第12話 引っ越しの朝
第12話 引っ越しの朝
引っ越しの朝、由紀子は午前五時に目を覚ました。北側の窓はまだ暗く、隣家の台所から味噌汁の匂いと、まな板をたたく包丁の音が届いていた。由紀子は卓上時計の秒針を聞きながら、布団の中で直樹夫婦が起きる時刻を待った。
枕元には、薄い桃色のブラウスと紺色のズボンを畳んで置いてある。どちらも自分で買い、十年以上着てきた服だった。真由美から渡された生成り色のセーターは、旅行鞄へ入れず、段ボール箱の上に残した。
「お父さん、今日、出ていきます」
由紀子は夫の遺影へ小声で話しかけた。黒い額縁は古いタオルで拭き、白い風呂敷へ包んである。正一が使っていた藍色の湯飲みも、新聞紙を三枚重ねて巻いておいた。
午前六時半になると、二階から目覚まし時計の音が聞こえた。真由美は階段を下りると、台所でコーヒーメーカーのスイッチを入れ、直樹の弁当を作り始めた。卵焼きとウインナーの匂いが廊下へ流れ、由紀子の腹が小さく鳴った。
「お母さん、今日はお仕事ですよね?」
真由美は黄色いエプロンを着け、卵焼きを弁当箱へ詰めながら尋ねた。由紀子は食卓へ座り、いつものように食パンを一枚受け取った。今日が引っ越しの日だと悟られないよう、髪も服装も普段と同じにしていた。
「ええ。四時まで働いてきます」
「帰りに牛乳を買ってきてください。昨日お渡しした三千円が、まだ残っているでしょう」
「牛乳は、あなたたちも飲むのでしょう?」
「家族なんですから、細かいことは言わないでください」
真由美は由紀子の皿へ、固くなったイチゴジャムを少しだけ載せた。自分と直樹の皿には、卵焼きとウインナーが並んでいる。由紀子は何も言わず、ジャムをパンの端まで薄く伸ばした。
直樹は新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。食卓の脇には新しい車の鍵が置かれ、銀色の飾りが朝の照明を反射している。その車の代金に、由紀子の定期預金が使われていた。
「母さん、銀行から何か連絡が来ていないか?」
直樹は新聞から顔を上げずに尋ねた。由紀子は紅茶へ口をつけ、知らないと答えた。録音機はブラウスのポケットで動いていたが、今日は新しい言葉を集めるためではなく、最後まで身を守るためにつけていた。
「どうして銀行から連絡が来るの?」
「別に。年金の口座を確認したかっただけだ」
「通帳は真由美さんが持っているのでしょう。私は何も分からないわ」
由紀子が以前と同じように答えると、直樹はそれ以上尋ねなかった。真由美も、仕事から帰ったらカルピスソーダを飲むよう言い、冷えた缶を布袋へ入れた。由紀子は笑顔で礼を言った。
午前七時四十分、直樹が先に家を出た。真由美は鏡の前で薄桃色の口紅を塗り、薔薇の香油を耳の後ろへつける。玄関には新しい革靴が並び、その隣で由紀子の灰色のスニーカーだけが、剥がれた靴底をテープで巻かれていた。
「戸締まりをお願いしますね。知らない人が来ても、絶対に開けてはいけませんよ」
「分かりました。いってらっしゃい」
「牛乳も忘れないでください。お母さんは、言われたことをすぐ忘れるんですから」
真由美は菩薩のような笑顔を残し、玄関の扉を閉めた。靴音が門の外へ遠ざかり、しばらくすると車のエンジン音も聞こえなくなった。由紀子は窓から二人が戻ってこないことを確かめ、録音機を止めた。
午前八時ちょうど、門の前に白いワゴン車が停まった。智子、ケアマネジャーの遠藤、訪問看護師の木下が降り、そのあとから引っ越し業者の男性二人が来た。由紀子は自分で玄関を開け、三人を中へ招いた。
「体調はどうですか? 朝のお薬は飲みましたか?」
木下は最初に由紀子の顔色を確かめた。由紀子は朝食を食べ、薬も飲んだと答え、服薬表の赤い丸を見せた。腰には湿布を貼り、重いものを自分で持たない約束もしていた。
「作業は私たちに任せてください。由紀子さんは、持っていくものを決めてください」
遠藤は部屋の入口へ椅子を置いた。段ボール箱へ詰める人と、由紀子へ確認する人を分け、勝手に物を捨てないよう引っ越し業者にも伝えた。智子は持ち出す品を一覧へ記録し、写真も残していった。
由紀子は旅行鞄から、自分の衣類を一枚ずつ選んだ。薄桃色のブラウス、薄紫色のカーディガン、灰色と紺色のズボン、何度も繕った靴下を段ボール箱へ入れる。真由美から買い与えられた生成り色のセーターと、派手な花柄の寝巻きは残した。
「こちらの新しいコートは、持っていかなくていいのですか?」
智子が尋ねると、由紀子は首を横へ振った。真由美から、外へ出るときはみすぼらしく見えないようにと渡されたものだった。袖が長く、着るたびに自分の服ではないように感じていた。
「それは、私が選んだものではありません」
「分かりました。では、置いていきましょう」
「捨てられても構いません。でも、私が持っていかないと決めたことだけは、書いておいてください」
智子は一覧へ記入した。由紀子は正一の遺影と藍色の湯飲み、二人で旅行したときのアルバムを選んだ。伊豆の温泉で買った椿模様の櫛と、片方だけになった手袋も箱へ入れた。
薬は木下が種類と数を確認し、曜日別のケースと一緒に別の鞄へ入れた。糖尿病食の冷凍弁当は、保冷剤を入れた箱で新居へ運ぶ。冷蔵庫の中に残っていた由紀子の食品は、その五食分だけだった。
「このプリンやアイスクリームは、お母様のものではありませんか?」
引っ越し業者の男性が尋ねた。高価なアイスクリームの箱には直樹と真由美の名前が書いてある。由紀子は、自分のものではないと答え、冷凍弁当だけを取り出した。
「食べてはいけないと言われていました。家計が別だからだそうです」
「では、こちらのお弁当だけですね」
「はい。それは私が、自分のお金で頼みました」
業者は余計なことを聞かず、保冷箱の蓋を閉めた。由紀子は、自分で頼んだ食事が運ばれていくのを見届けた。台所には直樹の朝食に使ったフライパンが残り、冷えた脂の匂いがしていた。
北側の部屋から荷物が減ると、押し入れの奥にカルピスソーダの箱が二つ現れた。一箱は開封され、もう一箱は未開封のままだった。白と青の箱は、衣類より広い場所を占めていた。
「これが、毎日飲むよう言われていたものです」
由紀子は智子へ伝えた。智子は箱の正面、賞味期限、未開封の状態が分かるように写真を撮る。開封済みの箱も残っている本数を数え、由紀子の記録と照らし合わせた。
「箱ごと持っていきますか?」
「いいえ。宮原先生へ渡す分だけ、数本持っていきます。残りは、ここにあったことが分かるように残してください」
由紀子は未開封の缶を三本、証拠用の袋へ入れた。袋の口を閉じ、日付と持ち出した本数を智子が記録する。残りの箱には触れず、押し入れの扉も開けたままにした。
部屋の隅には、真由美が置いた卓上時計が残っていた。秒針は相変わらず大きな音を立てている。由紀子は持っていくか迷ったが、自分で選んだ時計を新しい部屋に置くと決め、電池を抜いて机の上へ置いた。
「音がしないと、少し変な感じがするわね」
「新しい時計は、由紀子さんが好きな音のものを選びましょう」
「音のしない時計でもいいかもしれません。朝は訪問看護師さんや宅配の方が来てくださるから」
木下は、目覚ましが必要なら音量を選べる時計もあると教えた。由紀子は急いで決めず、新居で何日か暮らしてから選ぶことにした。誰かに用意されたものを、そのまま受け入れる必要はなかった。
最後に、由紀子は部屋を見回した。畳には布団を敷いていた四角い跡がつき、壁際には段ボール箱の埃が線になって残っている。窓辺へ置いていた沈丁花は、花も葉も乾いていた。
「この水差しは、どうしますか?」
遠藤が尋ねた。正一と暮らした家から持ってきた古いガラスの水差しだった。由紀子は枯れた枝を抜き、水差しだけを新聞紙で包んだ。
「持っていきます。新しい花を、自分で選んで挿します」
午前十時半、すべての荷物がワゴン車へ積み込まれた。高価な家具も、大きな家電もなかった。段ボール箱三つ、旅行鞄一つ、薬の鞄、冷凍弁当の保冷箱だけだった。
由紀子は玄関に立ち、家の鍵を下駄箱の上へ置いた。自分の家の鍵ではなく、直樹から一時的に渡されたものだった。返したことが分かるよう、智子が置き場所を写真に撮った。
「これで、忘れ物はありませんか?」
「忘れたものがあっても、一人では戻りません。必要なら、また一緒に来てください」
「もちろんです。今日、すべてを持ち出さなくても大丈夫ですよ」
「では、行きましょう」
由紀子は灰色のスニーカーを履き、剥がれた靴底のテープを指で押さえた。新居へ着く前に、靴店へ寄って新しい靴を買うことになっている。月三千円の封筒からではなく、由紀子自身の口座から代金を払う。
玄関先では、ピンク色のマーガレットが水切れで葉を垂らしていた。由紀子は何度も水をやった花だったが、今日はじょうろへ手を伸ばさなかった。真由美が選び、真由美が植えた花の世話まで、由紀子が背負う必要はなかった。
新居へ向かう途中、智子たちは商店街の靴店へ寄った。由紀子は黒、茶色、紺色の靴を順番に履き、底が滑りにくい紺色のものを選んだ。値段は四千九百八十円で、これまで渡された小遣い一か月分より高かった。
「少し高いかしら」
「由紀子さんの足に合うかどうかで決めてください。私が金額を決めることではありません」
「では、これにします。仕事にも病院にも履いていけますから」
由紀子は自分の財布から代金を払った。店員が古い靴を処分するか尋ねると、少し考えてから、持ち帰ると答えた。自分がどんな靴で働いていたのか、しばらくは覚えておきたかった。
新しいアパートへ着いたのは、昼前だった。一階の角部屋には午前の日差しが入り、六畳の床を明るく照らしている。窓辺には、青いロベリアの鉢が置かれていた。
「花屋さんに寄る時間がないと思って、仮に用意しました。気に入らなければ、別の花に替えてください」
智子が言うと、由紀子は鉢の前へしゃがんだ。小さな青い花は、触れると細い茎を揺らした。自分で選ぶつもりだったが、気に入ったものまで断る必要はないと思った。
「この花がいいです。でも、代金は私に払わせてください」
「分かりました。領収書をお渡しします」
「ありがとうございます。ここへ置きます」
引っ越し業者が段ボール箱を運び込み、指定された場所へ置いた。衣類は押し入れ、薬は台所脇の棚、アルバムは低い本棚へ入れる。正一の遺影と藍色の湯飲みは、窓辺の小さな棚へ並べた。
昼食には、冷凍弁当の鶏肉と根菜の煮物を温めた。電子レンジから醤油とゴボウの匂いが広がり、由紀子は小さな食卓へ座った。智子たちもコンビニで買ったおにぎりを食べ、遠藤は梅干しの種を紙へ包みながら、酸っぱいものは目が覚めると笑った。
「今日はここで、一人で眠れそうですか?」
木下が尋ねた。由紀子は玄関の手すり、薬の棚、緊急通報装置のボタンを順番に見た。夜になれば何度か目を覚ますかもしれないが、それは誰かに連れ戻される理由にはならなかった。
「眠れなかったら、横になって休みます。明日は木下さんが来てくださるのでしょう?」
「午前十時に伺います。体調が悪くなったら、それより前でも連絡してください」
「では、大丈夫です」
夕方、直樹と真由美が帰宅した。真由美は北側の部屋が空になっているのを見ると、由紀子の名前を呼びながら家中の扉を開けた。残された生成り色のセーターと、音を止めた卓上時計を見つけ、廊下で叫んだ。
「直樹さん、お母さんがいない! 荷物も全部なくなっているわ!」
直樹は携帯電話から由紀子の以前の番号へかけた。しかしその電話はすでに利用を止め、新しい番号は息子夫婦へ知らせていない。直樹は宮原弁護士の名刺を見つけ、事務所へ何度も電話をかけた。
「母に電話をさせてください。居場所を聞くだけです。家族なんだから、話す権利があるでしょう!」
宮原は由紀子の住所を教えなかった。連絡は代理人を通すこと、由紀子の預金を今後動かさないこと、残された荷物や証拠を処分しないことを伝えた。由紀子本人が希望する場合に限り、一度だけ電話で話すことになった。
午後七時、由紀子は新居の固定電話から直樹へかけた。食卓には温かい麦茶と、半分に切った小さなリンゴが置いてある。窓の外では、帰宅する人の自転車のベルと、近所の家で食器を洗う音が聞こえていた。
「母さん、どこにいるんだ! 勝手なことをして、何かあったらどうするんだ!」
直樹の声は、受話器から漏れるほど大きかった。由紀子は耳を少し離し、息子が話し終えるのを待った。指先は震えていたが、受話器を置かなかった。
「私は、自分で選んだ家にいます」
「母さん一人では暮らせないだろ。すぐ迎えに行くから、住所を言え」
「来ないでちょうだい。今後の連絡は、宮原先生を通してください」
「俺は息子だぞ。母親の住所を知る権利がある!」
「私には、会う人を決める権利があります」
直樹の後ろで、真由美が何か叫んでいた。やがて受話器を奪ったらしく、直樹の声が遠くなり、真由美の甲高い声が近づいた。菩薩のような笑顔は見えなかったが、由紀子には口元を歪めた顔が浮かんだ。
「お母さん、通帳もカードも私が預かっているんですよ! お金も持たずに、どうやって暮らすつもりなんですか?」
由紀子は正一の藍色の湯飲みへ麦茶を注いだ。湯気が夫の遺影の前へ上がり、麦の香ばしい匂いが部屋へ広がる。自分の白い湯飲みにも同じ麦茶を注いでから、受話器を握り直した。
「その通帳もカードも、もう使えません」
「何をしたんですか?」
「カードもインターネットバンキングも停止しました。年金とパート代の振込先も変えました。新しい通帳も暗証番号も、あなたたちには渡しません」
電話の向こうが静かになった。直樹が真由美から受話器を取り返し、母親に誰がそんな知恵をつけたのかと尋ねた。由紀子は麦茶を一口飲み、熱さが喉を通るのを確かめた。
「知恵をつけられたのではありません。私は、自分で銀行へ行きました」
「家族の金を勝手に動かすなよ!」
「私の年金と、私のパート代です。お父さんが残した預金も、私の名義です」
「俺たちには住宅ローンがあるんだぞ。母さんが口座を止めたら、今月の支払いをどうするんだ」
「あなたのお給料から払ってください」
「無理だから借りたんだろ!」
「私は、貸すと返事をしていません」
直樹は、定期預金はいずれ自分が相続する金だったと繰り返した。由紀子の頭には、熱を出した息子へすりおろしたリンゴを食べさせた夜が浮かんだ。しかし食卓にいる現在の直樹は、母親の食事を削り、治療費に使う金まで自分のローンへ回していた。
「あなたたちに渡した覚えのないお金は、返してもらいます。詳しいことは、宮原先生からお話しがあります」
「母さん、俺を訴えるのか? 実の息子だぞ!」
「あなたを産んだことと、あなたに私の人生を渡すことは、同じではありません」
「俺が困ってもいいのか!」
「私が困っていたとき、あなたは三千円だけ渡しました。食事がなくても、靴に穴が開いても、私のためだと言いましたね」
直樹は何か言い返そうとしたが、言葉にならなかった。後ろでは真由美が、由紀子は認知症だから契約も通帳変更も無効だと叫んでいる。由紀子は最後まで聞き、声を荒らげずに答えた。
「私に判断する力があることは、医師にも確認していただいています。録音も銀行の履歴も、宮原先生が保管しています」
「録音?」
「では、電話を切ります。もう直接は連絡しないでください」
「待て、母さん!」
「さようなら、直樹」
由紀子は受話器を置いた。指が震え、電話台へ一度ぶつかった。木下から教わったとおり、椅子へ深く腰を下ろし、鼻から息を吸って口からゆっくり吐いた。
テーブルには、切ったリンゴが残っていた。由紀子は一切れだけ口へ入れ、しゃりっとした歯触りと酸味を確かめた。甘いものでも、自分で量を決めて食べることができた。
窓辺では、青いロベリアが夜風に揺れていた。新しい紺色の靴は玄関にそろえ、古い灰色の靴は箱へ入れてある。明日の朝、可燃ごみに出すか、もう少し残すかは、起きてから決めるつもりだった。
「お父さん、やっと言えたわ」
由紀子は正一の遺影へ話しかけた。藍色の湯飲みから上がる湯気は、少しずつ薄くなっている。由紀子は自分の白い湯飲みを持ち、誰にも数えられず、残りの麦茶をゆっくり飲んだ。




