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山奥で拾った地球外AIと、俺は十五年かけて人類を宇宙へ押し上げた  作者: たまき


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第05話「帰京」

 机の端で束ねた工程表は、数日前よりずっと薄く見えた。書き足すたびに現実が増え、削るたびに、この山小屋で完結する工程がほとんど残っていないことだけがはっきりしたからだった。乾き切ったマーカーの匂いと、洗っていないカップに残る古いコーヒーの酸味が、朝の冷えた空気に混じっている。窓際の棚には食料よりも緩衝材と工具箱が多く積まれ、帰る前の小屋らしい散らかり方ではなく、何かを外へ運び出すための乱れ方になっていた。


 亮は作業台の前に立ち、切り出したウレタンシートをケースの内側へ押し込んだ。ノートPC用の古いハードケースでは寸法が足りず、結局、測定器を運ぶときに使っていた樹脂ケースを引っ張り出してきている。蓋の裏にも緩衝材を貼り、中央へ丸く窪みを作る。球体を仮置きして閉じると、わずかな遊びが残った。もう一枚、薄いシートを足す。指先の調整が細かくなるほど、自分が何をしているのかを考えないようにしているのが分かった。


「確認する。お前をここに残したまま、東京から話すことはできるのか」


 作業台の中央に置いた球体が、ごく細かく震えた。


「常時は困難です。本体近傍での対話が最も安定します」


「困難ってことは、条件次第ではできるんだな」


「限定的には可能です。高密度な搬送波源と安定した電力網があり、遮蔽条件が厳しくなければ、低帯域の補助対話を維持できます」


「山じゃ無理で、東京なら可能性はある、くらいか」


「概ね正しい理解です。ただし、安定性は保証できません。遅延と欠落が発生します」


 亮は球体を持ち上げ、ケースの窪みへもう一度収めた。直径三十センチ、1.8kgあまり。最初に山中から持ち帰ったときと変わらない寸法と重さなのに、いまは質量の意味が違っていた。異物を拾った重さではない。生活を二つに割る物の重さだった。


「車で運ぶ。振動と温度変化は」


「その範囲では問題ありません」


「検問で見つかったら」


「その問いに対する有効な回答は、私にはありません」


「だろうな」


 蓋を閉じる前に、亮はケースの隙間へ着替えのTシャツを押し込んだ。山中で拾った正体不明の球体を、都内のアパートへ測定器ケースで運び込む。文章にした瞬間に破綻しそうな段取りなのに、手だけは淡々と動いた。山小屋へ置いて帰る選択肢は、最初から数に入っていない。本体を離れた対話が条件付きでしか成り立たないこともあるが、それ以上に、数日で分かってしまった。工程表の続きを考えるたび、視線は必ずこの作業台へ戻る。置いていけば、思考だけが東京へ戻り、秘密の中心だけが山に残る。その切断には耐えられそうになかった。


 樹脂ケースを閉め、ラッチを二つ落とす。乾いた音が小屋に響いた。


「東京側で、お前の感知は落ちるのか」


「環境が変わるだけです。対象が増え、雑音も増えます」


「便利になるとは言わないんだな」


「便利、という評価には不確定要素が多すぎます」


 球体らしい答えだった。都市には電力網も無線も人間も詰まっている。山中より拾えるものは増えるだろうが、同時にこちらの痕跡も増える。便利さと危険が同じ方向から来る。それだけ分かれば十分だった。


 亮は作業台のノートを三つに分けた。手元で進める工程。会社で観測できる工程。外部設備が要る工程。数日前に一枚へ押し込んでいた項目が、場所ごとにばらけていく。小屋では諦めるしかなかった区分けが、東京へ戻ると急に現実味を帯びた。シミュレーションと治具設計は部屋でも回せる。既存案件のログや測定の切り方なら会社で手を入れられる。合成と材料評価だけは、どうやっても外の設備と人間を経由しなければならない。


 その線引きが、かえって息苦しかった。進める手があるということは、痕跡の出る場所が増えるということでもある。秘密を守るために閉じこもっていたはずの数日が、結局は秘密の外延を広げる準備に変わっていた。


 最後に小屋の中を見回した。工具の並びも、電気ポットも、窓際の小型冷蔵庫も、来たときとほとんど変わらない。だがここはもう、逃げ場所の顔だけでは見えなかった。東京の狭い部屋へ持ち込めないものを一時的に残しておく倉庫であり、外部設備へ手を伸ばす前に戻ってくる予備拠点でもある。山小屋は生活の外側にあったのではなく、これからは生活の裏側に回る。


 ケースを持って外へ出ると、朝の空気は思ったより軽かった。戸締まりを確かめ、車の後部座席へ荷物を積む。測定器ケースは他の荷物に紛れさせた。紛れさせたところで中身の異様さが消えるわけではないが、見た目だけでも普通に寄せておかないと、自分の手つきまでおかしくなる。エンジンをかける前、亮はフロントガラス越しに小屋をもう一度見た。数日前まで世界から切り離された場所に見えていた建物が、いまは秘密を始めた場所としてそこに残っていた。


 東京へ戻る道中、ケースは一度も視界の外へ出なかった。


---


 階段の踊り場まで上がったところで、隣室のテレビ音が薄い壁を震わせていた。古いアパートの鉄骨階段は一歩ごとに鈍く鳴り、上の階からは洗濯機の脱水音が落ちてくる。山中で何時間も耳についていた虫の声はなく、代わりに遠い幹線道路の唸りと、どこかで閉まる玄関扉の音が空気を細かく揺らしていた。


 鍵を回して自室へ入ると、閉め切っていた部屋特有の熱と、古い洗剤の匂いが迎えた。何の特徴もない1K。壁際のベッド、安物のラック、流し台の横へ押し込まれた小型冷蔵庫、基板やケーブルの入ったプラケース。出発前にはただの生活の残骸に見えていたものが、いまはどれも秘密の隣に並ぶ物として目に入った。狭い。山小屋より整っているのに、息をつく隙間が少ない。


 亮は樹脂ケースを机の上へ置き、ラッチを外した。球体を取り出してみても、蛍光灯の下で返る光は山小屋と変わらない。変わったのは周囲だった。窓の向こうには隣のアパートの壁が近く、換気扇を回せば外へ音が漏れる。段ボールを切る音ひとつでも、山中の孤立とは別の意味を持つ。


「ここが当面の置き場だ」


「認識しました」


「安心はできないな」


「環境密度は上がっています」


「そういう言い方をするか」


 机の脇へしゃがみ込み、亮はコンセント周りを見直した。ノートPC、外付けSSD、はんだごて、電源タップ、古いオシロスコープ。山小屋に比べれば通信も電力も安定しているが、それは単に手が動かしやすいという意味でしかない。購入履歴、宅配記録、部屋の出入り、クレジット明細。都市で物を進めると、作業そのものより前に周辺のログが残る。秘密を守るための余白は、山よりむしろ狭かった。


 ノートを開き、亮は工程表をもう一度引き直した。


 自室でできること。解析、治具設計、既存資料との照合、試験計画の分解。


 勤務先でできること。通常業務の設備とログに触れながら、測定系の癖と切り方を掴むこと。使える部材と使えない部材の見極め。外に出す前の考え方の検証。


 外部設備が要ること。前駆体形成、雰囲気制御、結晶方位評価、組成分析。


 書き進めるほど、勤務先の欄だけが妙に生々しかった。会社にある設備は常温超伝導素材の合成には足りない。だが、観測の順番を試し、ログの見方を変え、測定系の癖を掴む程度なら、むしろ毎日触れる環境の方が速い。技術を盗むとか、機材を持ち出すとか、そういう露骨な話ではない。それ以前の準備として、目と手の使い方を職場で研ぎ直せる。


 その発想自体が危ういと分かっていた。勤務先は金を払って借りた実験室ではない。生活を支えるための仕事場だ。にもかかわらず、工程表へ欄を作った瞬間、それはもう秘密の外にある日常ではなくなった。


「本体を部屋に置いたまま、外から呼びかける実験は後でやる」


「推奨します。都市環境の方が補助条件を満たしやすいです」


「ただし、できたところで当てにしない」


「合理的です」


 乾いた返答のあと、部屋には冷蔵庫のコンプレッサ音だけが残った。亮は球体を押し入れの下段へ移し、その前に冬物の布ケースを雑に積んだ。隠したつもりになれる程度の処置でしかない。それでも、机の上に露出させたまま眠るよりはましだった。


 洗面台で顔を洗い、鏡を見る。山小屋にいるときより顔色は悪く見えた。風景が戻ったからではない。秘密を持ち帰ったせいで、部屋の広さそのものが減ったように感じるのだと、ようやく分かった。ここには何も起きていない。起きていないからこそ、異物ひとつの占める体積が大きい。


 机へ戻り、会社の社員証を財布から抜く。透明なカードケースの中で、写真の自分が眠そうな顔をしている。昨日までなら、ただの入館用カードだった。いま見えるのは別の意味だった。毎日怪しまれずに入れる場所。測定器とログと、行き詰まった案件が置いてある場所。危険の形をした足場。


 ベッド脇に座ったまま、亮はしばらくその社員証を見ていた。東京へ戻れば日常が戻ると思っていたわけではない。むしろ逆だった。日常の側へ秘密を押し込んだことで、日常のすべてが少しずつ別の用途に見え始めている。


 窓の外で、終電にはまだ早い時間の電車が通り過ぎた。


---


 翌朝、改札から吐き出される人の流れは、休み前と同じ速度で駅前の歩道へ広がっていた。雑居ビルのガラスに曇った空が映り、コンビニのコーヒーを持った会社員が信号の変わる前から歩き出す。誰も何も知らない。その当たり前さの中へ混じるだけで、自分の側の異常がかえって輪郭を持った。


 入館ゲートへ社員証をかざす。短い電子音のあと、透明なバーが開く。エレベーターを降り、見慣れたオフィスフロアへ入った。蛍光灯の白さ、空調の乾いた風、整列したデスク、半端に開いた会議室のドア。何も変わっていない。変わっていないはずなのに、視界へ入る順番だけが違った。棚の測定器、共有サーバのログ端末、試験スペースの配線、保留中の基板箱。昨日までうんざりするほど見ていたものが、今日は別の密度で目に引っかかる。


 席に着くと、休み前から止まっていた案件のチケットがモニタに並んだ。量産前評価の制御基板が、起動シーケンスの終盤だけ不定期に再起動する。電源変動、ノイズ回り込み、監視タイマ、ファームの待ち時間。候補は出尽くしているのに、実機で再現を追うたび症状の出方がぶれるせいで、誰も決定打を持てずにいる。休み前の自分も、その泥に足を取られていた。


 マウスに手を置いたまま、亮は昨日のノートを思い出した。最終特性を一度で狙うな。中間で切れ。工程を分けろ。常温超伝導素材の話として受け取った助言だったが、考えてみれば、目の前の不具合も同じ形をしている。全システムを動かしたまま結果だけを待つから、途中で何が崩れているのか見えない。


 ログ一覧を開き、再起動直前の時刻だけを抜き出す。電源監視ICの閾値、モータードライバの立ち上がり、通信初期化のタイムスタンプ。これまで一続きの現象として眺めていた並びを、途中で切る。さらに、全機能を載せた評価系ではなく、電源と監視だけを残した最小構成の試験治具を頭の中で組み始める。そこまで落とせば、症状が出なくても前進になる。出るか出ないかの二択ではなく、どの段で崩れるかという形に変えられる。


 モニタの前で、亮は無意識に身を乗り出していた。腹の底にある感覚は高揚に近いのに、表へ出る形は妙に静かだった。職場の課題を解くこと自体は、本来なら何の異常でもない。異常なのは、その切り口を手に入れた経路だけだ。


 画面の隅で未読メールが増えていく。周囲では椅子が引かれ、誰かが給湯室で紙コップを取る音がした。いつもの朝の音だ。その中で亮は、チケットのメモ欄へ短く打ち込んだ。


 全体再現を止める。中間状態を先に作る。


 送信ボタンの上で指を止め、亮は試験スペースの方へ視線を向けた。


 まず、途中の波形を取るべきだった。

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