないと、もう一度説明した。


「それに、来週はケアマネジャーさんが来るのよ。ヘルパーさんを増やせるか、相談してみるから」


 由紀子は冷蔵庫に貼った予定表を指さした。木曜日には通院、金曜日には訪問介護と書かれている。直樹は予定表を見ても顔を緩めず、「その日以外は一人だろう」と言った。


「母さんに何かあったら、俺は一生後悔する。頼むから、俺たちの家に来てくれよ」


 直樹は子どものころから、頼み事をするときだけ右の眉を少し下げる癖があった。小学生のころ、金魚を飼いたいとねだったときも同じ顔をしていた。由紀子はその眉を見ているうちに、断る言葉を口の中で何度も引っ込めた。


「真由美さんに迷惑でしょう。家だって、そんなに広くないじゃない」


 由紀子が尋ねると、直樹はすぐに携帯電話を取り出した。画面を何度か押し、真由美へ電話をかける。呼び出し音が一度鳴っただけで、明るい声が聞こえた。


「お母さん、遠慮なさらないでください。お部屋はもう用意してあります」


 電話は拡声にされ、真由美の声が居間へ広がった。由紀子は、まだ行くとも言っていないのに部屋が用意されていることが気になった。しかし直樹が安堵したように息を吐いたため、問い返す機会を逃した。


「お食事も三人でいただけますし、私がお薬も管理します。お母さんは、何も心配しなくていいんですよ」


 真由美の声は、温めた牛乳のように柔らかかった。由紀子は、正月に真由美が持ってきた栗きんとんを思い出した。糖分を控えていると話したところ、小さな器へ一口分だけ盛り、「無理には勧めません」と笑ってくれたことがあった。


「でも、この家をどうするか決めていないの。お父さんと四十年近く暮らした家だから」


 由紀子は柱についた鉛筆の線を見上げた。直樹が十歳のときに測った身長が、日付と一緒に残っている。その下には、正一が間違えて書いた「百四十三センチ」が二重線で消されていた。


「家は急いで売らなくてもいいよ。まず半年、うちで暮らしてみればいい。嫌なら戻ってくればいいんだから」


 直樹はそう言って、冷めた玄米茶を一気に飲んだ。真由美も電話口で、「半年だけでも安心させてください」と繰り返した。由紀子は柱の線から目を離せないまま、ようやく小さくうなずいた。


 荷造りは、直樹が手伝うと言い張った。由紀子は春物のブラウスを三枚、茶色のズボンを二本、薄紫色のカーディガンを古い旅行鞄へ入れた。引き出しの奥から片方だけの手袋が出てきて、正一が入院した冬、病院へ急ぐ途中でなくしたものだと思い出した。


「それ、片方しかないなら捨てようか」


 直樹が手を伸ばしたため、由紀子は手袋を胸元へ引き寄せた。もう使えない物だとは分かっている。それでも、捨てるかどうかは自分で決めたいと思い、旅行鞄の端へ押し込んだ。


「持っていくわ。鍋つかみにできるもの」


 直樹は首をかしげたが、それ以上は何も言わなかった。庭では風が強くなり、物干し竿のハンガーが乾いた音を立ててぶつかっている。由紀子は干していたタオルを一枚ずつ外し、洗濯ばさみを数えて籠へ入れた。


 最後に、仏壇から正一の遺影を下ろした。黒い額縁には薄く埃が積もり、拭いた布に灰色の筋がついた。裏板が少し浮いていたので押し直そうとすると、中から四つ折りの紙が畳へ落ちた。


「何か落ちたよ。領収書じゃないのか」


 直樹は段ボール箱を閉じながら振り返った。由紀子が紙を開くと、正一の角張った文字が三行だけ書かれていた。晩年、入院する前に書いたものらしく、最後の文字は右上がりにかすれている。


『由紀子へ。人に迷惑をかけないことばかり考えるな。自分で決められるうちは、自分で決めなさい』


 由紀子は声に出さず、二度読んだ。正一は、由紀子が店で何を食べるか迷うと、「俺と同じでいいと言うな」とよく叱った。自分はそばを頼んでおきながら、由紀子が選んだ天丼の海老を欲しがる、勝手な人でもあった。


「お父さん、何だって?」


 直樹が紙をのぞこうとしたため、由紀子は折り畳んで財布の奥へ入れた。夫婦だけの話だからと答え、遺影を風呂敷で包む。真由美には見せたくないと考えたわけではないが、なぜか通帳や印鑑と同じ箱には入れたくなかった。


 夕方、由紀子は直樹の車へ乗り込んだ。膝の上には遺影を入れた鞄を置き、足元には沈丁花の小枝を水差しごと入れた袋を置いた。車が動き出すと、見慣れた生け垣と郵便受けが窓の外へ流れていった。


「半年だけよ。家は売りませんからね」


 由紀子は前を向いた直樹の横顔へ念を押した。直樹は分かっていると答え、暖房の温度を上げた。吹き出し口から乾いた風が出て、沈丁花の甘い香りと車内の芳香剤のにおいが混ざった。


 直樹夫婦の家に着いたころには、空が薄い藍色になっていた。真由美は薄桃色のエプロンを着け、玄関の外まで迎えに出ていた。煮込み料理らしい匂いが開いた扉から流れ、冷えた由紀子の腹が小さく鳴った。


「お母さん、お待ちしていました。今日から、ここがお母さんの家です」


 真由美は由紀子の両手を包み、菩薩のように微笑んだ。その手は湯に触れたばかりなのか、しっとりと温かかった。玄関には新しい花柄のスリッパが一足そろえてあり、由紀子は自分のために選んでくれたのだと思った。


「おでんを煮てあります。大根は柔らかくしておきましたから、歯にも優しいですよ」


 真由美は赤い鍋の蓋を開けて見せた。昆布と醤油の匂いが広がり、卵、こんにゃく、大根が湯気の中に並んでいる。由紀子は昼の焦げた大根を思い出し、今夜は温かいものを食べられると肩の力を抜いた。


「先にお部屋をご覧になりますか。きっと気に入っていただけますよ」


 真由美は由紀子の旅行鞄を持ち、廊下の奥へ進んだ。日当たりのよい南側には、直樹夫婦の寝室と、真由美が趣味に使う明るい洋室があった。その二部屋を通り過ぎ、真由美は北側の突き当たりにある扉を開けた。


 中には、折り畳んだ段ボール箱、古い掃除機、季節外れの扇風機が壁際へ押し込まれていた。細い窓の外には隣家の壁が迫り、夕方になる前から部屋は暗かった。芳香剤を置いたばかりらしいラベンダーの匂いの下に、埃と湿った畳のにおいが残っている。


「少し荷物が残っていますけれど、明日には片づけますね」


 真由美は部屋の中央に敷かれた細い布団を指さした。枕元には小さな卓上時計があり、秒針がやけに大きな音を立てている。由紀子は持ってきた沈丁花を窓辺に置こうとしたが、水差しを置ける台はなかった。


「南側のお部屋を用意してくれたのかと思っていたわ」


 由紀子が言うと、真由美の笑顔がほんの一瞬だけ止まった。廊下では直樹が段ボール箱を床へ置き、聞こえなかったふりをして携帯電話を見ている。真由美はすぐに目尻を下げ、由紀子の薄紫色の袖についた糸くずを取った。


「南側は私の仕事道具が多くて危ないんです。こちらのほうが玄関にもお手洗いにも近いですから、お母さんのためですよ」


 由紀子は、そうなのねと答えた。財布の中では、正一の残した紙が、硬い角を作って指先に触れていた。廊下の向こうからは、おでんの鍋が煮立つ音と、真由美が用意した食器の触れ合う音が聞こえていた。


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