『都忘れの亡霊と、カサブランカ』
カサブランカの濃厚な甘い香りが、四畳半の板の間に満ちていた。
小さな鍋を洗い終え、水切り籠に伏せると、キッチンのステンレスに蛍光灯の白い光が冷たく反射する。
修一は折りたたみテーブルの前にあぐらをかき、缶ビールを一本、プシュリと開けた。
炭酸の弾ける乾いた音が、がらんとした八畳間に吸い込まれていく。
テーブルの中央で、純白の花びらを反り返らせて咲くカサブランカ。
堂々として、気高く、華やかだ。
だが――修一の脳裏にこびりついて離れないのは、妻があの日、涙を滲ませて指さした、土の下の小さな影だった。
『……ここにはね、春になったら、私が植えた都忘れが咲くはずだったの』
「都忘れ、か……」
苦い泡を喉に流し込みながら、修一は低く唸るように呟いた。
胸の奥底に澱のように沈んでいた記憶の蓋が、軋んだ音を立てて開き始める。
「なんで……なんで、よりによってその花なんだよ……」
押し殺した声が、夜の静寂に漏れた。
修一の父は、家にお金をほとんど入れない男だった。
何を生業にしていたのか、子どもの頃の修一にはよく分からなかった。本ばかりを読み、世間を斜めに見つめ、たまに小銭が入れば友人と酒を飲んで使い果たしてしまう。
代わりに家計を支えていたのは、母だった。
朝は早くから内職をし、昼は近所の食堂で皿を洗い、夕方にはスーパーのレジに立つ。骨ばった節くれ立った手で、働き詰めに働いていた。
幼心に、修一は誓ったのだ。
――絶対に、親父みたいにはならない。
――俺がちゃんと勉強して、いい大学に入って、一流企業に入って、母さんに楽をさせてやるんだ。
――金の心配なんかない、盤石で、温かくて、安定した家庭を俺が作ってみせるんだ。
その一心で走り続けてきた。
高度経済成長の波に乗り、企業戦士として夜遅くまで身を粉にして働いた。給料袋をそのまま妻に渡し、ボーナスが出れば感謝の言葉を添えた。
俺は親父とは違う。家族を養い、守り、家にお金を運んでいる。立派な父親をやっているはずだ――そう信じて疑わなかった。
「だけどさ……親父、お前、ずるいよな」
修一はビールの缶を握りしめ、虚空を睨みつけた。
思い出すのは、古びた茶の間で、父が自分の小さな手を握り、分厚い漢和辞典を引かせてくれた温もりだ。
『修一、この偏はな、木が伸びようとする姿から来てるんだ。言葉を知るってことはな、自分の心を広くするってことなんだぞ』
煙草の煙をくゆらせながら、穏やかに笑っていた父。
金は入れなかった。世間的にはろくでなしの落伍者だった。
だが、父はいつも家にいて、子どもたちの声に耳を傾け、他愛のない話で笑い合っていた。
その父が、五十を過ぎた頃に倒れた。
脊髄小脳変性症。
身体の自由が少しずつ奪われ、ろれつが回らなくなり、最後は寝たきりになった。
入院を勧める親戚の声を遮り、母は自宅での介護を選んだ。
痩せ細っていく父の身体を抱き起こし、オムツを替え、流動食を口へ運び、夜中に何度も起きて痰を吸引する。
修一が仕事にかまけて見舞いにもろくに戻らない間、母は十年間、その壮絶な介護をたった一人で背負いきったのだ。
そして――父が息を引き取った、通夜の翌朝のことだった。
台所で冷えた緑茶をすすりながら、母がぽつりと零した一言を、修一は生涯忘れることができない。
『……ねえ、修一』
母の顔は、燃え尽きた灰のように白く、抜け殻のようだった。
『もしもね、人生がもう一度あるなら……私、お父さんみたいな人とは絶対に一緒にならないわ』
寂しげに、乾いた笑みを浮かべて呟いた母の横顔。
激しい怒りでも、恨み言でもなかった。だからこそ、その言葉は深く、冷たく、修一の魂に突き刺さった。
その母が、庭の片隅で何よりも大切に慈しんでいたのが――淡い紫色の「都忘れ」だったのだ。
実家の裏庭、日陰の湿った土の上で、ひっそりと咲いていたあの花。
別に母の形見として智恵子に受け継がれたわけじゃない。妻がどこかでもらってきた、ただの一株の苗に過ぎない。
なのに。
どうして妻までが、あの花を愛おしそうに待っていたのか。
「叫びたくもなるさ……ふざけるな、ってな」
ぐっと缶を傾け、喉を鳴らす。
空になった缶が、指の力でペコリと凹んだ。
「俺は親父の真逆を生きてきたんだぞ。金を稼いで、家を建てて、何不自由ない暮らしをさせて……それなのに、なんで智恵子まで『息が詰まる』なんて顔をして、都忘れの芽を大事そうに待ってるんだよ」
人生なんて、思い込みの連続だ。
親父のようにはならないと決めた自分の人生も。
金を入れ、安定した生活を与えさえすれば家族は幸せなのだと疑わなかったあの傲慢さも。
すべては、傷ついた少年だった自分が勝手に作り上げた、脆い思い込みの城だったのだ。
「鏡の法則、か……」
修一は自嘲気味に息を吐き出した。
自分がどれほど親父を否定しようとしても、心の奥底で親父を許せていなかったからこそ、同じように妻との間に歪な摩擦を生み出してしまったのではないか。
いや――そんな高尚な心理学ですらないのかもしれない。
「結局は……家庭の中の、椅子取りゲームだったんだな」
昔は、親父がずっとあの狭い茶の間の真ん中の椅子に座り続け、母の居場所を奪っていた。
そして今度は、定年を迎えて家庭に舞い戻ってきた俺が、三十年間かけて妻が築き上げた居場所の椅子を、力任せに奪い取ろうとした。
良かれと思って庭を花で埋め尽くし、良かれと思って台所に立ち入り、妻の座るべき椅子をすべて自分の荷物で占領してしまったのだ。
「悪かったよ……親父。母さん。……智恵子」
誰に向けてともつかない詫びの言葉が、唇をついて出た。
六十歳。定年退職という大きな区切りを迎えて、俺はやっと、あの不器用だった父母と、そして自分自身と、本当の意味で折り合いをつけなきゃいけない季節に来たのだ。
ふと顔を上げると、カサブランカの純白の花びらが、蛍光灯の下で静かに揺れていた。
その凛とした佇まいは、誰の椅子も奪わず、誰の顔色も窺わず、ただ自分の命の重みだけでそこに咲いているように見えた。
「……よし」
修一は立ち上がり、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して一口飲んだ。
胸の奥の澱が、少しだけ澄んできたような気がした。
「焦ることはないさ。俺の椅子は、ここに新しく作ればいいんだからな」
明日になったら、ホームセンターで小さなフライパンと、一人用の土鍋を買ってこよう。
たまには実家の墓参りにでも行って、親父の好きだった安酒でも供えてくるか。
そして、いつの日か――智恵子の庭の片隅で、あの小さな都忘れが静かに花を咲かせた頃に。
「元気配分はどうだい」と、笑って声をかけられる自分になっていればいい。
夜風がアパートの窓を叩いていたが、部屋の中にはもう、寒々とした孤独はなかった。
カサブランカの清々しい芳香が、深く息を吸い込んだ修一の肺を満たしていった。




