表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
山奥で拾った地球外AIと、俺は十五年かけて人類を宇宙へ押し上げた  作者: たまき


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

19/23

第19話「欠員」

 亮がいなくなった席は、物が減ったわりに広く見えなかった。


 朝のオフィスにはいつも通り空調の低い唸りが流れ、モニタの光が島ごとに立ち上がっている。古田はコーヒーの紙カップを片手に自席へ着いたあと、無意識にいつもの角を見た。もうそこに亮はいない。空いた椅子、返却された一部の備品、引き継ぎ用に残されたフォルダ。退職した人間の席としては十分に片づいているはずなのに、見た瞬間に浮かぶのは整頓された感じではなく、途中で人だけ抜けたみたいな途切れ方だった。


「朝からひどい顔してるじゃん」


 隣の席から声が飛ぶ。古田は紙カップを机へ置きながら肩をすくめた。


「そっくり返すよ。昨日、試験ログの整合取るのに何時までいたと思ってる」


「知らない。見ないようにして帰った」


 七瀬はそう言って、自分の端末へ視線を戻した。軽口の形は取っているのに、いつもの乾いた切れ味が少しだけ鈍い。古田はそこで初めて、ここ数日ずっと自分だけがやりにくいわけじゃないのだと気づいた。


 亮が抜けた穴は、人数の一つ分としては説明がつかなかった。案件を一つ引き継いだくらいで、試験スペースの段取りまで妙に悪くなる。前なら亮が半日で整えていた順番が、いまは誰の机にも落ちてこない。ログ名の付け方、治具の仮置き位置、途中経過をどの時点で切り出すか。細かいくせに、抜けると確実に仕事が遅くなる類のものばかりだった。


 古田は午前の打ち合わせを終えると、そのまま試験スペースへ下りた。案件自体は急ぐ。けれど本当に重いのは納期より、前ならここで誰かが手を打っていたはずだという感覚だった。作業台の端には仮止めしたコネクタ、番号が途中で飛んだ養生テープ、用途不明の薄いスペーサが残っている。退職前の片づけ漏れで済ませるには、どれも癖が強すぎた。


「それ、まだ残ってたんですか」


 背後から七瀬の声がした。古田が振り返ると、彼女は扉のところで立ち止まり、工具箱ではなく作業台の上を先に見ていた。


「残ってたっていうか、残したんだろうな。で、何に使うつもりだったか誰にも分からない」


 古田は指先で薄いスペーサをつまみ上げた。通常案件の治具にはいらない厚みだった。公差を詰めるために使うにしては細かすぎるし、試験設備の標準手順にも入っていない。


「亮さ、辞める前からこんなの触ってたっけ」


 七瀬は少しだけ間を置いた。


「仕事の手順から外れてたのは確か」


「確か、ね」


「見たまま言ってるだけ」


 そう返しながらも、彼女の視線は古田の手元ではなく作業台の奥へ向いていた。そこには途中で加工を止めた金属片が二つある。古田が昨夜見つけたものと同じ系統だった。端の面取りだけ妙に丁寧で、使うつもりだった穴位置だけが通常の治具と合わない。


「普通の退職なら、こんな置き方しないんだよな」


 独り言のつもりだったが、七瀬が拾った。


「そうだね」


 短すぎる返事だった。その短さが、かえって古田の胸に引っかかった。


「何か知ってる?」


「知ってること全部は言えない」


 即答だった。誤魔化し方としては下手だなと、古田は場違いに思った。もっと無難に流せるはずなのに、七瀬はそうしない。しないというより、できない顔をしていた。


「全部って言い方、怖いんだけど」


「怖がるならやめた方がいい」


「何を」


「掘るの」


 古田は笑おうとして、少しだけ失敗した。いつもの軽い調子で返せると思ったのに、喉の奥に乾いたものが残る。


「いや、待って。亮、何したの」


「犯罪みたいに言わないで」


「じゃあ違うの」


 七瀬はすぐには答えなかった。作業台の上に散らばる金属片、使いかけの養生テープ、番号の飛んだログ用紙を順番に見て、それからようやく口を開く。


「少なくとも、投げたわけじゃない。ここを雑に捨てて逃げたんじゃない」


「それは分かるよ」


「なら、いま見えてるものだけで判断しない方がいい」


 言葉の中身より、言い終えたあとの顔が気になった。七瀬は亮を庇っているのではなかった。庇うだけなら、もっと冷たく切ればいい。そうではなく、自分も同じ場所で板を挟まれているみたいな硬さがあった。


 古田は手の中のスペーサを作業台へ戻した。聞きたいことは増えたのに、ここで押せば七瀬まで黙ると分かる。だから引いた。けれど引いたまま済ませられる感じも、もう消えていた。


「案件、午後までに回すから。ログ名だけでも揃えてくれないと地獄なんだけど」


「やる。あと、その金属片は捨てないで」


「理由は」


「あとで見る」


「君も普通に怖いこと言うなあ」


 そう返すと、七瀬はわずかに眉を寄せた。冗談として受け取りきらなかった顔だった。古田はそのまま試験スペースを出たが、背中に残る空気は朝より重かった。亮がいないから回らない。それだけなら、時間が経てば慣れる。けれど実際に胸の奥へ刺さっているのは、その空白がただの退職者の穴に見えないことだった。


---


 帰りの電車は混んでいたが、古田の頭の中は妙に静かだった。


 吊り革を握ったまま窓へ映る自分の顔を見る。寝不足と疲れのせいにできる範囲は、先週でもう終わっていた。亮の変化を最初に見たとき、自分は少し安心していたのだ。長く沈んでいたやつが、急に仕事を通せるようになった。口数は少ないままだったが、目だけは前より遠くを見ていた。あれを復調と呼びたかった。そう呼べれば、自分は何もしなくて済んだ。


 けれど実際は違った。亮は戻ってきたんじゃない。別のどこかへ足場を移しただけだった。だから会社にいる時間だけ、無理にこちらへ体を置いていた。その歪みが、席外しの多さにも、部材問い合わせの偏りにも、変な治具の加工痕にも、そのまま出ていた。


 最寄り駅を出て、古田はコンビニにも寄らずにアパートへ戻った。部屋の照明をつけると、机の端に積みっぱなしのノートと郵便物が白く浮いた。スーツの上着を椅子へ掛け、靴も脱がずに鞄の中を探る。昼に試験スペースから持ち帰ったメモが一枚ある。通常案件の記録じゃない。亮の席脇にあったシュレッダーボックスへ入る前に、たまたま目についた配送控えのコピーだった。


 宛先は会社でも取引先でもなく、長野県内の営業所留め。品名欄は雑に部材とだけ書いてあるが、型番の癖が亮のメモと同じだった。退職直前、あいつがやけに細かい条件をつけて問い合わせていた部材の一つ。会社の調達として見るには不自然で、私物として切るには数が合わない。その半端さが、逆に亮らしかった。


「長野、ね」


 声に出してみると、記憶の底で古い会話がつながった。数年前、繁忙期の帰りに亮が一度だけ、自分の山小屋の話をしたことがある。夏でも夜は冷えるとか、電波が不安定だとか、工具を置いたままにできるから気が楽だとか。雑談にしては妙に具体的だったのに、そのあとは一度も話題にしなかった。


 古田はメモを机へ置き、スマートフォンを手に取った。亮とのトーク画面を開く。最後のやり取りは、退職が決まったあとに送った短いメッセージだった。返事はない。今日の昼にも一つ送っている。案件で詰まってる、少しだけでも話せないか。既読もつかない。


 画面を閉じかけた指が止まった。案件で詰まっているのは本当だ。だが、それだけじゃないともう認めるしかなかった。亮は誰かに追われているように見えたわけじゃない。助けを求める顔もしていなかった。それでも、普通に辞めて、普通に暮らす人間の切り方ではなかった。


「放っとけないだろ、こんなの」


 部屋の中で一人きりになってようやく、その言葉が形になった。心配だからかと問われれば、それだけではない。仕事を残された側の苛立ちもある。勝手に何か背負い込んで、勝手に遠くへ行った相手への腹立ちもある。けれど、どれを外しても最後に残るのは、あいつがあの顔のまま一人でいるのを見過ごしたくない、という気持ちだった。


 古田は机の引き出しから車のキーを出した。まだ出発しない。ただ、手の中へ乗せてみる。金属の冷たさがやけにはっきりしていた。


 長野の営業所留め。返事のないメッセージ。昔一度だけ聞いた山小屋の話。点ではある。でも、もう点が増えすぎていた。確かめに行って、何もなければ笑えばいい。怒られるなら、そのとき怒られればいい。逆に、何かあったときに何もしなかった方が、あとでずっと嫌になる。


 古田はもう一度だけ、亮のトーク画面を開いた。


 明日、そっち行くかもしれない。


 打ち込んで、送信の寸前で止めた。これを送れば、逃げる時間を与えるだけかもしれない。そう思った瞬間、自分の中で何かが静かに固まった。文面を消し、画面を閉じる。代わりにカーナビの履歴を開き、長野方面の高速出口を検索した。


---


 そのころ山小屋では、時間の流れが職場とは別の形に削れていた。


 深夜の机上には、昼間より少しだけ整理された試作片と、更新済みの工程表が並んでいる。端部拘束を一段弱め、測定系への受け渡し時間を固定したことで、波形の沈みは前夜よりさらに狭い範囲へ集まり始めていた。成功にはまだ遠い。けれど、失敗の輪郭は前よりずっと扱いやすい。


「右端の逃げ、まだ残るな」


 亮は測定画面から目を離さずに言った。七瀬はトレイの上で試作片を返し、破断面へ細い光を当てる。


「残る。でも、前みたいに散らばってない。締結順より、受け渡しの角度の方が効いてる」


「じゃあ次は台の高さを変えるか」


「2mmだけ上げる。持ち替えの癖を消したい」


 会話は短く、迷いがない。エイルは必要なときだけ閾値を告げ、あとは沈黙していた。亮にとって、それはもう不便ではなくなりつつある。答えられない部分は人間側で埋めればいい。その分だけ、机の上に残る作業は増える。それでも前へ進めるなら問題ない。そういう感覚が、ここ数日で骨へ近いところまで降りてきていた。


 机の端で、伏せたままのスマートフォンが一度だけ短く震えた。


 亮は視線だけを向け、すぐに戻した。通知の送り主は見えない。見る必要もないと、その瞬間は思えた。いま止めたくない工程が目の前にある。職場の連絡なら朝でいい。退職後の残件なら、なおさら今夜じゃなくていい。そう判断したことに、迷いはほとんどなかった。


「黒瀬さん」


「分かってる。次、台の高さ変える」


「違う。通知」


「あとで見る」


 七瀬はそれ以上言わなかった。言わずに、固定治具の足元へ薄いスペーサを差し込む。亮もそれを止めなかった。職場のことを考えなかったわけではない。ただ、考えて手を緩める理由がもう薄い。向こうには向こうの時間が流れ、自分たちには自分たちの工程がある。その切断を、亮は前より自然に受け入れ始めていた。


「エイル、現行条件での偏差傾向」


「前試行比で収束しています。主誤差は端部拘束より、受け渡し時の姿勢差へ移りつつあります」


「よし」


 亮は短く息を吐いた。前に進んでいる。いま必要なのは、その感触を逃さないことだ。会社で誰が困っているか、古田が何を考えるか、その瞬間の亮の意識はそこまで届かなかった。届かないことを、自分で問題とも思わなかった。


 窓の外は完全に闇へ沈み、ガラスには室内の白い反射だけが映っている。山小屋の机は狭いままなのに、進むための線だけは前より増えていた。その増えた線の外側で、職場の空白もまた別の形を取り始めていることを、亮はまだ知らない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ