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第13話 甘くない水がおいしい

第13話 甘くない水がおいしい


 由紀子が新しい部屋へ移ってから五日後、直樹夫婦の家へ内容証明郵便が届いた。配達員から封筒を受け取った真由美は、差出人に記された宮原法律事務所の名前を見て、玄関に立ったまま封を切った。庭ではピンク色のマーガレットが水をもらえず、鉢の縁へ茶色い花びらを落としていた。


 書面には、由紀子の口座から移された金銭の返還を求めること、定期預金の解約に使われた委任状の作成経緯について説明を求めることが記されていた。指定された期限までに回答しなければ、民事訴訟を提起し、事実関係に応じて警察への相談や刑事告訴も検討するという。今後、由紀子本人への直接の連絡や接触を控えるよう求める文言もあった。


「直樹さん、どうするのよ。お母さん、本気で取り返すつもりだわ」


 真由美は封筒を握り、居間へ駆け込んだ。食卓には、直樹が朝に飲んだコーヒーカップと、かじりかけのバターロールが残っている。直樹は内容証明を二度読み、冗談では済まない金額だと分かると、口元へ手を当てた。


「母さんは物忘れがあるんだ。金の管理を俺たちへ任せたことを忘れているだけだろ」


「そうよ。由紀子さんが自分で委任状へ署名したの。私たちは頼まれたとおりに管理しただけよ」


「でも、車や旅行の金まで説明できるのか?」


「介護に必要だったと言えばいいでしょう。車は通院用、旅行は介護者の休養。家のローンだって、由紀子さんが一緒に住むための費用よ」


 真由美は早口で言いながら、食卓の上の封筒を何度も裏返した。北側の部屋には、飲ませきれなかったカルピスソーダが二箱近く残っている。由紀子が証拠を持ち出しているとは知らず、真由美は今のうちに捨てようと立ち上がった。


「触らないほうがいい。証拠を処分するなとも書いてある」


「ただの飲み物よ。そんなものまで証拠になるわけがないでしょう」


「録音があるらしい」


 直樹が言うと、真由美の手が止まった。いつ、どこで、何を録音されたのか、二人には分からない。空き缶を数えながら話した夜のことを思い出したのか、真由美は北側の部屋の扉を見つめた。


 期限の二日前、宮原法律事務所へ回答書が届いた。真由美は、由紀子に認知症の症状があり、自分へ財産管理を依頼したと主張した。預金はすべて由紀子を含む家族の生活と介護のために使い、甘い飲料も本人が好きだから購入しただけだと書かれていた。


「私は認知症ではありません。物忘れが少しあると、自分でも話しただけです」


 宮原の事務所で回答書を読んだ由紀子は、黒い革張りの椅子へ座り直した。机の端には宮原が飲み残したコーヒーがあり、冷めた苦い香りが漂っている。由紀子は老眼鏡を上げ、真由美の署名をもう一度確認した。


「医師の診療記録では、由紀子さんに意思決定能力があることが確認されています。物忘れがあることと、財産の管理や住む場所を決められないことは同じではありません」


「鍋を焦がしたことも、また持ち出すでしょうか」


「持ち出すかもしれません。しかし、鍋を焦がしたことは、定期預金の解約や送金へ同意した証拠にはなりません」


「委任状には、私の字があります」


「由紀子さんは、介護関係の手続きだと説明されたと一貫して話しています。それに、使途も重要です」


 宮原は、銀行から取り寄せた記録を机へ並べた。直樹名義の口座への送金、住宅ローン会社への支払い、自動車販売会社、旅行会社、カード会社への振り込みが、日付順に整理されている。由紀子の診療費や介護用品へ使われたことを示す支払いは、ほとんどなかった。


「この旅行の日、私は家に一人でいました。夕食も用意されていませんでした」


「そのことも記録へ加えてあります。介護者の休養が必要だとしても、本人の財産を無断で旅行費へ使ってよい理由にはなりません」


「私のお金で旅行して、私には冷たい豆腐だけだったのですね」


 由紀子は履歴の旅行会社という文字を指で押さえた。正一が生きていたころ、二人で日帰り温泉へ行くにも、割引切符や弁当代を何日もかけて計算した。旅館へ泊まったのは結婚三十周年の一度だけで、そのときも一番安い部屋を選んだ。


 録音データも、すでに文字へ起こされていた。直樹が「母さんの金は、いずれ俺が相続する。先に使っただけだ」と話す声が残っている。真由美が、糖尿病の数値が悪化すれば一人暮らしはできず、施設へ入れる理由になると語った部分も明瞭だった。


「ここまで残っていても、二人は私のためだったと言えるのですか?」


「主張することはできます。しかし、その主張が認められるかは別です」


「私は、どうしたいのかを決めなければならないのですね」


「はい。返還を求めること、接触を制限すること、必要であれば裁判を起こすことについて、由紀子さんが決めます」


 由紀子は夫のメモを机の下で開いた。紙は何度も折り畳んだため柔らかくなり、角が少し破れている。『自分で決められるうちは、自分で決めなさい』という文字を指でなぞり、宮原へ顔を向けた。


「返してもらいます。全額が無理でも、うやむやにはしません」


「分かりました。では、金額と返済方法について正式な協議を申し入れます」


「それから、私へ直接電話をかけたり、新しい家へ来たりしないようにしてください」


「その条件も、書面へ入れましょう」


 最初の協議は、宮原の事務所で行われた。由紀子の希望により、智子も同席した。直樹夫婦は別の弁護士を伴い、由紀子と向かい合う席へ座った。


 真由美は紺色のワンピースを着て、髪をきちんとまとめていた。耳には小さな真珠の飾りがあり、薔薇の香油の匂いも以前と変わらない。しかし机の上で組んだ両手には、薄桃色のネイルが伸びたまま残っていた。


「お母さん、こんなところで話し合わなくても、家族だけで解決できるでしょう」


 真由美は柔らかな声で切り出した。由紀子は返事をせず、宮原が話すのを待った。直接交渉を避けると決めたのだから、昔と同じ笑顔に合わせて話す必要はなかった。


「本日は、高梨由紀子さん名義の預金から支出された金額と、返還方法について協議します」


 宮原は、確認できた送金と引き出しを一覧にした。息子夫婦側が由紀子のために支出したと主張する金額については、領収書と用途の説明を求める。食費や光熱費として合理的な範囲の負担まで、由紀子は拒否していなかった。


「私は同居中の食費や電気代を払わないとは言っていません。毎月いくら必要なのか、説明してほしいと頼みました」


「だから、家計簿を見せたでしょう」


「見せていただいていません。私には難しいと言って閉じました」


「お母さんが忘れているだけです」


「その言葉も、録音に残っています」


 真由美は口を閉じた。隣の直樹が椅子を引き、母親が家族の会話を盗み聞きしたと責める。由紀子は膝の上へ両手を置き、息子の顔を正面から見た。


「私が参加している会話を録音しました。あなたが自分の口で、先に相続しただけだと言ったのです」


「言葉のあやだよ。実の息子が、母親の金を少しくらい使って何が悪いんだ」


「千万円以上が、少しなの?」


「俺たちは母さんを住まわせた。真由美は世話もした。金を出すのは当然だろ」


「食事のない日が、何度あったか覚えていますか?」


 直樹は答えず、ネクタイの結び目へ指を入れた。由紀子の目には、以前と同じ右の眉を下げた顔が見えた。子どものころ、金魚を飼いたいと頼んだときも、壊した玩具を隠したときも、その顔をすれば母親が許すと知っていた。


「母さん、親子なんだから、大ごとにしないでくれよ」


 直樹は声を弱めた。住宅ローンの残高が多く、この金を一度に返せば家を維持できないという。車も仕事に必要で、手放せば通勤できなくなると訴えた。


「俺たちが家を失ってもいいのか?」


 由紀子は夫のメモを机の下で握った。以前なら、直樹の困った顔を見ただけで、自分の食費を減らしてでも助けただろう。今日は口元を動かす前に、北側の部屋と、穴の開いた靴下と、空腹で開けたカルピスソーダを思い出した。


「私が家も、お金も、健康も失うことは、よかったの?」


「そんなつもりじゃなかった」


「私が糖尿病だと知っていたでしょう」


「真由美が、一本くらい平気だと言ったから」


「先生に止められたあとも、飲めと言いましたね」


「母さんが好きだったからだよ」


「飲まなかった日の空き缶を、なぜ数えたの?」


 直樹は唇を開いたまま、何も言わなかった。真由美が代わりに、本人が飲んだ量を健康管理のために確認したと答える。宮原はすぐに、糖尿病の悪化を施設入居の理由にするという録音部分を読み上げた。


「これは冗談です。夫婦で話したことを、本気にされても困ります」


 真由美は背筋を伸ばし、由紀子を見た。由紀子はその目を見ても、もう自分が悪いのではないかと考えなかった。真由美の事情を理解することと、行為を許すことは別だった。


「冗談なら、何度も飲ませなくてもよかったでしょう。私はやめてほしいと伝えました」


「介護で疲れていたんです。お母さんは同じことばかり聞くし、何をしても感謝しないから」


「私は、通帳を返してほしいと何度も聞きました。あなたは、私が忘れたことにしたのです」


 真由美は机の下へ目を落とした。菩薩のような笑顔は、もう残っていなかった。事務所の窓辺には白いアジサイが飾られ、雨上がりの光を受けていた。


 協議は一度では終わらなかった。直樹夫婦は、使った金の一部を生活費と介護費だと主張し、返還額を減らそうとした。宮原は食費や光熱費の実額、同居期間、由紀子へ提供された生活内容を一つずつ確認した。


 合理的な生活費を差し引いても、多額の使途不明金と、息子夫婦のために使われた支出が残った。由紀子は自分が負担すべき分まで拒まず、払うべき金額と返してもらう金額を分けた。その態度によって、直樹夫婦の「母親が混乱している」という主張は、さらに通りにくくなった。


 数か月後、直樹夫婦は車とブランド品を売却した。新しい車は買ったときより安い金額でしか売れず、真由美のバッグや宝飾品も、購入額の一部にしかならなかった。住宅ローンを払いながら返済を続ける余裕もなく、二人は家を売却し、賃貸住宅へ移ることになった。


「家を売ることになったのは、母さんのせいだからな」


 直樹は二度目の協議でそう言った。由紀子は持参した水筒から麦茶を注ぎ、息子が話し終えるまで待った。宮原が止める前に、自分で答えた。


「私のお金を使って維持していた家です。返せないなら、あなたたちの財産を売るのは当然でしょう」


「少しくらい助けてくれてもいいだろ。金が戻ったら、その中から貸してくれよ」


「貸しません」


「親子なのに?」


「親子だから、もう一度貸せば同じことになると分かります」


 売却代金や車、品物の処分で回収できた金だけでは、全額に届かなかった。残額については月々の返済額と期限を定め、滞納した場合には強制執行を受けることを認める公正証書が作成された。由紀子は一つずつ条項の説明を受け、納得してから署名した。


 戻ってきた金は、新しい自分名義の口座へ入れた。通帳は鍵付きの箱、銀行印は別の棚へ保管し、暗証番号は誰にも教えない。智子や遠藤には管理を任せるのではなく、必要なときに残高と支払いを一緒に確認してもらうことにした。


 三か月後、由紀子は柴田医師の診察室で、新しい血液検査の結果を見ていた。夏の初めになり、窓の外のサルスベリには濃い桃色の花が咲いている。由紀子は白地に青い小花のブラウスを着て、買い替えた紺色の靴をそろえて椅子へ座った。


「ヘモグロビンA1cは七・二まで下がりました。まだ目標には届きませんが、改善しています」


 柴田は前回の八・九という数字と並べて見せた。体重も急激には減らず、血圧も落ち着いている。由紀子は糖尿病食の宅配を続け、甘い飲み物をほとんど取っていないと話した。


「食事は、一日三回取れていますか?」


「はい。朝は食パンと卵、昼は小さなおにぎりと野菜、夜は宅配のお弁当です。週に一度は自分で魚も焼きます」


「鍋は焦がしていませんか?」


「一度、麦茶を沸かしたことを忘れました。でも、電磁調理器が自動で切れていました」


「道具がきちんと働いたのですね」


 柴田は、失敗しなかったとは言わず、対策が働いたことを確認した。由紀子は自動停止した時刻を予定表へ書き、木下にも報告している。鍋を忘れたことを隠さなくても、新しい部屋から追い出されることはなかった。


 訪問看護師の木下は、月曜日と木曜日に来た。血糖値と薬を確認し、由紀子が飲み忘れた日には、責めずに理由を一緒に探す。朝食後の薬には赤い丸、夕食後の薬には青い丸をつける方法も続いていた。


 訪問介護も週に二回利用することになった。一日は掃除と洗濯、もう一日は買い物と調理を一緒に行う。由紀子ができる作業は自分で行い、重い布団を干すことや、高い場所の掃除だけを手伝ってもらった。


「今日は何を作りましょうか」


 ヘルパーが買い物袋を台所へ置いた。袋には、アジの開き、小松菜、豆腐、ミョウガが入っている。由紀子は冷蔵庫の中を見て、昨日の大根が残っていることを思い出した。


「アジを焼いて、大根おろしを添えたいわ。小松菜は明日に回します」


「では、魚焼き器のタイマーを十二分にしましょう」


「十一分で大丈夫です。焦げ目が少ないほうが好きですから」


 由紀子は自分で時間を決めた。アジが焼けると、脂の香ばしいにおいが六畳の部屋へ広がった。正一なら焦げ目が足りないと文句を言っただろうが、今夜は由紀子が好きな焼き加減でよかった。


 物忘れがなくなったわけではない。宅配弁当を冷凍庫へ入れたことを忘れ、夕食を作り始めた日もあった。洗濯機を回したまま、昼まで干さなかったこともある。


 由紀子は冷蔵庫と玄関へ大きな予定表を貼った。卓上には、時刻と予定を声で知らせる時計を置き、薬を飲む時間には音が鳴るよう設定した。同じ予定を二か所へ書くことも、自分を守るための暮らし方だった。


「忘れたって、思い出す方法があればいいのよね」


 由紀子が木下へ尋ねると、木下は洗濯籠から白いシャツを取り出しながらうなずいた。忘れない人になることより、忘れても安全に暮らせる仕組みを作ることが大切だという。由紀子はその言葉を、新しい帳面の最初のページへ書いた。


 ある土曜日、澄子が新居を訪ねてきた。由紀子から電話をかけ、以前、駅前でお茶を断った理由をすべて話したのだ。澄子は黄色いヒマワリを三本抱え、玄関へ入るなり由紀子の紺色の靴を見た。


「やっと新しい靴を買ったのね。あの靴底を見たとき、声をかけるべきか迷ったのよ」


「言ってくれればよかったのに」


「あなたが必死にズボンの裾を引っ張るから、見ないふりをしたの。でも、見ないふりをしてよかったのか、ずっと考えていたわ」


「今度からは、見えたものを、そのまま言ってちょうだい」


 二人は近所の喫茶店へ出かけた。窓辺には青いガラスの花瓶が置かれ、白いトルコキキョウが一輪挿してある。焼きたてのパンとコーヒーの匂いが漂い、店の奥では古い柱時計がゆっくり音を刻んでいた。


「何を飲む? 私がごちそうするわ」


 澄子がメニューを差し出した。由紀子は無糖のアイスティーを選び、レモンだけを添えてもらう。ケーキは頼まず、小さなチーズトーストを二人で分けることにした。


「今日は、自分で払います」


「では、次は私にごちそうさせて。その次は由紀ちゃんね」


「それがいいわ。一方だけがずっと払うのではなくて」


 由紀子は自分の財布から千円札を出した。会計を済ませると、硬貨とレシートを自分で小銭入れへしまう。財布には交通費以外の金も残っており、使った金額は帰宅してから帳面へ書くつもりだった。


 七月のある朝、由紀子は小さなやかんで麦茶を沸かした。電磁調理器のタイマーを十分に設定し、音声時計にも「麦茶」と覚えさせる。沸騰すると香ばしい匂いが部屋へ広がり、自動で電源が切れた。


 麦茶が冷めるまでの間に、由紀子は洗濯物を干した。白いシャツ、薄紫色のカーディガン、紺色の靴下をベランダの竿へ並べる。白いシャツが風を受け、袖を大きく揺らした。


 窓辺の青いロベリアは花を終え、新しく買った赤いゼラニウムが咲いていた。厚い葉へ水をやり、枯れた花を指で摘む。花花屋で苗を三つ見比べ、葉の元気なものを自分で選んだ鉢だった。


「お父さん、夏はこの花にしたわ」


 由紀子は正一の遺影へ話しかけた。藍色の湯飲みは、遺影の左側へ置いてある。置く場所を変えたくなれば、誰にも尋ねず、自分で右側へ移すこともできた。


 冷めた麦茶は、小さなガラス瓶へ移した。透明な瓶の中で茶色い液体が揺れ、冷蔵庫の棚へ収まった。その隣には、由紀子がスーパーで一本だけ選んだ無糖の炭酸水が冷えていた。


 由紀子は炭酸水を取り出し、透明なグラスへ注いだ。細かな泡が次々に上がり、日の光を受けて弾ける。カルピスソーダのような甘い匂いはなく、鼻先へ届くのは冷えた水と、洗ったばかりのグラスのにおいだけだった。


「甘くなくても、おいしいわ」


 一口飲むと、炭酸が舌を刺激し、何も貼りつけずに喉を通った。誰かから飲むよう命じられたものではなく、医師に褒めてもらうためでもない。由紀子が自分で選び、自分で代金を払い、自分が飲みたい量だけ注いだ水だった。


 電話の横には、宮原から届いた返済確認書が置いてある。直樹夫婦から最初の分割金が期日どおり入金されたという連絡だった。由紀子はすぐに通帳を開かず、次に木下が来た日に一緒に確認するため、予定表へ青い丸をつけた。


 直樹から、返ってきた金の一部を貸してほしいという手紙も届いていた。賃貸住宅の初期費用と、新しい車を買う頭金が必要だと書かれている。由紀子は宮原を通じて、貸さないという返事を一度だけ送った。


 返ってきた金は、自分の医療費、介護費、住居費のために残す。もし余裕があれば、澄子と日帰り温泉へ行き、帰りに草餅を一つ買う。何に使うのかを決めるのは、直樹でも真由美でもなかった。


 由紀子はグラスを持ち、ベランダへ出た。白いシャツの裾が頬へ触れ、洗剤と夏の日差しの匂いがした。手すりの向こうには、近所の屋根と青い空が広がっている。


 自動車の音、子どもの声、宅配便の台車が転がる音が聞こえた。あと一時間すれば、訪問看護師の木下が来る。午後には糖尿病食が五食分届き、夕方には澄子から電話がかかってくる予定だった。


 一人暮らしを始めたが、一人きりではなかった。物忘れはしても、忘れたことを責めずに確かめてくれる人がいる。できないことを手伝ってもらっても、自分の人生を生きているのは由紀子だった。


「お父さん、今日も自分で決めましたよ」


 由紀子は窓辺の遺影へグラスを少し持ち上げた。炭酸の泡が日の光の中で弾け、すぐに消えた。開け放した窓の向こうには、誰のものでもない青空が、夏の朝いっぱいに広がっていた。


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