sweet.3 うちのエルフメイドが、実はドMかもしれない
……うちには、エルフのメイドがいる。
淡い桃色の長髪に、髪の隙間から伸びた細長い耳。翡翠を溶かしたような瞳と、見惚れるほど整った顔立ち。
名前は、エルシア・ルミエール。
俺が幼い頃から「ルシィ」という愛称で呼んでいる、屋敷で最も優秀な使用人だ。
料理を任せれば王都の宮廷料理人にも劣らず、広い屋敷のどこを探しても塵一つ見つからなくなる。裁縫に庭仕事、書類の整理まで何でもこなし、魔法の腕に至っては俺より遥かに上だった。
そう、つまり完璧なのだ。
完璧すぎて、彼女がいなければこの屋敷の暮らしは三日で立ち行かなくなると確信しているほどだ。
――だからこそ。
「きゃー、ご主人様~♡」
エルシアが用意してくれた朝食を終えた直後。
厨房から響いた甲高い音に駆けつけると、エルシアが砕けた皿の前でもじもじしながら頬を染めていた。
「私、またお皿を割ってしまいました♡ 申し訳ありませんご主人様♡ こんな駄メイドの私に、どうかお仕置きしてください……♡」
両手を胸元で重ね、長い耳をぴくぴく動かしながら、俺を期待に満ちた目で見つめている。
「……ルシィ」
「はい、ご主人様?♡」
「それ、昨日捨てる予定だった皿だろ」
「…………♡」
「端が欠けていたから、新しいものと入れ替えたはずだが」
「まあ、さすがはご主人様です♡ よくお気づきになりましたね……♡」
俺に指摘されたエルシアは悪びれるどころか、なぜか誇らしげに微笑んだ。
エルシアが指先を軽く振ると、床に散った破片が淡い光を纏い、音もなく宙へ浮かび上がる。大小の欠片は互いの位置を知っているかのように引き寄せ合い、一つ、また一つと元の形へ収まっていった。
最後の亀裂まで光の中へ溶け、エルシアの手元へ戻った皿には、欠けていた痕跡すら残っていない。割れる前よりも、よほど新品らしく見えるほどだった。
「相変わらず見事な魔法だな。だけど、直せるからといって割るな」
「きゃ、ご主人様に褒められてしまいました♡ ですが、失敗をしなければお仕置きをしていただけませんので……♡」
「やはり、わざとか……」
「はい、もちろんです♡」
……相変わらず、バレた時は潔いものだ。
「……ところでご主人様。敬愛するご主人様に嘘を吐くなんて、私はとても悪いメイドですよね……?」
「……ん? ああ、確かに。言われてみればそうだな」
エルシアはメイド服の裾をつまみ、俺の前で慎ましく膝を折った。
「ですから、こんな駄目メイドの私に……どうか厳しいお仕置きをお願いいたします、ご主人様♡」
……なるほど、そうきたか。
エルシアはどういうわけなのか、毎日あの手この手でお仕置きを要求してくるのだ。
「なら、今日の昼食は抜きだ」
「ええっ、またお預けなのですか……?♡」
エルシアは悲しそうに眉を下げた。
……と、その割に、口元がものすごく緩んでいる。
「うぅ……我慢できません、ひどいですご主人様……♡」
「……明らかに喜んでいるだろう」
「……えへへ、ばれてしまいました♡ ご主人様から禁じられていると思うだけで、胸が高鳴ってしまいます♡ しかもご飯を禁止されるなんて、まるでペットのような扱いで……♡」
「それでは、罰になっていないな」
「あーん♡」
わざとらしく残念そうな声をあげるエルシア。
俺はため息をつき、エルシアの額を指先で軽く弾く。
まあ、でこぴんというやつだ。
「あぅっ♡」
「仕置きはこれで終わりだ」
「えへ、お仕置きありがとうございます♡ ご主人様♡」
エルシアが額を押さえながら、満面の笑みを浮かべる。
……やはり、罰になっていない気がする。
エルシアは、昔から少し変わったところのある少女だった。
幼い頃、森の奥で同族の子供たちに囲まれている彼女を見つけた。淡い桃色の髪を珍しがられ、ひどくからかわれていたのだ。
見るに堪えずそこに割って入り、エルシアを助けた俺は、彼女をそのまま屋敷へ連れ帰った。
……それ以来、エルシアは俺のそばを離れなくなった。
昔はただの甘えんぼだと思っていたけど……最近になって気づいてしまった。
うちのエルフメイドは――もしかすると、相当な変態なのではないだろうか。
◇
「ご主人様、食後のお茶をお持ちいたしました♡」
昼下がり。
屋敷の執務室で書類に目を通していると、エルシアが紅茶を載せた銀の盆を運んできた。
朝の一件が嘘のように、その立ち居振る舞いには一分の隙もない。
長い髪は綺麗に纏められ、メイド服にも皺一つない。白い手袋をした指先まで優雅で、王城へ連れていっても恥ずかしくないほどだった。
エルシアは俺の隣に立ち、慣れた手つきでカップへ紅茶を注いでくれる。
湯気とともに、穏やかな花の香りが漂った。
「どうぞ、ご主人様♡」
「ありがとう。ルシィの淹れる紅茶は特別に美味いからな」
「……♡」
礼を言っただけなのに、エルフの長い耳がぴくぴくと跳ねる。
「褒められただけでもそんなに嬉しいものなのか?」
「もちろんです♡ ご主人様のお声も、視線も、お言葉も、私に向けていただけるものなら何でもご褒美ですので……♡」
「それなら、わざわざ失敗する必要もないだろうに」
「ふふ、それはそれ、これはこれです♡ ご主人様だって、美味しい晩餐の後には食後のデザートが欲しくなりませんか?♡」
……その例えは、俺にはまったく分からん。
呆れながらも、エルシアが持つカップへ手を伸ばそうとした、そのときだった。
「あっ♡」
エルシアの手が、わざとらしく傾いた。
カップの中で琥珀色の水面が大きく傾き、そのまま白い縁を越える。
溢れた紅茶は細い弧を描き、次の瞬間、彼女の胸元へまとまって降りかかった。
まだ熱い紅茶がメイド服へ染み込み、見る間に布地の色を濃くしていく。
「きゃあー♡」
「ルシィ!?」
「きゃあ、申し訳ありませんご主人様♡ つい手元が狂ってしまいました♡」
「おい、それより熱くないのか?」
椅子を蹴るように立ち上がり、濡れた胸元へ触れようとして……手を止める。
エルシアの表情をよく見ると、頬を上気させたままうっとりと俺を見上げていた。
「この程度でしたら、エルフの身体には何の問題もございません♡」
「……そうか、良かった」
内心で胸を撫でおろす。
エルフの身体が比較的頑丈なのは知っているが、今回のはさすがに心配が勝っていた。
「まあ、心配なさってくれたのですねご主人様♡ エルシアは感激です……♡」
「……ところで、どうして自分にかけた?」
「あら、またばれてしまいましたか♡ 濡れてしまえば、ご主人様に脱がせていただいた上に、さらにそのままお仕置きしていただけるかと♡」
「するものか。自分で着替えてこい」
「えぇ~、脱がせてくださらないのですか……?♡」
「当たり前だ。誰が自分のメイドを脱がせるものか」
「ですが、実は火傷しているかもしれません♡ そんなに心配してくださるのでしたら、ご主人様の目で直接確認していただかなくては……♡」
「図々しいな。それに、息荒くしながら言うな」
「はぁ、はぁ……♡ これは熱さのせいでございます♡」
「嘘をつけ」
「では、ご主人様を前にして興奮……いえ、ご主人様に興奮しているせいでございます♡」
「正直に言えば許される話ではない。それに、今の言い直しは必要だったのか?」
俺は机の脇に置いてあった清潔な布を取り、エルシアの頭へかぶせた。
「ひゃっ♡」
「火傷しないとしても、自分の身体を雑に扱うな」
「ご主人様にお仕置きしていただくためであれば、これくらい――♡」
「それでも駄目だ」
少しだけ強い調子で言うと、エルシアの耳がぴたりと止まった。
だが、落ち込んだ様子ではない。
むしろ叱られたことが嬉しいらしく、布の下で頬を赤らめている。
「……ご主人様に心配していただけるのも、悪くありませんね……♡」
「普通はそっちを喜ぶものだ」
「うぅ……♡ しかしそれでは、お仕置きではなくご褒美になってしまいます……♡」
「嫌なのか?」
「いいえ!! ご主人様にしていただけるのなら、どちらも好きです……♡ むしろお仕置きもご褒美のうちに入ると言いますか……♡」
エルシアは熱を持て余すように膝を擦り合わせ、清楚なメイド服の中で、落ち着かなさそうに身をよじった。
「とにかく、替えのメイド服に着替えてこい。身体もよく拭くんだぞ」
「かしこまりました♡ ところで、ご主人様に拭いていただけるという可能性は――」
「ない。却下」
「……残念です……♡」
エルシアは残念そうに肩を落として執務室を出ていった。
けれど、揺れるスカートの裾と弾む足取りまでは隠せていない。
大切にされたことも、それはそれで嬉しかったらしい。
◇
午後、屋敷の廊下を歩いていると、窓際の棚に埃が残っているのを見つけた。
他の場所は、相変わらず見惚れるほど綺麗だ。
床は顔が映りそうなほど磨かれ、窓枠の細い溝にも汚れ一つない。天井の装飾に至るまで完璧に手入れされている。
なのに、棚の中央にだけ……一目ではっきり分かるほどの埃が残されていた。
むしろ他が綺麗になりすぎているせいで、ここだけが目立っている。
……よく見れば、ハート型になっているようにも見える。
「おい、ルシィ」
「お呼びでしょうか、ご主人様♡」
呼びかけた瞬間、背後から返事があった。
振り返ると、先ほど新しいメイド服に着替えたばかりのエルシアが、期待に満ちた顔で立っている。
「ここだけ掃除を忘れているようだが」
「まあ……♡ 大変申し訳ございません♡」
「この一か所だけ残すほうが、全部掃除するより面倒だったんじゃないか?」
「ご主人様に確実に見つけていただけるよう、埃の位置と形を慎重に調整いたしました♡」
「しかもこれは本物の埃じゃないな」
「はい♡ 魔法で生成いたしましたので、健康への害もございません♡」
……よりにもよって、魔法をそこに使うのか。
「……つまり、屋敷にも俺にも迷惑をかけず、それでも失敗だけはしたかったと?」
「さすがはご主人様、完璧なご推察でございます♡」
「褒めてはいないからな」
「では叱ってくださっているのですね♡」
嬉しそうに両手を頬へ添える。
俺が構った時点で、何を言っても喜ばれてしまう。これでは仕置きのしようがない。
……それに仕置きといっても、そう易々と思いつくものでもない。
「……では、その埃を片づけて、もう一度この廊下を掃除し直してくれ」
「はい、喜んで承ります♡ ……雑巾がけは裸で行えばよろしいでしょうか?♡」
「余計なことはせず、いつも通りにやれ。俺にそのような趣味はない」
「私にはあるのです、ご主人様♡」
「……いつから、うちのルシィはこんな駄目メイドになったんだ」
俺の言葉に、エルシアは「きゃあ」と身を捩って喜んでいる。
どうやら罵倒も、彼女の中ではご褒美のうちに入るらしい。
「はい、ルシィは駄目な子です♡ ですから、もっと厳しく躾けてください♡」
「もういい。口ではなく手を動かせ」
「ふふっ、承知いたしました♡」
強めに命令されただけで満足したのか、エルシアは嬉しそうに掃除を始めた。
手際はやはり完璧で、数分も経たないうちに、廊下は先ほど以上に綺麗になっていた。
ああいうところさえなければ、本当に理想のメイドなのだが。
◇
その日の夕方。
自室で上着を脱ぎ、夜会用の服へ着替えているところで、扉を叩く音がした。
「ご主人様、失礼いたします♡」
「待て、ルシィか? 今は――」
言い終えるより早く、真鍮のノブがくるりと回った。
わずかに開いた扉の隙間から、桃色の髪が覗く。
そのまま滑り込むように部屋へ入ってきたエルシアと、脱いだシャツを片手に持った俺の目が、ぴたりと合った。
「まあ……♡」
小さな声とともに、エルシアの長い耳がぴんと立つ。
翡翠色の瞳が、何も身につけていない俺の胸元に落ちる。そのまま腹、腕と遠慮なく視線を這わせ、隅々まで記憶へ焼きつけようとするかのように、エルシアはまばたき一つしない。
「……ルシィ。俺の着替える時間は把握してるよな?」
「もちろん、一秒単位で把握しております♡」
「では、なぜ入ってきた?」
「……本日に限って、何故かお時間を間違えてしまいました♡ まったくもって不可解な失敗でございますね♡」
そう言いながらも、エルシアが俺の身体から目を逸らす気配は微塵もない。
むしろ普段より瞳を大きく開きながら隅々まで見つめ、頬をますます赤らめている。
「今回ばかりは厳しくお仕置きしていただかなくてはなりませんね、ご主人様……♡」
「自分から罰を要求しておいて、そんなに嬉しそうな顔をするやつがあるか」
「申し訳ございません♡ ですが、ご主人様のお身体があまりにも素敵でしたので、つい……♡」
「『つい』で済むか。目を閉じろ」
「はい♡」
命じた途端、エルシアは素直に両目を閉じた。
ただし、一向に立ち去ろうとはしない。
エプロンの前で両手を重ねたまま、こちらへ顔を向けている。
瞼は確かに閉じられているが、長い耳は衣擦れの音を追うように、細かく角度を変えていた。
「……ルシィ」
「何も見ておりません、ご主人様♡」
「いや、まだ何も言っていないだろう」
「ご主人様のお声から、疑われている気配を感じましたので♡」
こういうところも妙に察しがいい。
……いや。単に、疑われるようなことばかりしている自覚があるだけかもしれない。
俺は急いでシャツへ腕を通して、前を留めていく。
「少しでも目を開けたら、今夜は頭を撫でないからな」
「えっ……!?」
エルシアの耳から、さっと力が抜けた。
「そ、それは……あまりにも残酷です、ご主人様……♡」
「なら、ちゃんと閉じてろ」
「は、はい……♡」
今回の脅しばかりは、本当に嫌だったのだろう。叱られることは喜ぶくせに、触れられないことや遠ざけられることだけは、エルシアにとって本当の罰になるようだ。
眉尻を下げながらも、今度こそ固く目を閉じている。
「もういいぞ」
「ありがとうございます、ご主人様♡」
許可を出してすぐ、エルシアの瞼がぱちっと開く。
真っ先に俺の姿を確認したエルシアは、既に着替えが済んでいることに気づくと、心底惜しそうに唇を尖らせた。
「もうお召しになってしまったのですね……♡」
「当たり前だろ、何のために目を閉じさせたと思っているんだ」
「あと少しだけ早く入室していればじっくりとご主人様のお身体を拝見できましたのに……エルシア、一生の不覚です♡」
「反省する気が一切ないな」
「反省はしております♡ それとは別に、次回の作戦に向けて改善点を考えているだけでございます♡」
「失敗から失敗を作るな。何でもありか、お前は」
俺は近づいてきたエルシアの頬を、指先で軽く摘まんだ。
柔らかな頬が横へ伸び、整った顔が少しだけ間の抜けたものになる。
「反省の意味を辞書で調べ直せ」
「ひゃぅ♡ ば、罰を受けながら学ばせていただければ幸いです……♡」
「……やはり、何も分かっていないな」
「もう少し強く躾けていただければ、深く理解できるかと♡」
「調子に乗るな」
頬から指を離し、そのまま額を軽く叩く。
〝ぺちん〟と乾いた小さな音が響くと、エルシアの前髪がふわりと揺れた。
「あぅっ♡」
「今回の仕置きは、これで十分だ」
エルシアは弾かれた額へ手を添えると、物足りなさそうにこちらを見上げてくる。
その仕草が妙に可愛らしく見えて、俺は結局、桃色の髪へ手を置いてしまった。
頭頂部から撫でるように手を滑らせると、エルシアの長い耳がぴくりと震える。
「あ……♡」
先ほどまで不満そうに尖っていた唇が緩み、翡翠色の瞳が蕩けるように細められた。
「……♡ やっぱり、なでなでもいい……♡ けど、お仕置きも欲しいです……♡」
「欲張りだな、お前は」
「ご主人様からいただけるものなら、一つ残らず欲しいです♡」
「なら罰として、俺が夜会から戻るまで失敗は禁止だ」
「ええっ!?」
髪を撫でられて緩みきっていたエルシアの顔が、一瞬にして絶望へ染まった。
「皿を割るのも、飲み物を零すのも、わざと汚れを残すのも禁止。今夜は完璧なメイドとして過ごせ」
「そ、そんな……それはあまりにも過酷なご命令です……♡」
「元々は完璧なメイドだろ」
「ご主人様にお仕置きされない完璧さなど、何の意味もございません……♡」
「どういう理屈だよ」
なおも不満そうなエルシアの頭を、最後にもう一度だけ撫でる。
「帰ったら、ちゃんと構ってやる」
「……本当ですか?♡」
「ああ。だからそれまでは我慢しろ」
「……かしこまりました♡ ご主人様がお帰りになるまで、立派なメイドとして耐え抜いてみせます……♡」
決意を固めるように両拳を胸元で握りながら、俺を見送るエルシア。
……頼んだのは普段通りに仕事をすることだけなのだが、なぜあれほど悲壮な覚悟が必要になるのだろうか。
◇
夜会を終え、屋敷へ戻った頃には、既に空の中央へ月が昇っていた。
玄関の扉を開くと、暖かな明かりの中で、エルシアが背筋を伸ばして待っている。
「お帰りなさいませ、ご主人様♡」
「ただいま、ルシィ」
いつもと変わらない、非の打ち所がない出迎えだった。
俺が外套を脱ぐのに合わせ、エルシアが一歩前へ出る。伸ばされた指先が滑らかに布地を受け止め、皺一つ作らず腕へ掛けた。
しかし、表情までは取り繕えていない。
長い耳が落ち着きなく左右へ揺れ、俺のそばへ寄りたいのを堪えるように、エプロンの端を指先で何度も摘まみ直している。
「命じた通り、失敗せずに務められたようだな」
「はい……♡ お皿も割らず、掃除も完璧に行いました……♡」
「……まあ、それが普通なんだが」
「大変苦しい一日でございました……♡ 何より、ご主人様と会えない時間はとても寂しくて……♡」
消え入りそうな声で報告しながら、エルシアがじり、とこちらへ距離を詰める。
「ご主人様……もう、お仕置きの禁止は終わりでしょうか?♡」
「約束通り、帰ってきたからな」
「では……♡」
俺の返事を聞いた途端、エルシアの表情がぱっと華やいだ。
外套を手早く片づけ、すぐに俺の前へ戻ってくる。両手を背中へ回し、期待を隠そうともせずに見上げてきた。
「今夜は、いつもより厳しくお仕置きしていただけませんか?♡」
「なぜだ。何も失敗していないだろう」
「ご主人様がお留守の間、お仕置きを我慢していたのです……♡ その忍耐へのご褒美として、厳しく罰していただきたく……♡」
「褒美なのか罰なのか、どちらかにしろ」
「ご主人様からいただけるものであれば、私にとってはすべてご褒美でございます♡」
エルシアは一歩近づき、俺の胸へ手を添えた。
白い手袋越しの指先が、縋るようにシャツをきゅっと掴む。
「ですから今夜は……いつものような軽いものではなく、もっと私がご主人様のものなのだと、身体の奥まで分からせてくださいませ……♡」
エルシアからこのような願望を聞くのは、何も初めてのことではない。
そして、そのたびに返す答えも決まっていた。
――しかし。
「駄目だ」
答えた瞬間、エルシアの耳がわずかに揺れた。
「また、駄目なのですか……?♡」
「ああ、駄目だ」
「……ですが、私の身体は人間より遥かに丈夫です♡ 何をしても、ご主人様が心配なさるようなことには――」
「身体が丈夫かどうかの問題ではない」
なおも言葉を続けようとするエルシアの手を取り、俺の胸元からそっと下ろす。
「俺は普段、お前が喜ぶからと、軽い範囲で仕置きに付き合っている。少しばかり言葉で強く叱るのも、額を弾くのも、頬を摘まむのもな」
「は、はい……♡」
「けど、本当に傷つけるのだけは違う」
「しかし、私はご主人様になら何をされても――♡」
なおも言い募ろうとするエルシアを、静かに呼び止める。
仕置きを命じる主人としてではない。
俺に仕えるメイドへ言い聞かせるための声でもない。
幼い頃から彼女のそばにいた、ただのレオンとして――一人の大切な少女へ向き合うために、声から命令の響きを捨てる。
「そうじゃない。俺が嫌なんだ」
さっきまで甘く弾んでいたエルシアの呼吸が、そこで止まった。
長い耳がぴたりと動きを失い、俺を見つめていた翡翠色の瞳から、浮ついた熱がゆっくりと消えていく。
「お前が平気だと言っても、俺は平気じゃない。俺は、ルシィを本当に傷つけるようなことはしたくない」
エルシアの両肩へ手を置き、真っ直ぐ目を合わせる。
その華奢な身体に、俺を遥かに凌ぐ力が宿っていることは知っている。
それでも今は、少しでも力を込めれば、そのまま壊れてしまいそうに見えた。
「お前が、俺に仕えるメイドだから大切なんじゃない」
翡翠色の瞳が、小さく揺れる。
「ルシィだから大切なんだ。だから、そんなことは絶対にできない」
「っ……」
「分かってくれ、ルシィ」
「…………」
エルシアはしばらく何も答えなかった。
頬を染めていた熱が引き、持ち上がっていた耳は、桃色の髪へ沿うように伏せられていく。
やがて長い睫毛の際へ、透明な雫が滲んだ。
「……はい。ごめんなさい、ご主人様……」
いつもの、どんな時でも甘く響く声の温度がそこにはなかった。
「……ご主人様を、困らせたいわけでは、なかったのです」
「ああ、分かってるよ」
「ただ……もっと強く、ご主人様からの愛を感じたくて……私だけを、見ていただきたくて」
エルシアは俯き、エプロンの裾をぎゅっと握り締める。
「ご主人様のお気持ちより、自分の願いを優先してしまいました。申し訳ありません」
「……ルシィ」
「……はい」
「おいで」
両腕を広げると、エルシアが恐る恐る顔を上げた。
「……おそばへ行ってもよろしいのですか?」
「駄目なわけがあるか」
「……私、ご主人様に本気で嫌われてしまったのではないかと……」
「嫌うわけないだろ。俺が怒ったのは、大切にしたい相手が、自分を傷つけても構わないなんて言うからだ」
俺がもう一度腕を広げると、エルシアの足元でスカートが大きく翻った。
一瞬の間に距離を詰めた細い身体が、俺の胸へ飛び込んでくる。
遅れて桃色の髪が背中へ流れ、細い腕が俺の背中へ回ると同時に、赤く染まった顔が胸元へ強く押しつけられた。
「レオン様……♡」
どさくさに紛れて、本名で呼んでくる。
普段はメイドとして「ご主人様」を崩さないエルシアも、甘える時だけは、昔のように俺を名前で呼ぶ。
「……苦しい。お前は俺より力が強いんだから、少しは加減してくれ」
「申し訳ありません……ですが、その命令だけは聞けません……♡」
「……分かったよ。今は、好きなだけこうしていろ」
エルシアの背中へ腕を回し、こちらからも強く抱き締め返す。
胸元へ押しつけられていた耳がぴくりと動き、俺の鼓動を確かめるように、その位置へ頬を寄せ直した。
「……これでは、お仕置きではなくご褒美になってしまいます……♡」
「そもそも褒美のつもりだが。嫌なのか?」
「……いいえ」
エルシアが顔を上げる。
涙の残る翡翠色の瞳は、それでも嬉しそうに輝いていた。
「ご主人様にしていただけるのなら、どちらも好きです……♡」
「本当に何でもありだな」
「ご主人様に関することだけは、何一つ諦めたくありませんので……♡」
俺は苦笑しながら、伏せられていた長い耳の間へ手を置いた。
桃色の髪を梳くように、頭頂部から下にかけてゆっくりと撫でる。
「んぅ……♡」
エルシアの身体から、ふっと力が抜けた。
俺へしがみついていた腕もわずかに緩み、先ほどまで涙を浮かべていた顔は見る間に蕩け、目を細めて俺の胸へ身体を預けきっている。
「ルシィ。今は、幸せか?」
「はい、この上ないほどに幸せです♡ ご主人様のおそばにいられることが、私にとって何よりの幸福ですので♡」
「それなら、仕置きを求めずとも、素直に甘えてくればいい」
「……はい♡ ご主人様に甘えるのも、エルシアは大好きです」
「なら今夜の仕置きは、俺の言うことを聞いて大人しくそばにいることだ」
「……それは完全に、ご褒美ではありませんか?♡」
「……俺も、分かってて言っている」
「まあ……♡」
「俺が眠るまで、俺の隣で大人しくしていろ」
「かしこまりました、ご主人様♡」
エルシアは俺の胸へ頬を戻し、幸せそうに目を閉じる。
「ですが、明日からは軽いお仕置きをお願いしてもよろしいのですよね?♡」
「まあ、今日みたいな無茶を言わないならな」
「はい♡ ご主人様にも屋敷にも迷惑をおかけせず、私だけが適度に困る失敗を考えておきます♡」
「できることなら、失敗を考えること自体をやめてほしいものだが」
「それは、なかなかに難しいご命令でございますね……♡」
エルシアは困ったように眉を下げながら、俺へ回した腕へ再び力を込めた。
……その腕は、俺の力ではとても振り解けそうになかった。
屋敷の仕事は完璧で、魔法も万能。
俺より遥かに強く、誰よりも頼りになるエルフのメイド。
そんな彼女が唯一苦手なのは、俺の前で普通に振る舞うことらしい。
エルシアを見ていて、俺は最近思うことがある。
――うちのエルフメイドが、実はドMかもしれない。




