(65) フィフス・エレメント(1)
言いながら、ゲンコは目をさました。
気がつくと、目を覚ましていたという感覚が正しかった。
「あのとき……」
ゲンコは、自分がなんと言ったかはわすれていたが、そう言ったのはたしかに自覚していた。いや、自覚した。壁にもたれかかって、かたく固まった関節、腕にいだいていたエイブリーの質感。銀色の金属めいた、あたたかくもつめたくもない、堅くて鉄の味が口の中に広がるような質感を、寒気とともにはなしてケースにしまう。
室内は夜が去っていた。気配でわかるほど明るさが差し、鳥が外でさわいでいる。
また眠れなかった。眠気と、眠りにおちると悪夢のようにうなされるのとの境目で、いつのまにか、気をうしなっている。もう何日も、それをくりかえしている。
眠れないわけではない。気絶しているような状態が、どれほど、身体に悪影響か、支障をもたらすか、それは考えないことにしている。
起きて動いていると、ケルスがやってきた。朝食にするかという、ちょうどいいタイミングだった。
ゲンコは頭痛がするのを頭をかるくかかえてこらえ、ケルスに応対した。
ケルスはゲンコの白い顔には気づいているものの、なにか察しているのか、一言かるく触れただけだった。
「朝ごはんは食べる?」
「食べます」
ゲンコはうなずいた。空腹だけは意識していた。食欲はないが、空いているのであれば食べたほうがよい。
聞いてはいたものの、ケルスは脇に小型の炊飯器を抱えている。いいにおいがする。なにか持ってきたようだが、米の匂いではない。
玉ねぎかな、と、ゲンコは思った。ケルスはほかにもビニール袋を置き、炊飯器を置いて、そのふたを開いた。
「それ、なに?」
「ロールキャベツ」
ケルスは言った。ゲンコは聞きつつも、ひょいと勢いよくあがった湯気をさけて、炊飯器の中身をのぞいている。
「すごい」
本当にロールキャベツができている。玉ねぎの濃い匂いが鼻に香る。
「玉ねぎの匂いだ」
「ああ。ちょっと香りを意識したから……食欲のほうで?」
やや言いわけぽく、ケルスは言って、食器をかちゃかちゃ鳴らした。怪物の出現で、食器のたぐいがいくらかだめになったのに、ケルスがもちこんだ。
「日本の炊飯器、便利だなー……」
「台所借りるよ」
「はい」
ゲンコは手伝いに立った。
ケルスが下ごしらえして持ってきたじゃがいもを薄切りにするので、それをフライパンに乗せバターで焼く。両面がきつね色になるまで焼いたら、二枚の皿にわけていく。ケルスはついでに目玉焼きもたのんできたので、二枚仕上げる。
きざんだパセリ、こしょう。えもいわれぬいい匂いがする。
そのあいだに、ケルスはタッパーから塩漬けにしたニシンの切り身をとりだしている。それから赤玉ねぎ、レタス、きゅうりとわかめの酢の物、フルーツトマト、などをビニール袋から取り出して野菜を手ばやく洗い、まな板で切ってサラダにしてもりつける。
現地のもので、などといつも言っているわりに今日の朝は豪勢、というよりかケルスが母国で食べているものに近い。
ホームシックだろうか。まあ、ゲンコもイギリスには売っている食材がないのは口さみしく感じることがある。日本ではブラックプディングなどはけして一般的な食材ではないし。
「いよいよ寒くなってきたし、あったかいものでも食べてってね」
「このあたりって雪が積もるって言ってた」
「雪かぁ」
「ケルスさん、雪見たことあるの」
「そうね。スキーできるし」
「あ、そういえばまえ言ってましたね……」
ゲンコはちらりとケルスの顔をうかがった。ケルスは「ん?」と、気づいて聞いてきた。なんでも、と、ゲンコは答えた。
が、やっぱりそれを撤回して言った。
「ケルスさん」
「うん」
「変なこと聞くんですけど……。……私って、記憶喪失なのかも」
「記憶喪失……ふん?」
「食事準備終わってから話します」
ケルスがうながしてくるのに、ゲンコは言った。ケルスもそうね、と無言で言うようにうなずいた。
準備が終わって食卓につく。
「記憶喪失っていうのはちょっとちがってて……」
ゲンコは食べはじめながら言った。ケルスは無言でじゃがいもをかじっている。
「記憶の混だくというか……「ここはこうじゃなかったのじゃないか?」というのか」
「かんちがい?」
「それに似てるんだけど、もっとはっきりしていなくて……部分的にはこれがあったはずなのに、覚えていないように思えるっていう、ばく然とした不安感がある、というのか」
「ふうん」
ケルスはうなって、口元をちょっと押さえた。口のなかのものを飲みこんで、ちょっと考える。
「幼少期の記憶みたいなものかしらね。思春期、というのはないからねゲンコは。今がそうだし。まあ思春期の記憶なんかは、本当にこうしたんだろうか、こうだっただろうか、ここはこうではなかった気がするって混濁が見られるのはけっこうあるらしいわよ」
「ケルスも?」
「私はそんな年じゃないでしょ。ま、あるかないかで言ったら、多少あいまいになっちゃってる部分はあるけどね」
「昔のことってことか……」
「そうでなくごく最近、たとえば数年前のことが混乱しているってことかしら」
「そうかも」
「なるほど。……たしかに記憶喪失、健忘症なんかを疑っているわけね」
ケルスは、いったんそのあたりで語るのをやめた。ロールキャベツをかじり、できばえをチェックしているような顔になる。
ゲンコも食事を箸でつまんで片づけはじめた。かみしめると料理は香ばしく、よくできていたが、ゲンコ本人には食欲があるわけでもない。しかし、必要なぶんは摂取する習慣が身についている。あとでどうなるにしても、いつでも動けるようにしておかないと、仕事にはさしつかえる。それに、その前提で食事の時間もほぼ組みこんでいる。
ケルスはゲンコの体調管理についても、できる範囲でサポートする立場にいるのだ。いまの状況は、そのサポートの範囲ではどうにもならない状態というだけで。
「お茶、いれます」
「私やるからいいよ?」
「緑茶が飲みたくて」
「そう? じゃあ私もそれで」
ゲンコは、立っていってポットをセットし、コンロをひねった。待っているとすぐに湯がわく。食べる前に用意だけはしてあったからだ。耐熱ガラス製の急須に、いれかえた茶葉をとおして湯をそそぐ。
故郷でも紅茶をよく飲むのはたしかだが、日本茶もないわけではない。ポピュラーなのは中国茶だと思うが、好みで買う。母は日本茶が好みで、よく買ってきたので、そのとき教わったやりかたでなら、ゲンコはうまいこと緑茶を淹れることができる。
「一度、ユノミにお湯を注いでね……」
と、母は注意ぶかく言っていた。急須にお湯を注いだら、蒸らす。これはじれったくなる直前くらいまで。
二つ以上の湯呑みに注ぐときには、濃さが均等になるよう順番に少しづつ注ぎ、急須の中身がちょうど空になるよう気をつける。
淹れたお茶の一番濃い旨みが最後の一滴に溜まっているからだ、という。
「水にもこだわる」
というが、日本に来てからはそこまでこだわっていない。水道水を煮沸させてから使うていどだ。今回は買い置きしておいたミネラルウォーターのペットボトルがあったので、それを使ってみた。
お盆にのせてすすめると、軽く礼を言ってケルスが湯呑みをとった。ふう、と、息を吹きかけて、注意ぶかくすする。猫舌ぎみなのだ。
おちつくと、ゲンコはまずちょっとまえ学校でなぐられたときのことを言った。ケルスはびっくりした。聞いていなかったのだろうか。
「殴られたって、学校で……?」
「もめごとに首つっこんじゃって」
「なるほど……? ふうーん。日本もけっこう大変そうね」
「少ないトラブルだと思いますよ」
「まあ、トラブルの内容はここで聞かないけど、あとで調べることにはなるな。それで、そのときに? なにか思い出すことがあったと」
「過去に同じことがあったような気がしたんですが、それは覚えていなかったの」
「そういったことが、ほかにも?」
「そうね」
ゲンコは二、三の心当たりを話した。打ち明けるというのに近かったが。
ケルスはだまってまず話を聞き、それから気になることをたずねて、それも事務的に聞いた。あごをおさえて、ちょっと中空を見るようにした。長めのショートヘアが、額のはしにかかっている。彼女の考えるときのくせだ。
「こういうのは、専門の人間をたよるのがよさそうね。話してくれてありがとう。報告しておく?」
「はい」
「そうね。それがいいと思うわ」
ケルスはもてあましたようにつぶやいて、携帯電話を確認した。「ちょっと出てくる」と言って、携帯電話をジーンズのポケットにしまう。
「はあ……」
ケルスが外に出ると、ゲンコはだらしなく横たわって弛緩した。空の室内に息を吐きだし、腕をのせて、その重みでまぶたを強引に閉じる。
一分もそのまま寝転がってから、ゲンコはまた起き上がった。
そのころ、部屋の外では、ケルスが電話をしていた。
「ケラーです」
と、簡略に告げて、アパートの下階の外の陰、ちょうどこの朝は雨が降っていたが、それを避けるかたちで立ったままいくつか報告する。
報告が終わって、ケルスはすぐに別のところへと電話をかけた。
相手が三コールほどで出る。
「こんにちは。私です」
ケルスは言った。雨がぽつぽつと、屋根をさけて、ななめにケラーに落ちた。その雨粒がしゅん、と音を立てて消えた。ケルスは指をおろした。電話の主がなにごとか言う。
「ええ、このあいだの件で。……意外ですか。そう?」
ケルスはちょっと肩をすくめるように、電話を反対の耳にあてかえた。耳が疲れたのだ。
「私がアメリカであなたたちの同胞を焼いたとしたら、それは事故のようなものです。もっとも、私が自分の意志でそうできないということではありませんが」
ケルスが言う。電話の主が、何事かまた言う。ケルスはすこし長く耳をかたむけた。
言う。
「ええ。難しいでしょうが。私の都合については、またお会いして話しましょう。あなたのおすすめのお店で中華料理でも。……ええ。それでは」
ケラーは言った。電話を切ると、表情はゲンコの前にいたケラーに戻っている。何事もなく、ただ仕事の連絡を終えたという顔で、耳にかかった髪を指でちょいとよけた。




