三話 虜囚の日々
エリオットが出かけてから、エミーヌは屋敷の書庫に足を運んだ。
そこにはエリオットの蔵書がある。
エミーヌは退屈していた。
メロードにいた頃は一日を兵の調練で過ごし、空いた時間に自分の鍛錬を行っていた。
それがこの生活で適うはずもなく……。
鍛錬こそできるが、それではあまりにも時間が空く。
その鍛錬の内容にも満足できない。
虜囚の身として、本物の武器を手にする事もできぬためその質はよくなかった。
日に日に鍛え上げた身体が弛んでいくようで、彼女はそれも気に入らなかった。
とはいえ、ここで満足の行く鍛錬はできない。
しかし、身体も時間も持て余し、じっと動かずにいる事が苦痛だった。
何かをしていないと落ち着かなかった。
そこで彼女は、書庫で己の知を高めようと思った。
エリオットは知の化け物のような男である。
その名は、メロードにまで広く届いていた。
戦略、計略のみならず、政治にまで深く精通するという話だ。
きっとファラオンの時も、この男の采配があってメロードは敗北したのだろう。
カルースは奇怪な陣形を組み、陣の一番薄い場所の奥にはカルース王のいる本陣があった。
その陣を突き破ろうと一番攻撃力の高いエミーヌの部隊がそこを攻める事になった。
しかし、一番手薄なはずのその陣は堅固で、まったく破れる気配がなかった。
そうして手間取っている内に味方の部隊が撃破され、手の空いた敵部隊から側面を衝かれ、メロード軍は敗退したのだ。
あれはエリオットの策だろう。
メロード軍はこの男一人の頭脳に敗北したのだ。
エミーヌにはそう思えた。
今のメロードでは、この男を打ち破る事ができない。
自分がまたメロードの地を踏めるかはわからないが、それでもいつか来るかもしれないその時のために、エミーヌはエリオットに対抗するための手段を養っておこうと考えた。
しかしエミーヌは勉学という分野において門外漢である。
そもそもあまり字が読めぬ。
ただ、幼少の頃に幼馴染のメロード王から戯れに字を教わったので、農民の出にしては少しばかり字が読める。
軍人として過ごしている内に、戦関連の単語もある程度読めるようになっていた。
戦略書などであれば読めるかもしれない。
そのように考えた。
本を一冊手に取り、紙面へ目を通す。
「……戦……勝は……の……なる者に……ず? 解からんな……」
しかし結局、彼女の知識では本の内容を理解する事ができなかった。
一冊目を読める所だけ読み、それでもわけがわからなかった彼女は、次の本に手を伸ばす。
「始めは処女の……く……? 何で兵法書に女の話が出てくる? もしやこれは、夜の兵法書の類か?」
少し興味はあったが、その本を床に置いた。
また別の本へ手を伸ばす。
解からないなりに彼女は諦めず、本を次々に手を読んでいくがその内容は尽く理解できなかった。
「あーさっぱりわからん」
言いながらも読んだ本を次々に床へ置き、別の本へ手をやっていると彼女の周りには自然と読み散らかした本が放射状に並んでいた。
「おやおや」
そんな様子を見て、楽しげに呟く声があった。
その声に気付いてエミーヌがそちらを見ると、そこには出かけていたはずのエリオットが立っていた。
床に座っていたエミーヌは、驚いて立ち上がる。
そんな彼女の前まで来て、エリオットは声をかける。
「あなたも兵法書を嗜むのですね。エミーヌ将軍」
「い、如何にも」
「それは良いですね。猛将と名高き貴殿が、兵法にも通じているとは存じ上げませんでした」
言いながら、エリオットは一冊の本を開いてある一文をエミーヌに見せる。
「この箇所なのですが、あなたはどうお思いですか?」
「何故そんな事を訊く?」
正直に言えば読めないのだが、それを知られたくなくてエミーヌは誤魔化すように訊ね返した。
「他人の意見を聞いてみたかったのです。それも、戦場で実際に戦う武将の意見には興味があります」
一文には、善い兵士だの善く攻めるだのと書かれている。
「ふ、ふん……。それは、あれだ。強い奴は何やっても勝つという意味ではなかろうか」
なんとなく読める箇所だけで判断して答える。
「そうですか。なるほど」
エリオットは羽扇で口元を覆いながら言う。
その声はどこか楽しげである。
恐らく、その隠された口元は笑っているのだろうな、とエミーヌは直感的に悟った。
「うくく……」
やはり笑っているらしい。
笑みを殺しきれていない。
こいつは私を馬鹿にしているのだ。
「ああ、貴殿の思う通りだ! 私は字が読めない! 貴殿からすれば、学もなく斧を振る事しかできない私などさぞ滑稽な事だろう!」
「いいえ、そんな事は思いません。むしろ、可愛らしいと思いまして」
可愛らしい?
エミーヌはエリオットの言葉に、我が耳を疑った。
戸惑いが顔に出る。
そんな事を言われるのは初めてである。
今まで言われた事のない言葉。
それもそのはずだ。
可愛いなどと言われる素養がこの身にあるはずもない。
エミーヌはこれまでの人生で、その事を強く自覚していた。
高い身長に、筋肉の付いた固い身体。
女らしいふくよかさも、無いとは言わないが主張するほどでもない。
それを可愛いなどと言う者はきっと嘘つきだ。
この男は私をからかっているのだ。
そのはずなんだ。
なのに……。
気持ちがざわざわと落ち着かないのは何故なのだろう?
今まで、エミーヌはこのような事を言われた事がない。
女だてらに武に優れ、だからと言って男から侮られるなどという事はなかった。
むしろ周囲の者からは一目置かれ……。
この一目置かれるというのが曲者だった。
エミーヌがあまりにも強く頼りになるものだから、尊重される事はあってもメロードの男達は彼女を女として見ていなかった。
だから「可愛い」などと口にした者はこの男が初めてで……。
男のあしらいというものを知らないエミーヌは、どのような面持ちをしてよいのかわからなくなった。
「ふ、ふん。嘘を吐くな」
「嘘ではありませんよ。その相貌は女性らしくて、とても可愛らしい」
何だこいつ?
咄嗟にそんな事を思う。
エミーヌの器量は確かに良い方だ。
しかしそれは可憐さではなく、勇猛さに寄ったものである。
女性に求められるべき器量ではなかった。
可愛らしいとは言えぬものだ。
しかし思う事に反してエミーヌの表情は緩みそうになった。
それに逆らい、目を見開いて口をへの字に曲げる。
「どうしました? お顔が面白くなっておりますよ?」
「やかましい!」
エミーヌは自分の不安定な気持ちを悟られまいと、一つ怒鳴って踵を返す。
その足で部屋から出て行こうとする。
「あ、お待ちください」
「何だ?」
呼び止められて言葉を返す。
「私でよろしければ、字をお教えしますが?」
「……」
逡巡の後、エミーヌはエリオットへ向いた。
「お願いする」
兵法を学ぶにも、字を覚える事は絶対必要な事だ。
教えてもらえるなら、教えてもらうべきだろう。
エミーヌはそう思い、エリオットから字を学ぶ事にした。
カルース王が自ら手勢を率い、アルドへ出立した頃。
エリオットは自宅でエミーヌと過ごしていた。
その日は書斎に運びいれた机に着いて、エミーヌはエリオットから字の読み書きを教わっていた。
エリオットの教え方はとても丁寧で、学のないエミーヌでも思ったよりすんなりと文字を学ぶ事ができた。
やはりこのエリオットは頭の良い男である。
エミーヌがどこを難しく思うのか、どのように難しく思っているか。
それをすぐに汲み取って、その解をすぐに与えてくれる。
覚えやすいように、文字に関連したエミーヌにとって興味深い言葉を用いて印象付けた。
この男は、教師としても優秀なようであった。
ただ、一つだけ問題があるとすれば……。
「そこは違いますよ」
エミーヌが文字を書き損じると、彼女の背後からすっと手が伸びる。
彼女のペンを持つ手に、ほっそりとした小さな手が覆いかぶさった。
自分よりも体温の低い手に触れられ、エミーヌはビクリと小さく震えた。
かぶせた手でエミーヌの手を導き、正しい文字を書かせる。
「こうですよ」
さっきまで少し離れた位置より聞こえた彼の声が、彼女の耳元に囁かれる。
彼の吐息が耳をくすぐった。
細く非力な手。
しかし、エミーヌの手よりもそれはごつごつとして固かった。
形は小さくとも、エリオットは男なのだ。
それを実感すると、エミーヌは顔の火照りを覚えた。
あの一件以来、エミーヌはエリオットを変に意識してしまっていた。
可愛らしいなどという言葉が、時折思い出される。
きっと酷く聞き慣れぬ言葉だったために、動揺し過ぎて今も反芻してしまうのに違いない。
あんな言葉は嘘に違いない。
そう思いこそすれ……やはり気になって仕方がない。
「わかった」
答え、肘を後ろに下げて、故意にエリオットの胸を打った。
「う゛っ……」
小さくうめいて、エリオットはエミーヌから離れた。
「これは失礼した」
「いえ、こちらこそ無作法を……」
手を重ねてきたのはどうやら無意識の事らしい。
思わず荒々しい対応に出てしまった事をエミーヌは恥じた。
「あ、そこの文法も違いますよ」
と懲りずにまた声をかける。
「ここは――」
今度は手を重ねてこないが、助言する声と共に吐息が耳をくすぐる事には変わりない。
また、咄嗟に肘を食らわしそうになるが、エリオットに悪気はないのだと言い聞かせてその衝動を押し殺す。
しかしながら、この状況では気が気では無い。
如何にそれがわかりやすい教えであっても、エリオットの言葉が頭に入ってこない。
「これでよろしいか」
精神力で気性を制し、なんとかエリオットの言葉を理解したエミーヌは訊ね返す。
「はい。それで合っていますよ」
「……ありがとう」
「覚えが早いですね」
エリオットにそう褒められた事は素直に嬉しい。
しかし……。
これは身が持たぬ……。
早く字を修めなければ、いつの日か血が沸騰しそうだ。
そう思うと、エミーヌは一層の努力を決心した。
「旦那様」
そんな折、使用人がエリオットを呼びに来た。
「何でしょう?」
「来客です」
「誰ですか?」
「アルマンド様です」
それを聞くと、エリオットは不思議そうな顔をした。
「ふむ……。王と一緒に行ったものだと思っていたのですが……。彼をここに通してください」
「はい」
使用人は書庫から出て行く。
「アルマンド?」
「友人です」
そうこうしている内に、書庫へ一人の男が通された。
彼がアルマンドである。
アルマンドは筋肉質な男だった。
その身体つき、所作から武人であろう事をエミーヌは看破した。
そしてその顔を見ると、エミーヌは表情を険しくした。
アルマンドの表情は終始固い無表情に閉ざされている。
さながら、彼の生真面目な生き様を表すかのような表情だ。
エミーヌはこの男の顔、その表情に見覚えがあった。
対するアルマンドも、エミーヌを見ると顔をわずかに顰めた。
「お前は!」
驚きを見せるエミーヌに、アルマンドは冷たい一瞥をくれるだけだった。
二人は確かに、前に一度出会っていた。
それはファラオンの戦いでの事である。
エミーヌが突撃を仕掛け、突破を許さなかった部隊。
その部隊を指揮していたのがこの男だ。
彼の部隊は兵士個々人の防御技術もさる事ながら、連携も上手く取れていた。
陣は厚く堅固で、回復魔法も使用する。
兵士を幾人斬っても致命傷を与えられず、その都度負傷した兵士は回復して前線に上がってくる。
これほど厄介な部隊もなかった。
アルマンド自身とも刃を交えた。
その際に討ち取れていれば、部隊を破る事もできだだろう。
しかし、アルマンドの力量はエミーヌに及ばないものであるが、防御は硬くそれに徹した彼をついには討ち取る事ができなかった。
メロードの敗北、その一因は間違いなく彼であったと言える。
「彼はアルマンド・ヘルガー。カルースの将です」
エリオットはエミーヌにアルマンドを紹介する。
次いで、アルマンドに言葉をかけた。
「どうしてここに? 王と一緒だと思ったのですが」
「今回は攻める戦い。だから、守りに秀でた俺は必要ないとの事だ」
「ふむ……。攻める戦いでも、あなたは十分に活躍できると思うのですが」
「お前なら俺をそのようにも使えるだろう。盾も剣と化せる。しかしそれは、誰にでもできる事ではない」
「ありがとうございます」
賛辞に対し、エリオットは素直に礼を言った。
「何故来たか、だな。暇ができた故、友の様子を見に来た」
「そうでしたか」
自分を慮ってくれた事に、エリオットは感謝を示す。
「しかし、何故城に来ない?」
「書類仕事は家でもできますので」
最近、毎日付きっ切りで字を教えてくれているが、いつ仕事をしているのだろう?
と、エリオットの言葉を聞いたエミーヌは疑問に思った。
そんな折、アルマンドはエミーヌへ眼差しを向ける。
睨んでいるかのような、強い眼差しだ。
「俘虜とは言え、あまり敵国の将と馴れ合う物ではないぞ」
そして、エリオットに言う。
「元より、こちらにもそのつもりはない」
しかしそれに反論したのはエリオットではなく、エミーヌだった。
アルマンドはそれに対し、エミーヌと机の前にある紙とペンを眺める。
「そのようには見えぬがな」
短く答えると、アルマンドは踵を返した。
「どこへ?」
「お前の様子は見た。帰る」
「お茶でも飲んでいきませんか?」
「馴れ合うつもりはないと言ったはずだ」
「そうですか」
「時折様子を見に来る」
エリオットは苦笑する。
すると、アルマンドはエミーヌに向き直った。
「次の機会があれば負けぬ」
「ぬかすだけなら誰にでもできるぞ」
アルマンドの言葉に、エミーヌは挑発的な言葉で返した。
アルマンドは表情一つ変えずにそれを受け止め、そのまま書庫から出て行った。
「気の良い奴ではありますが、如何せん生真面目過ぎましてね」
エリオットは弁護するようにエミーヌへ取り成した。
「そうか」
そうなのだろう。
様子を見に来ると言ったのは、きっとエミーヌを警戒しての事だ。
友人の無事を確認したいのだろう。
そう思えば、友情に厚い男なのかもしれなかった。




