(62) アナイアレイション
夜半ごろ。
雷雨が街を打っていた。
二週間、怪物の出現のない凪をへたあと、最初の出現は、思いもかけない激しい強いものとなった。
豪雨のなか、視界に不自由がでるなかを、ゲンコは走っていた。ブレザーの制服は身体に重くはりつき、水を吸って自由をうばう。たまらず上着はぬぎすてていたが、後ろからは怪物が迫っている。路地を走りまわりその動きが包囲班の行動にどうにかそうように……努力くらいしかできなかったが、そのように駆け、はね、糸をはじいた。
今宵あらわれている怪物は、いままでにない具体的な形をしていた。闇の中で目撃される彼らの形は色もさだかでないてらてらした黒いかたまりであることが、ほとんどだったが、今日街をはいずり、ゲンコを追いつめ、戦いをくりひろげているのは、ぼろぼろの黄色い皮膚を一様にもっていた。
ゲンコはそこまで考えて、一瞬足を止めた。雨音がどうしようもなくごうごう耳をおおい、滝となってすぎる。
雷が落ち、木を裂くような凄まじい音が落ちた。が、これはゲンコの身をすくませるだけでなく、一歩の差で安全を確保した。
周囲が放電で輝き、すぐそこまで迫っていた黄色の皮膚を照らしだした。大仰で、大柄で、ゲンコくらいの身長ならそれは見あげるほどだった。
目のはしにとらえるかたちで、ゲンコは黄色の皮膚におびただしい髪の毛……それは細かい糸じみた触手だった。一本一本がざわざわと不自然にうごめいていた……と、雨でぬれて輝く剛くおぞましく強い触手。それがうぞうぞとせまり、押しつぶしてくるのに、糸をはじいてひらめかせた。伸ばされていた触手がちぎれて、白い体液をまきちらしてはねる。ゲンコは同時に突進をさけ、同時に周囲を感知した。落雷がふたたび落ちる。たて続けに二発。天を引きちぎるような轟音を聞きながら、次々にわいて出る影から、油断がうばわれる。
なんて数だ。そう思う。通信は、轟音のなかでも、確実にゲンコに情報をつたえてくる。
それもいまはノイズになりかかっていたが。
(強力な変異体がいるってこと!)
ばちゃばちゃと、次々はじいた指に、ばつばつと怪物の身体がちぎれ、裁断され、あいだをかわしてゲンコの足が走りぬける。髪もすっかりはりついて乱れ、雨を左右前後にたたきつける風に、こそともゆれない。
不快な液体のなかにいるかのようだ。そもそも、「暴風雨の兆しはなかった」。出現が起きる刻限になって、急にすべてが荒れはじめたのだ。
(……)
口をきく余裕はない。
歯をかみしめ、迫る寒さをこらえ、逆にあたたかくすら感じる雨粒に、身体の芯までこごえながら、緊張で身体の表面は焼ききれそうになっている。疲労した手足、ひきつった腹の奥。
寸前までせまって、腿をとりかけた触手の束を蹴りつける。衝撃で肉片になってとびちった触手が、今度は紫色の体液を噴きださせる。
狭い路地に誘うと、さんざん注意をひきつけた、黄色い肉塊がつぎつぎと殺到してきた。速度はそこそこ、追いつかれないぎりぎりで身をひるがえし、同時に矢をつがえ、引く動作をしている。
威力を抑えかねた矢が、電光のようになり、しかしあくまで横にとんで、路地に殺到していた比較的知性の低そうなのを、まとめて薙ぎ、吹き飛ばした。
轟音。雷鳴。また雨が強くなる。
(いいかげんにしてよ)
やつあたりのように思って、ゲンコは指示どおり、さらに群れをひっかきまわすように、路地から路地へと走りこんだ。
強力な変異体には近よらず、はなれて作業を遂行する。今ほどでたらめになっている場では、ゲンコがそうするほうが、現場にはありがたいと言えたが。
ラドックスがまもなくやってくるはずだった。ラドックスは、両手に――粗野な言いかたをするとメリケンサックのように、にぎったエイブリーで、なみいる触手を爆発のような電光で叩き落とし、ふところに踏みこんで拳を打ちこむ。これを夜だろうと、包囲された状況だろうとやってのけるというのだから並みはずれている。
変異体の対応には、ゲンコが外されたあとに、そのころから加わったジョイスティックの符丁で呼ばれる人物が当たっている。また、何かしらの取引があったのか、ゲルトヒーデルと諒子は、なぜかそのまま現場作業には加わっている。説明はないものの、どちらにしろとくにエイブリーを所持する有力な人間は、多いほうがいい……。
気まぐれにも思えるエメ・ルナールの金髪の顔を思いうかべながら、ゲンコとしては、むしろジョイスティックがいまだ実名で紹介されないのが、より気になるところだった。
ルナールを呼んだのはウェルフかはわからない、知っているのはウェルフだが。
ゲンコを変異体の駆除を優先する要員としてはあつかわない、それは不安要素があるためで、まあゲンコに原因がある。精神的な疾患は、それがあるままで業務をおこなえるなら認められそうなものだが、実際はそうではない。
それだけのことで、未練があるゲンコの意見は勘案に加えるべきでない。
ジョイスティックを現場に回すことは、誰にとってもよいことだ。
実名を知らないエイブリー持ちはゲンコにもいるが、むしろ、名前だけを知っているほうが自然ではある。
サー・トリストラムという、ゲンコのそれは虚名であるが、グリニザに所属する歴戦のエイブリー持ちには、同じように円卓の騎士の名を冠する有名者が何人かいる。騎士ガーラハトと呼ばれるガーネット・ストロフ。騎士パルシウァル、またはサー・パーシヴァルと呼ばれるエネクト・オライオン。この二人を名実ともに最強として、ガヘリス・ソーン。ベディヴィアの名を冠したラヴィニア。技術屋でもあるス・アルマンダ。
これらの人たちとは、ゲンコはいっさい面識はない。怪物の出現は、小さなものは世界各地のあらゆるところで、ばらばらに規則性の見られない時期で。大きなものは、二、三カ所の同時発生で、結果として重なって、しかし極端に箇所は少なく。現在は、EMの弾きだす計算と、観測地点にもとづいて、人員は派遣され、それは現象の性質上、小規模な戦争ほどとは言わないまでも、テロや暴動鎮圧ほどには、労力と期間を必要とした。
エイブリー持ちはいくらいても足りないが、現存するエイブリー自体はあくまでも少数である。現場にいれば、よく目にするものだから、感覚は狂いそうになるが。
つまり、面識はないにしても、お互いを隠す必要というのはあまりない。遅かれ早かれ、いつかは顔をつきあわせて連携を取るようになるのだから。相性が、良かろうが悪かろうが……。
その場合、相手を知っておくにこしたことはないのだ。人によると言われそうなものだが、第一印象以外にも、知っておいて損はないということはあるものだ。
「了解!」
ゲンコは通信に答えた。
変異体の一部の排除が完了したため、後退しながら、ゲルトヒーデルと合流するようにとのことだった。
ゲルトヒーデルと諒子は、基本、組で行動し、ジョイスティックが変異体の排除をするのに、支援している。出現が、群れになって起こり、大型も闊歩する状況では、どこも修羅場だが、変異体まわりはさらに苛烈である。
ラドックスと視線をかわして手振りで移動します、と告げて、群れの隙をついて移動し、横から糸をはじいて真空波を打つ。
できるだけひっかきまわしながら移動する。
途中、大きな通りでライティングが交差して、大型……あるいは特大型と呼べる怪物の巨体が見える。
強力な妨害こそ発生しないものの、それは、息を呑む姿だった。
巨体は五階建てのビルディングに相当するだろうか。
豪雨が叩きつけ、雷鳴が空を焦がす無人の街に、嵐のような風をこそともせず、にぶく重く蠢いている。爆発が何度もひびき、怪物特有の特定の音をかきけす奇怪な性質が、火薬のようなむせかえるような感覚と、無音の映像を映し出している。
はあ、と、ゲンコは息を吐いて走った。ばしゃばしゃと水をはじくブーツ、ゲンコを送りこむために待機したバイクがちょうどすべりこみ、エンジン音とライトを投げかけた。「はい!」と、出すぞと言ってくるバイクの担当者に返して、ゲンコは後ろに乗りこんだ足を、地面から勢いよくはがした。
「はあ……」
ゲンコは一瞬だけ肩の力を抜き、また入れ直した。片時も油断しないのは、既定路線でそれができないということはないが。運転手のニーザが視界がきかず、バランスも悪いなか、狭い路地を曲がる。
そのとき、驚く声が聞こえた。息と言ってもいい。ニーザが言ったことで、次の瞬間にはバイクがバランスを崩し、なにかを避けるようにして、急に軌道を変えた。崩れたバランスは、そのまま立てなおせず、バイクは横倒しになり、衝撃とともに出していたスピードのまま地面をがりがりと削った。
乗っていたゲンコは投げ出された。空をつかむ思いで、必死で体勢を立て直し、起き上がって転ぶ前たしかに見たものに視線をあわせる。
下手を打った身体がずきずきと痛んだ。だが、痛みがあるならマシなほうだ。エイブリーを抱える手を一度にぎって確認し、倒れているかもしれないニーザの身体を探す。
運転していた彼はゲンコより離脱が遅れてしまったようだ。とはいえ、立てないということはないようにも見えた。わからない。確認をしなければならないが、できない。
バイクで過ぎてきた道、滝のような雨が覆っている視界に、黄色い巨漢が立っている。
見るからに人外だった。だが、人に近い姿をしている。明らかに人の腕をかたどった右手、ふくれて肉塊のようになった左腕、二本の足。
頭には顔があるようだが、顔の中心からねじくれた触手が角のように立っている。それはうぞうぞと動き、やわらかいようだった。いびつな長鼻の近くに一対の目。つるりとした頭髪のない頭。
(変異体――)
ゲンコは息を詰めた。
どうしてここにいるのか、と、余分な思考が走り、無理もないと瞬時に判断をつける。巨大な特大型の怪物の対応に気がいっていて、出現をすべてフォローできていないのだろう。
そういうことはある。それはいい。
(連絡を……)
「ニーザさん! 動かないでください!」
自分を奮わせて、ゲンコは言った。声は聞こえる。特定の音を無音にする奇妙な怪物の性質は、強力になると、一時的に人間の声にもおよぶ。
このため通信にも影響をあたえ、逆に、その存在が出現したことをしめす現象にもなる。
(じゃあ変異体じゃない? 強力……ではない)
ゲンコはどちらにせよ、その場で弓を引いていた。発射する直前に、視界から黄色の巨漢が消えた。
ゲンコはそのままに視線が動いて、弾けたような痛みが走るのを感じた。構わず、涙でにじむ視界に黄色い巨漢を入れ、狙いがそれたのを感じながら、射撃を打ち切って、前に出た。糸に指をかけ、おそろしく速い巨漢の動きに、肉薄した。
力をためた左脚が、同時に蹴りを放っている。ゲンコの背丈では、巨漢の頭部にはとても届かなかったが、中心をなるべく狙っている。
巨漢は蹴りをかわした。
わずかに後退し、その動きは、かすかに人間じみていた。ゲンコも後退し、同時に指を弾いている。
巨漢は、それも避けた。正確には、避ける素振りが見え、ゲンコにも独特の手応えがなかった。
「だっ……」
ゲンコは驚き、巨漢がよけざまゲンコの足元をすくうように何か放ったのを見た。エイブリーにともなって埋めこまれた知覚装置が、攻撃の正体を掴んでいる。ゲンコはかろうじて避けた。が、認識のすきをついてくるような足払いに、身体の節々がつっぱったような感覚がある。
たたらを踏んで、転びかける。とっさに受け身を取って転がる……巨漢は、それも追ってきた。
頭上から、ゲンコの身体をへしおり畳む勢いで、巨漢の腕が振り下ろされる。
最悪、片腕がだめになってもいい、と、ゲンコは思った。
思い、左腕を振り上げる。振り上げながら、左右どちらかへ身体を逃がす。振り上げた腕には、エイブリーがある。なにかの防御になるとも思えなかったが、少なくともエイブリーはこの攻撃を受けても壊れることはないだろう。
そう思った。
思ったものの、衝撃は来なかった。
ゲンコは腕が無事なのをたしかめ、素早く立ち上がり、巨漢から距離をとった。
どうして衝撃が来なかったのかは、すぐに察知した。巨漢の振り上げた腕は、ふくれて肉塊のようになった部分がなくなっていた。鋭利なもので綺麗に切断されたのがわかる様子だった。そして、これもすぐわかったが、ゲンコが追いつめられた場には、いつのまにか黒ずくめの人影が立っている。その黒は、完全に闇に溶けこんでいた。つまり、黒としては不自然で、光を吸う特殊な素材か加工かを使っている。
手には光り輝く剣尖、とは呼ばれるものの、実際は暗闇では眩すぎる蛍光灯のようにも見えたそれを、構え、同時に振り上げた。
巨漢がまた疾い動きで、それを躱し後退する。剣尖は、次々走って、あっというまにこれを追いすがり、斬りつける。
ゲンコは走って、ニーザをうながした。状況に、その場で姿勢をひくくしていたニーザは、ゲンコに庇われつつ、一気にバイクへと走った。
バイクを起こすと、すばやくまたがってエンジンをかける。エンジンがかかる。破損こそしたものの、大まかには無事であったようだ。
ゲンコは促され、バイクの後ろに乗りこんだ。その間にも、斬りむすぶようである二者からは目をはなしていない。
(礼を言わないと)
と思ったが、無言でゲンコはそのままバイクに乗せられ、走り去った。
巨漢も、光る剣尖の持ち主、ノーフェイスエージェント、またはルチャドールも、闇に一瞬で消える。
「オブライアン、負傷は!?」
ニーザが言う。彼は、医療スタッフでもある。
「ないです! とりあえずは!」
ゲンコはかえした。そうしながら、続けていたさっきの地点での遭遇についての報告をおこなう。ノーフェイスエージェントが交戦中であることもあわせて。
(あれを一人で?)
そんなことはできない、ましてや、あそこに現れていた怪物はあの個体だけではないかもしれない。だが、引き返すにも、配置の都合がある。ゲンコは先に言われたとおりの場所に向かい、段取りどおりの役割を担わないとならない。
「無事で……いてよ」
っと、と、ゲンコはたちまち指定の場所にたどりついて、バイクから足の裏を叩いた。
そのことに一瞬罪悪感を感じる。
想像をわきにおいて、オペレーターに飛ばされた情報のとおり、狭い通りから三階建てのマンションを回りこんで、走りこむ。
そのとき、地面がゆらっと足の下を浮いた。
そんな感覚がした。
地震。日本に来てから数度体感したその独特の感覚を思い、ゲンコはふと頭上を見上げた。
そこに巨大な影があった。
巨大、というよりか、単純に馬鹿げた大きさと言ったほうがいい。
その影はゆらっと大きく揺れ、そう錯覚するほど機敏さのない、重々しい力強い動きで動き、一本、二本、おそらく四本? あるように見える足を上げ、振り下ろした。ゆらっ。
そのとてつもない質量が足もとのなにもかも、押しつぶして平たくしてしまったのがわかる、揺れ。「この質量の移動かなにかで、この揺れのような感覚が起きている」。ゲンコは悟った。
オペレーターが別の情報を伝えはじめた。おそろしく巨大な質量は、次々、足元からの光源が照らすなかに、その奇怪で醜悪な肢体をさらした。
胴体は高々と屹立した四本の足によってささえられている。頭部らしきところも目らしきところも見当たらず、無数の、数限りないほどの、元の大きさがわからなくなるほどの体毛めいて生える触手が、パンケーキじみた胴体を覆っていた。
(あれが!? あれが、怪物……)
ゲンコはうろたえた。だが、身体は反射的にむせかえるほどの恐怖にたえかねて、弓を引いていた。本来の対処など頭のはしへと追いやられている。それは、いわば現場にのぞむ人間としては失格だった。
(こんなんじゃ足りない!)
一度手をもどして、ゲンコは左の太ももをつよく手のひらで押しつけた。内部にある生身でない骨がきしむほど強く。
そして、ふたたびかまえる。ぴたりと照準だけあわせ、揺れる身体を片ひざ立てて固定し、射撃だけに意識を集中する。弓を引き、矢をはなつ、真っすぐの軌道を光線で意識し、ライトアップされた巨体をその光源のひとつになったつもりで、白日に照らしあげる。
ゲンコはうめいた。
「デンマルクのオジエ、この剣を奉じます。欠けたる切先、無先の剣。聖なるは月」
すばやく口ばしる。その途上に空気が張りつめ、重さと濃度を増して、辺りの空気との落差で微風すら吹いた。紫電が音を立てる。月に向けるように、ゲンコは指先を解き放った。
一瞬。
闇が曙よりも明るくなった。満月の夜のように。雨は割け、雲は貫け、雷光を何重にも……そんなことができたらだが、束ねたような光陰が風と夜雨とを少し逆流させた。
「――」
フィードバックが視界に入り、ゲンコはその場で身体をくの字に曲げてうずくまりたい衝動に駆られ、同時に耐えた。矢は閃光を曳き、一筋のシンプルな線となり、巨大な、巨大すぎる怪物の胴体、その腹のあたり……それはゲンコがとっさに思いついた狙いだった。「やわらかそうな腹部」と……に吸いこまれるように着弾し、そのとたん、衝撃となった。
衝撃は着弾したあたりから、一瞬で輪を描き、球となってはじける。豪風が吹いた。吹き寄せた風は、質量すらともなっており、ゲンコの濡れきった表面を、雨粒とともに一気に吹き飛ばした。ゲンコは衣服の水分までが一気にかわき、布地が引き千切られかねない錯覚をあじわい、顔をかばっていた。結果を確認しなければならない、「ゴーグルはしないのか?」と、ラドックスが想像の中で言ってくる。
たしかに、必要だ。反省し、取りいれなければ、でも、怪物との立ち回りによい品があるだろうか? 探せばあるのだろう。視界がさえぎられているあいだ、そんなことを明滅のように思い、ゲンコはなんとか目をこらした。
ちょうど雷が轟き、音が戻った。暗闇の中にたたずむ巨体は、足を止め、動きを止めているようにも見える。着弾した部分は大きくえぐれ、それでいて、巨体に反して破壊あとが小さすぎるようにも感じた。
怪物が、動きだす。
ゲンコは嫌な予感がした。
くそ、と、しくじりを認めつつ、アンプルを折って飲む。全身にむしばまれるような熱さが宿りつつある。それは放熱する砲身のような錯覚すらある。ゲンコは咳をこらえて、ふたたび弓を引いた。脳が出血でもしたかのような不快さが走る。
(でもこいつだけは……どうしても!)
自分がやらなければならない。オペレーターから警告が飛んだ。ゲンコは、答えず口のはしから血を流した。唇を噛みすぎただけだ。
「動くなよ……」
かすれた声でうめく。ゲンコの身体の内部を示すように、弓は一層紫電を激しくまき散らした。
(わめくなって!)
反発をおさえこんで、ゲンコは狙いをさだめた。
再び、矢が放たれる。
雷鳴のように、一直線に飛ぶ。巨大な怪物は、なすすべなくそれを受けた。すさまじい爆音。
それこそ雷光のような。
ゲンコは震える手で、もう一本アンプルを取りだした。鼻血が垂れ、うつむいた顔は血だらけになる。ゲンコはアンプルを折って、吐きそうな喉に、強引に通すようになんとか液体を飲み干した。口のはしから垂れた液を、朦朧とした意識のなか、気づけば指でぬぐっていて、拭った指には、血と鼻血とがべったりとつき、赤くそまる。
定まらない視界。
上げると、そこにはまだ巨大な怪物がいる。
これ以上撃つなとは思わなかった。ゲンコは、黙って弓を引いた。弓を引く手は、勝手に力が抜け、意識を手放させようとする。
ゲンコは意識を集中したりはしなかった。集中。そんなことをする必要はない。動作だ。動作は、覚えている。あらゆるところでそれをやっていればいいことを覚えている。
難しいことは何一つない。
焦点が明滅している。構うことはない。
どのみち巨大な相手には、狙いが多少定まらなかろうが、ゲンコは当てることができる。
耳から音がとおざかり、ぬるま湯の中にいるようだった。それでいて、ひどく苦痛を感じる。苦痛は冷たく、熱っぽい痛痒を通りこし、激痛を感じなくさせているどうしようもなさがあった。
オペレーターの声も聞こえない。ゲンコは、鉛のように重たい左脚を落としながら、両膝を立てて矢を放った。
(……)
音はなかった。音が消失したと言っていい。ゲンコはただ地に這いつくばるように手をついた。吹き転がされそうな爆風、轟音が生まれた端でゲンコの耳に到達しない気配。
地に伏せるしか、耐える方法がない。
どん、と、横から身体が突き飛ばされた。
「!」
声もなくゲンコは、アスファルトを転がった。爆風がとだえていない。
そのためだった。耳に咆哮するかのように音が戻ってくる感覚。
「ゴホ! !?」
ゲンコは目だけはそちらに向けていた。何者かがわりこんできて、自分を突き飛ばした。それでいて、突き飛ばした自分自身は屹立し、両手にした刃で、そこにいたゲンコを襲おうとしていた怪物の攻撃を、ふせいでいた。
あっというまに怪物が斬り裂かれた。ゲルトヒーデルは、斬り倒した手でゲンコのほうへ走り寄ってきた。
「オブライアン。聞こえる?」
ゲンコはゲルトヒーデルに聞き返そうとしたが、うまいこと舌が動かなかった。声をしぼり、からまった喉を強引に開く。
「あの怪物は? 大型!」
ゲルトヒーデルはゲンコに手を貸しながら、「大丈夫。沈黙した……」と言った。ゲンコは、意識をうしないかけるのを感じたが、踏みとどまった。
「ありがとう……」
「歩ける? 立てる?」
「大丈夫」
「大型の出現で、こっちの包囲に乱れができたの。怪物が拡散している」
「わかった」
「待って。あなたは休みなさい」
「……」
ゲルトヒーデルはオペレーターとやりとりした。経路を確保するつもりだろう。
ゲンコは情けなく感じながらも、たしかにそうするのが無難ではあると思った。それでいて、あらがいたい衝動もある。
(落ち着いて……万能感に支配されている……狂暴で……むこうみずになっている)
自分自身を制御する。エイブリーを持つのは
、銃を手にするのの延長線上にある。また銃よりも破壊力が高くリスクもないと感じる(実際にはそうでもない)ために、そのために湧き上がる万能感というのは、なお強く、制御するためのセラピーや教育を履修して、受けつづけていなければ使用する人間は狂暴でのぞまれない衝動を実行していまう危険性がある。
ゲンコは追いつめられた体内の状態をまぎらすため、復唱した。
大型の怪物がいたところに、もう怪物の影はない。ゲンコはそれを確認して、オペレーターとやり取りして、確保された経路へ足を進めた。




