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『同じ家族、違うレンズ』

カサブランカの甘い香りが、夜の静けさに溶け込んでいた。


修一は飲み終えたビールの空き缶を流し台に置き、折りたたみテーブルの前に戻った。


ふと、スマートフォンの画面に目を落とす。


三人の子どもたちと作った家族のグループに、長女から写真が送られてきていた。


『お父さん、これ覚えてる? 実家の片付けしてたら出てきた!』


画面に映っていたのは、古いアルバムを開いた写真だった。


七五三の晴れ着を着た長女。まだ幼かった次男と三男。庭先で肩を寄せ合い、満面の笑みを浮かべている。


「……懐かしいなあ」


修一は目を細めた。


そういえば、あの頃はカメラに凝っていた。


仕事の付き合いで一眼レフを買ったのが始まりだった。ボーナスが出るたびにレンズを買い足し、休日には重たいカメラバッグを肩に掛けて、家族を連れ出した。


運動会には望遠レンズ。


旅行には広角レンズ。


遠くの山並みも、青い海も、子どもたちの走る姿も、逃すまいと必死だった。


「……あれ?」


指を滑らせて写真を拡大した修一は、眉を寄せた。


アルバムの隅に、もう一枚、小さな写真が貼られていた。


台所に立つ自分の後ろ姿だった。


若い修一が、慣れない手つきで包丁を握っている。その横から、五歳ほどの長女が背伸びをして覗き込んでいた。


修一は思わず笑った。


「なんだ、これ。俺、料理なんかしてたのか?」


記憶を探る。


確か、智恵子が風邪を引いた日だったか。


自分が夕飯を作ると張り切ったものの、結局、野菜炒めを焦がしてしまった。


『お父さん、真っ黒!』


『うるさい、食える!』


『お父さん、火事になっちゃうよ!』


そんな騒ぎがあったような気がする。


写真の中の長女は、口を大きく開けて笑っていた。


その笑顔の向こうに、台所の窓から差し込む柔らかな午後の日差しが写っている。


「……誰が撮ったんだ、これ」


答えは分かっていた。


智恵子だ。


修一はしばらく画面を見つめ、それから立ち上がった。


部屋の隅に置いていた段ボール箱を開ける。


引っ越しの際、書斎から持ち出した古いカメラバッグがあった。


革の取っ手はすっかり擦り切れ、ファスナーの金具には緑青が浮いている。


「おお……まだあったか」


取り出したのは、昔使っていた一眼レフだった。


ずしりとした重みが手に馴染む。


望遠レンズ。


広角レンズ。


そして、バッグの底に、見覚えのある小さなレンズケースが転がっていた。


「……マクロ?」


修一は首を傾げた。


ケースを開くと、小ぶりなマクロレンズが収まっていた。


智恵子のものだった。


そうだ。


あいつは、いつもこれを使っていた。


     *


『お父さん、ちょっと待って!』


遠い夏の日。


まだ小学生だった長女が、河原の向こうで手を振っていた。


『おう! そこで止まれ! いい写真を撮ってやる!』


修一は望遠レンズを覗き込み、川面を背にした娘へピントを合わせた。


青空。


白い雲。


遠くの山。


そのすべてを一枚に収めたかった。


『お父さーん! まだー?』


『動くなって! 今、構図を決めてるんだ!』


ようやくシャッターを切った時、娘の笑顔は少し引きつっていた。


その横で、智恵子がしゃがみ込んでいた。


『おい、智恵子! そんなところで何してるんだ! こっちに来いよ!』


『ちょっと待ってね』


『何を撮ってるんだ?』


『この子の手』


『手?』


修一は呆れて笑った。


『せっかくこんな景色のいいところまで来たのに、手なんか撮ってどうするんだよ』


『だって、見て』


智恵子は娘の小さな手をそっと持ち上げた。


指先に、丸い水滴がひとつ乗っていた。


『川で遊んで、こんなに小さな手が真っ赤になってるのよ』


『そんなの、いつものことじゃないか』


『そうね。でも、来年はもう少し大きくなってるでしょう?』


『そりゃ、子どもなんだから当たり前だろ』


『だから、今のうちに撮っておきたいの』


智恵子はそう言って、娘の指先へレンズを向けた。


カシャリ。


小さなシャッター音がした。


『お母さん、変なの!』


『ふふ、そうね。変なお母さんね』


母と娘が笑い合う。


修一はその様子を横目に、再び遠くの山へカメラを向けた。


『智恵子、あっちの吊り橋を背景に撮ろう! いい記念になるぞ!』


『はあい』


智恵子は立ち上がった。


その時、何か言いかけたような気がする。


だが、修一はもうファインダーを覗いていた。


     *


「……そうだったな」


六十歳の修一は、古いマクロレンズを手のひらで転がした。


智恵子はいつも、小さなものを撮っていた。


子どもの手。


頬についたご飯粒。


長女が初めて自分で結んだ、曲がったリボン。


次男の膝小僧に貼られた絆創膏。


三男が握りしめて眠った、すり切れたぬいぐるみの耳。


庭の片隅に咲いた小さな花。


雨上がりの蜘蛛の巣。


台所の窓に結んだ水滴。


修一は、そんな写真を見せられるたびに笑っていた。


『お前の写真は、何が何だか分からんなあ』


『そう?』


『もっと引いて撮らなきゃ。背景が入らないと、いつどこで撮った写真か分からないだろう』


『……そうね』


『ほら、俺の写真を見てみろ。旅行先も分かるし、子どもたちがどこで何をしていたかも一目瞭然だ』


『うん。お父さんの写真、きれいね』


智恵子はいつも、そう言って笑っていた。


あの笑顔。


修一は眉を寄せた。


「……本当に、そう思ってたのか?」


返事をする者はいない。


カサブランカの白い花びらが、蛍光灯の下で静かに光っている。


「俺は……何を撮ってたんだろうな」


ぽつりと呟いた。


運動会では、ゴールテープを切る瞬間を狙った。


発表会では、舞台の中央に立つ子どもを撮った。


旅行先では、名所旧跡を背景に家族を並ばせた。


立派な写真を撮ろうとした。


きれいな写真を撮ろうとした。


誰に見せても恥ずかしくない、素晴らしい家族の記録を残そうとした。


だが。


『お父さん、まだー?』


あの時、娘は何度そう言っただろう。


『もう疲れたよ』


『あと一枚! せっかく来たんだから!』


『お腹すいたあ』


『もうちょっと待て!』


修一は両手で顔を覆った。


「……馬鹿だなあ、俺は」


思わず笑いが漏れた。


乾いた、情けない笑いだった。


「写真を撮るのに夢中で……子どもたちが腹を空かせてることにも気づかなかったのか」


そして、智恵子は。


自分が望遠レンズで遠くを見ている間、すぐそばの小さな世界を見つめていた。


いや。


それだけではない。


修一は、ふと首を振った。


「……違うな」


智恵子のマクロレンズにだって、写らなかったものはある。


会社で頭を下げ続けた自分の姿。


深夜の駅のホームで、くたくたになって缶コーヒーを飲んでいた時間。


家族の寝顔を見るためだけに、終電から走って帰った夜。


智恵子は、それを知らない。


知らなくて当然だ。


自分が話さなかったのだから。


「……お互いさまだったのかな」


修一はマクロレンズをテーブルに置いた。


「いや、お互いさまって言ったら、また逃げになるか」


誰もいない部屋で、苦笑する。


「俺が知らなかったことは、俺が知らなかったことだ。あいつが知らなかったこととは、別の話だよな」


缶ビールをもう一本取ろうとして、手を止めた。


代わりに湯を沸かす。


安物の電気ケトルが、コトコトと小さく音を立て始めた。


湯気が上がる。


その白い揺らぎを見つめていると、修一は急に、智恵子の声が聞きたくなった。


スマートフォンを手に取る。


連絡先の一番上。


『智恵子』


指先が止まった。


「……いや、待て」


今、電話をかけてどうする。


『俺、分かったんだよ。お前の気持ちが』


そんなことを言ったら、きっと智恵子は困るだろう。


何を分かったというのか。


たった一晩、昔の写真を思い出したくらいで。


「……また、勝手に決めるところだった」


修一はスマートフォンを伏せた。


その代わり、長女に短いメッセージを送った。


『さっきのアルバム、今度見せてくれないか。母さんが撮った写真も見たい』


しばらくすると、すぐに返事が来た。


『いいよ! ていうか、お父さん、珍しいね』


『そうか?』


『うん。昔はお母さんの写真、地味だって言ってたじゃん(笑)』


「……覚えてるのか、そんなことまで」


修一は苦笑した。


続けて、もう一通。


『でもね、私、お母さんの写真大好きだったよ』


修一の指が止まる。


『なんでだ?』


『だって、あの写真見ると、その時のこと思い出すんだもん』


『その時のこと?』


『うん。お父さんの写真は、どこに行ったか分かるの。お母さんの写真は、その時どんな気持ちだったか思い出すの』


修一は画面をじっと見つめた。


次のメッセージが届く。


『どっちも好きだけどね! お父さんの撮った富士山の写真、今でも飾ってるし!』


「……そうか」


修一の喉が、小さく鳴った。


「どっちも……好きか」


胸の奥で、何かがほどけた気がした。


自分の写真が間違っていたわけではない。


智恵子の写真だけが正しかったわけでもない。


ただ、見ていたものが違った。


同じ場所に立っていても、同じものを見ているとは限らない。


そして、同じものを見ていなかったからといって、どちらかの人生が無駄になるわけでもない。


「……レンズを交換すればよかったんだな」


修一は小さく呟いた。


いや、それも少し違う。


交換したところで、同じ写真が撮れるとは限らない。


智恵子には智恵子の見つける世界があり、自分には自分の見つける世界がある。


ただ、時々。


『何を撮ってるんだ?』


そう尋ねればよかったのだ。


そして、答えを聞けばよかった。


自分の写真を見せるばかりでなく、妻の写真を、もっとゆっくり眺めればよかった。


「……簡単なことだったんだなあ」


修一は笑った。


けれど、笑いながら、目の奥がじんわりと熱くなった。


「簡単なことが……三十年以上、できなかったんだなあ」


電気ケトルが、カチリと音を立てて止まった。


修一はマグカップに湯を注ぎ、ティーバッグを沈めた。


茶色い色が、ゆっくりと湯の中に広がっていく。


その様子を眺めながら、もう一度スマートフォンを手に取った。


『なあ、今度、お父さんが撮った写真と、お母さんが撮った写真、並べて見てみないか』


送信。


すぐに既読がついた。


『いいね! 写真鑑賞会しようよ。お父さんの新しい部屋で!』


修一は思わず声を上げて笑った。


「おいおい、まだ椅子も一脚しかないぞ」


続けて届いたメッセージには、笑顔の絵文字が三つ並んでいた。


『じゃあ、椅子持ってくね!』


「……そうか。椅子、持ってきてくれるか」


修一はマグカップを両手で包んだ。


温かかった。


ふと、テーブルの中央に飾ったカサブランカへ目を向ける。


真っ白な花びら。


反り返った縁。


橙色の花粉をつけた雄しべ。


肉厚な花弁の表面に、細かな筋が幾重にも走っている。


遠くから眺めれば、ただ華やかな一輪の花。


けれど、近くで見れば、こんなにも複雑な形をしていた。


「……お前も、近くで見ると面白いな」


修一はそっと笑った。


古いマクロレンズを手に取る。


明日、カメラ屋に持っていってみよう。


まだ使えるだろうか。


修理が必要なら、直してもらおう。


今度は、遠くの山でも、立派な建物でもない。


この小さな部屋の窓辺に差し込む朝日を撮ってみたい。


湯飲みの縁に残った水滴でもいい。


ラーメンの湯気でもいい。


花びらの小さな傷でもいい。


そして、もしもいつか智恵子がこの部屋を訪ねてきたら。


『なあ、智恵子。これ、どう撮ったらいいと思う?』


そう聞いてみよう。


教えてくれるかどうかは、分からない。


笑ってくれるかどうかも、分からない。


それでもいい。


もう、自分の望む答えを妻に求めるのはやめよう。


修一はマクロレンズをケースに戻し、テーブルの端にそっと置いた。


窓の外では、風に吹かれた落ち葉が、アスファルトの上をカラカラと転がっていた。


修一はその音に耳を澄ませた。


「……なあ、親父」


遠い記憶の中の父親に、静かに話しかける。


「俺はずっと、親父のようにはなるまいと思って生きてきたよ」


カサブランカが、かすかに揺れた。


「でもな。親父が俺に漢和辞典を引かせてくれたこと、今でも覚えてるんだ」


小さな手に重ねられた、大きな父親の手。


古い紙の匂い。


窓から差し込んだ夕陽。


『言葉を知るってことはな、自分の心を広くするってことなんだぞ』


「……俺は、ずいぶん長いこと、狭いところにいたんだな」


修一は目を閉じた。


父親を否定するために働いてきた。


家族を幸せにするために働いてきた。


その二つを、同じことだと思い込んでいた。


けれど、父親のすべてが間違いだったわけでも、自分のすべてが正しかったわけでもない。


まして、智恵子の幸せを、自分が決めていいはずもなかった。


「……まだまだ、勉強だな」


六十歳。


人生の残りが何年あるのか、誰にも分からない。


それでも、明日の朝はやってくる。


修一はマグカップを持ち上げ、少し冷めた紅茶をすすった。


窓辺のカサブランカが、白い花びらを大きく広げていた。


その花を、修一は今度こそ、急がず、ゆっくりと眺めた。





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― 新着の感想 ―
大きな展開はないけど、いい雰囲気ですね。 智恵子とは別れた訳じゃないんですよね。 続きが楽しみです
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