エリィの手帳②
「サム! サム! 起きて!」
早朝、母さんことウィンリィに叩き起こされた僕は、未だ覚醒しきらない頭で彼女の顔を見た。
「かあさ……ウィンリィ、おはよ」
「母さんでもいいから! 早くインターを診て! お願い!」
ウィンリィに腕を引かれて、ベッドの端で眠るルートさんの所へ行く。彼は苦しそうに胸を押さえて、横向きにうずくまっていた。
「ルートさん!」
名前を呼んでも彼の黒曜石の瞳は固く閉ざされたままだ。
直様、ルートさんの額に手を翳して、彼の体に何が起きているのか、回復士の魔法で調べる。
「何だこれ……重篤な精神汚染による身体虚弱?」
回復士としての僕の魔法だけでは、これは治せない。というか、断続的な治療が必要な症状だ。
それも、精神疾患の専門回復士でないと……
「僕じゃ治せない」
「そんな!……やっぱりあの手帳がないとダメなんだ……インター、馬鹿だよ、君は……」
「ウィンリィ、僕もあれがとても大事なものだってことは知ってるよ? でも、君がどうしてそう思うのかを詳しく教えてくれる?」
僕の世界のルートさんも、エリィの手帳を手放した後、おかしくなっていた。
しかし、手放してから一年後、ウィンリィと再会した時のルートさんはまだ元気だったのだ。
だから今、何故こんなに苦しんでいるのか、僕は探りたかったのだが、ウィンリィは首を横に振って拒絶し、叫ぶように声を上げる。
「話してる猶予もないんだ! 早く取り戻さないと!」
ガシィッ!
その時、ウィンリィの腕をルートさんが掴んだ。起きたのかと思ったが、目は固く閉じられたままだ。
「……インター、無策では行かないよ。それと、行く時は君にちゃんと話すから、今は離してね」
言うと、やんわりとその手を外して布団の中に入れた。
彼女は、僕に目配せをすると、騒ぎで起きたコーラとアプリにも目をやり、全員で部屋を出るよう促した。
―――――
「あれは、インターのために、エリィが組み立てた魔法具なんだ」
ルートさんを寝かせた部屋を出た僕らは、王の執務室――あのFAX型魔法具のある部屋に移動した。
「出会った頃、インターは言ってた。一晩くらいなら離れていても平気だって。でもそれは、それ以上離れてしまったら、反動が来るってことなんじゃないかと思うんだ。実際、今、あんなに苦しんでる」
ウィンリィは険しい顔で拳を握り締めて、奥歯も噛み締めたのか、ギリィっと音が聞こえた。
精神疾患に作用する魔法は、途切れた時、反作用があると僕も知っているが、ルートさんの様子は精神ではなく、肉体にダメージがあるように見えた。
余程、強い作用をもたらす術式だったということだろう。そして、あの手帳をルートさんに渡したのは、エリィ。
それは、彼がエリィと出会う前から重篤な精神疾患を患っていたことの証左なのではないか?
「ウィンリィ、エリィは何故、手帳に魔法を施して、ルートさんに渡したんだろう? ルートさんがエリィと出会う前に重度な精神疾患を患うような何かを経験しているからだと僕は思うんだけど、君はそれを聞いてるかい?」
ウィンリィの桃色の瞳が大きく揺らぐ。
「……知ってる……けど、彼はそれを知らない。忘れてるんだ。僕も思い出させたくない」
「そうか。なら、聞かないよ。だから、そんな顔しないで、ウィンリィ」
分からないけれど、それは、ウィンリィの心をも傷付けてしまうようなことだったのだろう。
俯いて、胸元をぎゅうううと握り込んだウィンリィの姿は見ているだけで僕らの胸を締め付けたから。
コーラとアプリは、ウィンリィの両サイドに回り、優しく体に触れて、心配そうにウィンリィを見つめた。
「三人とも、ありがとう。僕は大丈夫なんだ。でも、インターが、インター、あんな大事なもの、まさか手放すなんて……まだ、死にたいのかな」
後半は、掠れて聞き取りにくかったが、『死にたい』という強い言葉がはっきりと聞こえて、全員、顔を顰める。
その言葉は、普段の彼の態度からはかけ離れていて、発したのがウィンリィでなかったら、アプリもコーラも言った人を責めていたかもしれない。
でも、『時渡りの迷宮』で僕を育てたウィンリィの過去を見てきた僕は知っている。ルートさんがウィンリィにそれを願っていたことを。
この異世界のルートさんとは別人だと今は思っているけれど、この世界に飛ばされる前の彼らの歴史はおそらく同じはずだ。
ただ、この世界のルートさんはウィンリィとアプリを助けるためにあの手帳を手放したのだ。そのことだけは確かだ。死にたいからでは決してない。
「ごめん。落ち込んでる場合じゃないね。早く取り戻す算段立てなきゃ! あ……でも、みんなは待ってて? 行くのは僕一人で大丈夫だから」
「「ウィンリィ」」
コーラもアプリも、ただ、名前を呼び、母の大きな桃色の瞳を見つめた。
「心配しないで! 食べ物もクセロティリもいっぱい食べて魔力満タンにしていくし! 僕、全力なら、すっごく強いから!」
全力でなくても強いことを僕らはみんな知っている。それでも、いつ魔力暴発するか分からない竜の胃の中の物を取りに行くなんて、一人でさせるわけに行かない。
「探査は、僕がやる。あの手帳の魔力パターンは、覚えているからね」
「私は、サムに魔力を供給する」
「じゃあ私は、ルートの看病をするわ。本当はついて行きたいけれど」
「え……みんな……危険だよ? やっとの思いで逃げて来たのに、また死地に向かうなんて」
全くうちの母は、大丈夫と言っておきながら、自分で死地って言っちゃってるし。
僕とコーラとアプリは、三人で目を合わせてから、ウィンリィの方を見た。
ウィンリィは今、大きな瞳を揺らしている。
付いて来てほしい気持ちと、皆を危険に晒す不安と、みんなの気持ちが嬉しい気持ちがないまぜになっているような、そんな揺れ方だ。
「水臭いわね、ウィンリィ。サムもアプリも、私も、仲間を見捨てたりしないわ」
「ウィンリィ、私にとって、ルートさんは大事な仲間で、師匠だよ。絶対に助けたい」
そこまで言うと、ウィンリィは泣き崩れて、「有難う、お願い」とやっと言ってくれた。
―――――
出立前にルートさんと話してくるとウィンリィが言った。
今、僕とアプリは部屋で待つふりをして、こっそり、ルートさんのいる寝室をドアの隙間から覗き見ている。
「インター、エリィの手帳は必ず取り戻すから休んでてね。あと、コーラが王宮内の医務室から精神安定薬と、精神汚染による身体虚弱抑制剤を探しているから、見つかったらちゃんと飲むんだよ」
今、ルートさんには、ウィンリィによってかけられた眠りの魔法が効いている。
遠目からでも分かるくらい規則正しく上下する胸に、今朝よりも穏やかに眠ることが出来ていそうで、僕とアプリはほっとした。
ウィンリィは、話しながら彼の額に手を乗せた。その仕草から、ルートさんのことを大事に思う気持ちが垣間見える。
「……あと」
「……リィ」
! ルートさんが目を覚ました!?
「インター、無理しないで、起き上がらなくていいから!」
「だ、大丈夫……だから……リィ、あの手帳は……」
「嫌だね、絶対取り戻す。君にはあれが必要だ」
恐らく、もう必要ないと言ったのだろう。しかし、それを聞き入れるウィンリィではない。
「リィ、僕は……。は、止めても無駄だし、今の僕には、君を止められない、か……」
ルートさんは、満タンになったウィンリィの魔力に気付いたようだ。
「うん。分かってるじゃん! 待っててね、必ず取り戻して帰ってくるから」
ベッドの端に肘を付いて話していたウィンリィが立ちあがろうとした時、ルートさんの手がその腕を捕らえた。
ルートさんがそのままウィンリィを引き寄せると、二人の顔がぴったりと合わさった。
「……僕に、君と同じ魔法が使えたら良かったのに」
「この前も同じこと言ってたね。あの時も言ったけど、その気持ちだけで充分なんだ。ありがとう」
そう言うと、今度はウィンリィがルートさんに顔を近付けた。
僕らが子供のうちにだけ使える防御魔法、タグを付けたのだろう。
こちらからはウィンリィの表情は見えないが、ルートさんは、泣きそうな顔で彼女を見ている。
そこまで見て、僕とアプリは王の執務室に戻った。
随分、無粋なことをしてしまったと思ったが、二人の嘘偽りない気持ちが垣間見れて、良かったとも思う。
程なくして、寝室を出てきたウィンリィが部屋に戻ってきた。
その顔は晴れやかで、気合いに満ちている。
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