二話 エミーヌの獄
エミーヌは、鼻腔をくすぐる良い匂いで目を覚ました。
ぼんやりとした眼を幾度か瞬かせると、焦点が次第に合い始める。
「……夢か」
呟くと、勢いをつけて起き上がる。
寝台から降りて、すぐに着替える。
腹が減る。
この匂いのせいだ。
部屋を出る。
そうして向かったリビング。
食卓の上には焼きたてのパンと玉葱のスープが置かれていた。
それを見ていると、部屋の奥から二つの皿を持ったエリオットが現れる。
手の皿には、魚のムニエルが載っていた。
エミーヌを眠りから目覚めさせた匂いの元はこれだろう。
バターと香草の強い匂いがその皿からは漂っていた。
「おはよう。どうぞ」
「うん」
促されるまま、エミーヌは席に着いた。
彼女の着いたテーブルに、ムニエルの皿が置かれる。
エリオットが向かいの席へ着くと、エミーヌは食器を手にした。
一口ムニエルを食べる。
相変わらず美味しい。
期待を裏切らない味だ。
この美味しさに、エミーヌの舌は慣れつつあった。
それを作り出しているのは、目の前の男である。
よくない事だ、とエミーヌはそう思う。
この男、エリオットは敵国の軍師なのだから。
ファラオンの戦いがメロードの敗北に終わり、それから二週間ほどが経った。
その後、カルース王はメロード王へエミーヌの無事とその身を預かる旨と停戦協定の提案をした。
メロード王はそれを受け、メロードとカルースには和平が結ばれた。
エミーヌと共に捕らえられた兵士は皆国へと返された。
そしてエミーヌだけが俘虜として、カルースへ身を置く事になった。
エミーヌは最初、自分は獄に繋がれる事になると思っていた。
しかしその予想は外れ、彼女は今エリオットの客人として彼の屋敷に住んでいる。
エリオットは確かに命を預かると言ったが、まさかこの身まで預かる事になろうとはエミーヌは予想もしていなかった。
そこに不満があろうはずもない。
石作りの冷たい牢獄とは比べるべくもなく、過ごしやすい環境なのだから。
エリオットの家は、二階建ての木造建築である。
屋敷の土地は広くなく、部屋の数も少ない。
少し裕福な平民が住んでいるような、そんな家である。
エリオット。
彼が王に近しい者である事は、ここに住んでいてわかった。
頻繁に王の使者が訪れ、事あるごとに質問をしに来る。
もしくは参内を言い渡されるのだ。
さぞ大きな権力を持っている事だろう。
そのような者が住むにしては、あまりにもこの屋敷は質素だった。
使用人の数も少ない。
外には警備の兵士が数名いるが、それは王がエミーヌを見張るために配した者達である。
エリオットが雇い入れている者は、家の仕事を取り仕切っている少数の小間使いだけだった。
供される食事もそうだ。
贅を尽くしたものは一切出ず、それらの調理は全てエリオットが行なっていた。
エミーヌは密かに、その料理を気に入っている。
彼女は農民の出である。
運よくメロードの王と知り合い、盗賊の討伐などで軍功を重ねて今の地位にある身だ。
だから、貴族の好む高級食材の料理などよりも、こうした料理の方が好みだった。
何より、こんな美味い料理はここに来るまで食べた事がなかった。
しかし喜んで食べる様をエリオットに見せるのが癪なので、彼女はいつも顰め面で料理を食べていた。
食事を終えると、エミーヌはエリオットに声をかけた。
「一つ、訊きたい事がある」
「何ですか?」
「私が逃げないと思っているのか?」
エリオットは、この屋敷内での自由を彼女に約束した。
家の中、それも庭まで自由に行き来していいと言われている。
それは俘虜として、あまりにも過ぎた自由である。
正直に言えば、彼女にはここから逃げ出すだけの自信があった。
たとえ武器を持てなくとも、警備の兵士ぐらいならば素手で絞め殺せるだろう。
「はい。あなたは逃げないでしょう」
エミーヌの問いに、エリオットは言い切った。
その妙な自信が、エミーヌの癪に障る。
「何故、そう思う」
「あなたは勇猛さだけの人間ではありません。いいえ、その勇猛さすらも必要に駆られて身につけた素養でしょう」
「どういう意味だ?」
「あなたは人の事を思いやれる人です。でなければ、ファラオンで仲間のために命を賭けるような事はしなかったでしょう。そして、自分が逃げればまた戦が起こり、多くの命が散る事になるかもしれない。あなたにはそれが解かっている」
確かにその通りだった。
エミーヌが逃げないのは、それを心配しての事だ。
「それに……」
そこまで言って、エリオットは微笑する。
「それに?」
エリオットのもったいぶった態度にエミーヌは少しの苛立ちを覚え、先を促す。
「あなたは、私に恩を感じているはずです。たとえそれが卑劣な手段に利用されたからだとしても、命を救ってもらった事に違いは無い。あなたはそう思っている。私の面目を潰すような事はなさらないでしょう?」
笑顔で問い返されると、エミーヌは不機嫌な表情になる。
無言で席から立つと、リビングから出て行った。
不愉快であった。
しかし同時に、恐ろしさも覚えていた。
エリオットの言葉は正確だ。
事実、エミーヌは彼の言う通りの事を思っていた。
利用されているとわかっていても、確かに自分は彼に救われた。
だから、たとえ逃げられたとしてもその恩に砂をかけるような事は彼女の気質が許さなかった。
エリオットがエミーヌの獄をこの家にしたのも、それを見越しての事に違いない。
この家に、エミーヌを囚えておくための格子はない。
格子は、彼女の心の中にあるのだ。
その日、エリオットは王城へ参内した。
王から、今後の方針について相談したいと打診があったからである。
玉座の間。
玉座に着いたカルース王を前に、エリオットは跪いた。
「早速だが、お前に意見を聞いておきたい」
「はい。なんなりと」
「メロードとの和平がなり、後顧の憂いは絶つ事ができた。これで心置きなく西への侵攻する事が可能となる。それで、まずはどこへ進軍するべきだと思う?」
カルース王には野心があった。
この大陸に存在する諸国を併呑し、天下へ覇を唱えるという野心である。
先のメロード侵攻もまた、その一環であった。
カルースは大陸の東南にあるが、さらにそこから東、大陸の端にはメロードがあった。
カルース王はそこから西部の周辺諸国へ侵攻を開始するにあたり、メロードの侵攻を危惧したためメロードを先に平定してしまおうと考えたのである。
それが彼の予期せぬ形ではないにしても、メロードの問題は解決した。
あとは、西部への侵攻を開始するだけである。
その足がかりとなる最初の侵攻をどこにするか、エリオットの意見を聞いたのである。
「カルースの西には、北から南へ数えてアルド、メニエ、ケレニアの三つの国が隣接しております。私はその内、一番北方に位置するアルドへの侵攻を推します」
「何故だ?」
「メニエとケレニアの背後には、大国ヴィブルが控えているからです。どちらかの国を併呑した場合、ヴィブルとの戦いを意識しなければなりません」
「なるほど。カルースの兵が如何に精強とはいえ、ヴィブルにはまだ敵わぬか……」
ヴィブルは大陸の四割に及ぶ国土を持った国である。
それらを維持する食料や人材、あらゆる分野の層はカルースと比べるべくもない厚さである。
「では、アルド平定の後、他の二国を攻めるのが良いという事だな?」
「いいえ、違います」
カルース王の問いに、エリオットは笑顔で答えた。
「何だと?」
「アルド平定はお勧めしますが、メニエとケレニアは放置して構わないでしょう」
「どういう事だ?」
エリオットは羽扇を緩やかに扇がせると説明する。
「今、メニエとケレニアはヴィブルからの侵攻を受けており、防衛に手一杯です」
「何? 初耳だぞ」
「確かな情報です」
事も無げに言うが、エリオットはその出所を語ろうとしなかった。
あえて隠しているのだろう。
王に対してそれは無礼な事であるが、こういう事はままあった。
その無礼を許してしまえるほどにこの男は有能であり、もたらす情報は確かなものだった。
だからカルース王はこれ以上の追及をしない事にした。
「だがそれが確かだとして、ではむしろそこを衝けば容易く落とせるのではないか?」
「確かに、そうでしょう。しかし、そのような事をすればヴィブルの手柄を横取りする形になり、不要な怒りを買う事となります」
「だが、ヴィブルがメニエとケレニアを落とそうとしているという事は、ヴィブルが東方の平定を画策しているという事だ。怒りを買おうが買うまいが、いずれその手はこのカルースにも伸びよう」
「はい。それは確かです。ですが、メニエとケレニアを放置しておけば、それまでの期間は大きく伸ばせるでしょう」
エリオットの言葉に、カルースはその意図を察した。
「メニエとケレニアを防壁とし、時間を稼ぐ気か」
エリオットは肯定の意味を込めて微笑んだ。
「少なくともアルドを平定し、軍備を整えるだけの猶予はあるでしょう」
「納得した。そこまで見越しているとは、相変わらず恐ろしい男だな。お前は」
「ありがとうございます」
「では、軍備を整え次第出陣するとしよう。その指揮を執るのはお前だ、エリオット」
「お断りいたします」
エリオットは晴れ渡るような笑顔で答えた。
「何……だと……?」
流石に、エリオットも今まで王の言葉をここまで無下にした事はなかった。
なので、カルース王は強く驚いた。
「何故だ?」
「アルドはメニエと同盟関係にあり、戦においてはメニエの戦力を当てにしていました。ですが、今はメニエにも余裕がないためたいした労力もなく平定できるかと。私が出る必要は感じません。その間、私は他にやりたい事がございますので」
「そうか、わかったぞ。ヴィブル戦を見越した計略を考えておるのだな?」
「え……あ、はい。その通りです。よくわかりましたね」
ふふふ、とエリオットは口元を隠しながら笑った。
「おい、何だその取ってつけたような言い方は! 何か嘘臭いぞ!」
「ただの冗談です。戯れですよ、ははは」
カルース王は不安を覚えたが、他ならぬエリオットの言う事。
この男が国の大事を疎かにする事はないと思い直し、それを自分に言い聞かせる事にした。




