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山奥で拾った地球外AIと、俺は十五年かけて人類を宇宙へ押し上げた  作者: たまき


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第20話「侵入」

 昼の光は山の斜面で一度削られてから窓へ届くせいで、山小屋の作業台の上だけが白く、周囲の棚や壁際はひと息遅れて明るんでいた。


 低湿度チャンバーの蓋を開けた瞬間に流れ込む空気まで気になる段階へ入ってから、亮と七瀬の動きは自然と細かくなっていた。試作片を載せた薄いトレイ、締結順を書き換えた工程表、端部拘束の圧を変えるためのスペーサ。どれも大きなものではないのに、ひとつ置き場所がずれるだけで前の失敗へ戻りそうな気がした。


「台、2mm上げる。持ち替えのときに右手側が落ちる」


 七瀬はそう言って、治具の脚の下へ切りそろえた板材を差し込んだ。声は平板なのに、手元には迷いがない。亮は測定系の受け側ケーブルをまとめ直しながら、前夜のログを頭の中でなぞった。主誤差は受け渡し角度へ寄っている。なら今日は、持ち替えの癖を潰す方がいい。外部設備へ持ち出す前に、山小屋側で消せる揺れは全部消しておきたかった。


「上げすぎると肩が浮く」


「分かってる。だから2mm」


 トレイの上で、前試行の試作片が薄い布越しに返される。端部の剥離はまだ残っていたが、崩れ方には一貫性が出ていた。再現できる失敗は、失敗のままでも前進に数えられる。そこまで来ると、机の上に並ぶ金属片や固定具の見え方まで変わる。前までは雑然としか見えなかったものが、いまはどこに何を置けば次の一手へ繋がるかで輪郭を持ち始めていた。


「受け側、あと5mm奥」


「この位置だと、引き抜くときに擦る」


「じゃあ角度だけ変える」


 短いやり取りの間にも、山の外にある生活は遠のいていく。東京の自室も、会社の試験スペースも、いま必要なものを受け渡す中継点でしかなくなっていた。ここでは、次の試行に要る条件だけが時間を刻む。亮はノートへ締結順を書き込み、直前に消した数値をもう一度見返そうとして、そこで初めて手を止めた。


 外の音が変わっていた。


 風が枝を擦る音ではない。林道の下で石が押しつぶされる鈍い音が、一定の間隔で近づいてくる。配達車ならもっと手前で止まるし、この時間に誰か来る予定はない。亮は反射的に顔を上げ、窓の外へ目を向けた。木立の切れ目に、見慣れない色の車体が一瞬だけ見える。営業車でも近所の軽トラでもない。舗装路向きの小型車が、無理にここまで上がってきていた。


「……誰か来た」


 七瀬の指先が止まる。


「予定あるの」


「ない」


 答えながら、視線はもう机の上を走っていた。片づければ隠せる種類の散らかりではない。低湿度チャンバー、絶縁治具、分離した記録用ノートPC、トレイに並ぶ試作片、締結順を書き直した紙。生活の延長でごまかせる量を、とっくに越えている。エイルは奥の棚の陰に置いてある。だが、それだけを覆っても意味は薄かった。


「布だけ掛ける」


 七瀬がすぐに動いた。試作片のトレイへ無地のクロスをかけ、測定画面を落とし、工程表だけを裏返す。亮もチャンバーの蓋を閉じ、机の端へ寄せた。だが手を止めるたび、どれだけ遅いかが分かる。作業の痕跡ではなく、作業場そのものがここにある。来た相手が誰であれ、扉を開けて一歩入れば終わりだった。


 エンジン音が切れ、車のドアが閉まる。乾いた音が、山の空気の中で妙に遠くまで響いた。


 靴底が砂利を踏み、山小屋の外壁沿いを回ってくる。亮は息を浅くしたまま、入り口の方へ向いた。逃がすべきものも、隠すべきものも、もう順番が立たない。七瀬が亮を見た。その目は問いかけではなく、間に合わないと確認するためのものだった。


 ノックは一度だけだった。


「亮?」


 扉の向こうから聞こえた声で、背中のどこかが冷えた。


 七瀬も同じ声を認識したらしく、表情をほとんど変えないまま肩だけがわずかに固くなる。亮は返事をしなかった。しなかったせいで、次の気配は早かった。古い引き戸の取っ手が鳴り、ためらいがちな力で戸が開く。


 先に見えたのは、見慣れたスニーカーの先端だった。次に、土埃のついた裾と、まだ車の鍵を握ったままの右手。古田は半身だけ室内へ入ったところで止まり、それ以上の言葉を一度なくした。


 机の上に並ぶ機材と、生活空間から切り離された作業動線と、七瀬の姿。その全部が視界へ入ったのだと、亮には分かった。


「……いや」


 古田は戸口を押さえたまま、ようやく息を継いだ。


「ちょっと待って。何してんの、お前」


 いつもの調子へ寄せようとした声だったが、語尾の軽さが続かなかった。亮は立ったまま答える。


「なんでここにいる」


「それ、先に聞く?」


 古田の視線が机を舐めるように動く。チャンバーの脇に置いた固定具、棚にまとめたケーブル、床際の収納ケース、白布をかけたトレイ、壁に立てかけたアルミフレーム。山小屋へ遊びに来た人間の目ではなかった。会社の試験スペースで、何がどこにあるかを見慣れた技術者の目だった。


「連絡つかないし、会社には変な痕跡ばっか残ってるし、長野の営業所留めなんて控えも出てくるし。山小屋の話、前にしてたろ。半分当てずっぽうで来た」


 そこまで一気に言って、古田はやっと七瀬を見た。


「……で、七瀬もいるんだ」


「いる」


 七瀬は短く答えたきり、作業台から離れなかった。古田はその反応に少しだけ目を細める。驚きより、確信に近いものが増した顔だった。


「何の手伝い」


「答えられない」


「そういう感じなんだ」


 古田は靴を脱ぐことも忘れたまま、さらに半歩だけ中へ入った。亮が止める前に、彼の視線は白布の端へ行く。その下で角ばった試作片の輪郭が浮いている。布の奥に隠しきれない形だった。


「それ、会社に残ってたやつと似てるな」


「触るな」


 亮の声が少しだけ強くなる。古田の指先が止まった。


「そこ、そんな反応する?」


「いまはする」


 古田はゆっくり手を引いたが、表情は引かなかった。怒っているというより、見えてはいけない境界線を踏んだことを自分で理解した顔だった。だからこそ、そこで退かなかった。


「亮、お前さ」


 言葉を選ぶあいだ、古田はもう一度室内を見回した。居間として使っていたはずの空間は、いまや生活の匂いより乾いた材料の匂いが強い。電気ケトルや食器より先に、手袋、養生材、測定器のケースが目に入る。片手間では辿り着けない積み方だった。


「退職して山に籠もってる、で済む話じゃないよね」


「……仕事とは関係ない」


「関係ない人間が、会社にあんな痕跡だけ残して抜けるかよ」


 返す言葉が、一瞬遅れた。その遅れだけで足りたらしい。古田は苦い顔のまま笑おうとして失敗した。


「いや、趣味だとか起業準備だとかなら、まだ分かるんだよ。分かるっていうか、納得できなくても筋は通る。でもさ」


 彼は机の上の裏返された工程表へ視線を落とし、奥歯を噛むみたいに言葉をつないだ。


「これ、隠し方がそうじゃないじゃん」


 七瀬が布の端を押さえ直す音だけがした。山の外でなら、古田はもっと軽い言い方を選んだだろう。ここへ来るまでに何度も考えたはずの台詞も、目の前の現場を見たせいで形を変えていた。亮にはそれが分かったし、分かった上で、まだ説明へ踏み込めなかった。


「帰れ」


 口から出たのは、それだけだった。


「帰したいのは分かるよ」


 古田は怒鳴らない。怒鳴らないまま、戸口の前から動かなかった。


「でも無理だろ。ここ見て、何もありませんでしたって顔で帰れって言われてもさ」


 七瀬が初めて亮の方を見た。追い返せば済む相手ではない、という確認がその視線にあった。亮は視線を受けたまま、古田とのあいだに残る距離を測った。近くはない。だが、もう安全な遠さでもなかった。


「せめて、違法なことじゃないって言え」


「違う」


「じゃあ誰かに追われてるわけでもない」


 そこで亮は答えなかった。答えなかったことで、古田の顔から最後の軽さが消えた。


「……なんだよ、それ」


 沈黙が長くなる前に、七瀬が低く言う。


「古田さん、今日は帰った方がいい」


「その言い方されたら、余計に帰れないでしょ」


「帰っても終わらない」


「ならなおさらだよ」


 古田はようやく靴を脱ぎ、上がり框を越えて室内へ入った。決して乱暴ではなかったが、その動きに引き返す余地はなかった。亮は半歩前へ出る。止めるためというより、自分がどこまで押し返せるかを見極めるためだった。


「古田」


「殴り合いならしないから安心してよ」


 そう言う声も乾いている。古田は机の端へ来ると、白布のかかったトレイから視線を外し、代わりに部屋の奥を見た。生活用の棚の一角だけ妙に片づいていて、その前に椅子がひとつ置かれている。対話のための位置だと気づかれても、おかしくなかった。


「これ、いつからだ」


「関係ない」


「あるよ。会社にいたころからだろ」


 返事はしない。できない、というより、その否定がもう意味を持たなかった。社内に残した加工痕、問い合わせ、退職の切り方、七瀬の不自然な沈黙。その全部がここへつながっていると、古田はいま目の前で繋いでしまっている。


「俺、お前が辞めるって聞いたとき、正直ちょっと腹立ったんだよ」


 古田は机へ触れないよう両手を宙へ置いたまま言った。


「でも、勝手に決めたんならそれはそれでいいとも思ってた。会社なんて人生の全部じゃないしさ。けど、いま見る限り、お前は辞めたんじゃなくて、最初から別のところへ移ってたんだな」


 窓の外では、午後の日差しが木の影を長くし始めていた。山小屋の中だけが、昼から切り離されたみたいに止まっている。亮は喉の奥に溜まった息を押し出した。


「古田、お前が知る必要はない」


「俺が決めるよ、それは」


 即答だった。勢いではなく、ここへ来るまでに固めた声だった。


「必要がないなら、七瀬もいない。会社に残ったあの痕も、あんなふうにはならない。お前、一人で隠して一人で進めるつもりだったんだろうけど、もう無理じゃん」


 言い切られて、初めて胸の内側が少しだけ軋んだ。無理だと分かっていても、どこかではまだ押し返せるつもりでいた。山小屋へ来るまでの距離が壁になると思っていたし、古田は踏み越えないとも思っていた。その甘さがいま室内の空気そのものになって、亮の前に置かれている。


 七瀬がトレイを抱え、黙って隣室へ移った。作業を守るためでもあり、これ以上目の前へ危ういものを残さないためでもある。扉が閉まり、山小屋の中央には亮と古田だけが残った。


---


 夕方の気配が入り始めると、木の壁は昼より暗く、窓だけが逆に明るく見えた。古田は座れとも言われないまま椅子へ腰を下ろし、亮は作業台の端に手をついた。机の上を片づけても、空気までは戻らない。


「何を作ってる」


「言えない」


「誰のために」


「俺のためだ」


「それで七瀬がいる」


「本人が決めた」


 古田は短く笑ったが、その笑いは自分を落ち着かせるためのものだった。


「そういう答え方ばっかするの、ほんとお前らしいよ。でもさ、俺が聞きたいのそこじゃないんだよな」


 彼は視線を上げた。怒りよりも、理解できないものを前にした戸惑いの方が濃かった。


「お前、どこまで行く気なんだ」


 亮は返せなかった。どこまで行くか。実装の次は検証、その次は外部設備、その先にはまだ見えていない段階がある。だが古田が聞いているのは工程ではない。会社を辞め、生活を切り、山小屋へ籠もり、七瀬まで巻き込んで進むその先に、元の場所へ戻る気があるのかという問いだった。


「戻るつもり、ないのか」


「……戻る気は考えてない」


 その答えは、古田の肩をほんの少しだけ落とした。責められるより、その方が重い。


「何なんだよ、それ」


「必要なんだ」


「何に」


「言えない」


 会話が同じところへ戻るたび、空気が硬くなる。古田は額を押さえてから、苛立ちをごまかすみたいに深く息を吐いた。


「俺、別に全部話せって言ってるわけじゃないんだよ。言えない線があるなら、それはもう見りゃ分かる」


 山小屋の奥を、顎で少しだけ示す。


「でも、何も知らないまま帰れってのは無理だ。会社に残ったもんも、お前の切り方も、今日ここで見たものも、全部つながっちゃったんだから」


 亮は黙った。追い返すなら、ここで突き放すしかない。けれど突き放して終わる相手ではないことも、もう分かっていた。古田は秘密を面白がって来たわけじゃない。心配と苛立ちの両方を抱えたまま、自分で確かめる側へ回った。その重さがある限り、曖昧な拒絶はむしろ次の侵入を呼ぶ。


「亮」


 名前を呼ぶ声だけが、少し低くなった。


「俺、お前が壊れたのかと思ってた。でも違うんだな。壊れたんじゃなくて、何か別のものに全振りしてる」


 そこで言葉が切れる。古田自身、何と言えばいいのか決められないのだろう。怒るべきか、止めるべきか、手伝うべきか、その前提になる中身が足りない。理解が足りないのに、足を踏み入れた現実だけはもう目の前にある。


「だから説明しろよ」


 机に手はつかないまま、古田は言った。


「せめて、俺が何を見せられてるのかくらいは」


 山小屋の空気が、その一言のあとで静まり返った。


 七瀬のいる隣室からも音はしない。窓の外では風が少し強くなり、梢が擦れる。そのざらついた音の向こうから、亮は次の沈黙をどう切るべきか測ろうとした。ここで嘘を足せば、もう持たない。真実を切れば、まだ早い。その逡巡が形になるより先に、室内の別の位置から整いすぎた声が落ちた。


「その要求は合理的です」


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