『コロコロ落ち葉の隠れ家』
不動産屋の引き戸を閉めた時、十月の末の乾いた風が、修一の薄くなった頭髪をくすぐった。
手渡された真新しい銀色の鍵を、ポケットの中でぎゅっと握りしめる。
金属の冷たい角が手のひらに食い込み、痛いほどの実感を運んできた。
自宅から徒歩十五分。妻の生活圏とぎりぎり重ならない、古い住宅街の路地裏に建つ木造アパートの百二号室。
一階の角部屋。八畳のフローリングに、四畳半ほどの板張りの台所がついている。築三十年は下らないが、前の住人が綺麗に使っていたのか、柱の傷もどこか温かみを感じさせた。トイレと風呂が別々なのが、男の一人暮らしには贅沢なほどだった。
「……しょうがないよな」
ぽつりと呟いた声が、何もない空っぽの部屋に小さく反響した。
四十年近く連れ添った夫婦の結末が、この「別居」ともつかない距離感なのかと思うと、胸の奥がきりきりと痛む。
妻が嫌がっているのは、目に見えて分かっていた。
定年退職した夫が、朝から晩までリビングに居座り、良かれと思って台所に立ち、調味料の位置を変え、フライパンの焦げ付きを気にして眉をひそめる――そんな日常を、智恵子は望んでいなかったのだ。
俺が料理を習って「男のこだわり料理」とやらを披露したところで、妻にとっては自分の聖域を占拠される恐怖でしかない。
その程度の、寂しい夫婦だったのだ。
認めざるを得なかった。三十数年のあいだ、会社という戦場に逃げ込み、家庭の機微をすべて妻に丸投げしてきたツケが、定年という節目に一気に回ってきただけのこと。
だが、途方に暮れて膝を抱えていても、残された時間は減る一方だ。
通帳を開けば、二億円を超える数字が静かに眠っている。金の心配はない。
相手を変えることはできない。他人の心は、たとえ妻であっても思い通りにはならないのだ。
ならば――俺は、俺の老後を楽しむしかないじゃないか。
「よし」
修一は膝を叩いて立ち上がった。
ここなら、庭にどんな花を植えても、誰にも悲しそうな顔をされることはない。
都忘れの芽を踏み潰してしまう恐怖に怯えることも、妻の強張った笑顔に胸を痛めることもないのだ。
手始めに、駅前の家電量販店へ向かった。
広いフロアを歩き回り、単身用の白い冷蔵庫、ターンテーブル式の簡素な電子レンジ、三合炊きの炊飯器、そして魚焼きグリルのついた二口のガス台を選んだ。
最新式の多機能な高級家電には目もくれなかった。使いこなす自信がないし、何より、自分の手足となってくれる質素な道具たちに愛着が湧いた。
配送を頼むと、夕方にはすべての家電が四畳半の台所に収まった。
スーパーの袋をぶら下げて部屋に戻る頃には、外はすっかり藍色の夜に包まれていた。
真新しいガス台の青い炎をひねる。
ボッと心地よい音を立てて火が灯った。
今夜、この隠れ家で最初に作る記念すべき料理。
それは、特売のワゴンで見つけた、五袋三百九十八円の醤油ラーメンだった。
アルミの小さな雪平鍋に湯を沸かす。
スーパーで買ってきた野菜を、まな板の上に並べた。
包丁を握る手はぎこちなく、人参の千切りは太さがバラバラで、まるで拍子木薪のようだ。それでも、ニラをざくざくと切り、長ネギを斜めに刻み、もやしを一掴み、ピーマンを細切りにして鍋へ放り込む。
沸き立つ湯気の中で、野菜の青い香りがパッと立ち上った。
乾麺を放り込み、箸で慎重にほぐす。
スープの粉末を溶かし入れると、食欲をそそる醤油と香味油の匂いが、何もない部屋いっぱいに満ちていった。
仕上げに、真ん中へ生卵をひとつ、そっと落とす。
透き通る白身が、熱いスープに触れてみるみるうちに白いレースのように固まり、鮮やかな黄身を包み込んでいく。
「よし、できた」
鍋敷きを置いた小さな折りたたみテーブルへ、鍋ごと運んだ。
お気に入りの陶器の器なんてまだない。だが、ぐつぐつと音を立てる鍋から直接すするラーメンは、男の一人暮らしの特権のように思えた。
割り箸を割り、ふうふうと息を吹きかけて麺をすする。
「……熱っ。でも、美味い」
シャキシャキとしたもやしと、少し煮崩れた人参。ニラの強い風味が鼻を抜ける。
半熟になった黄身を箸の先で崩し、麺に絡めて口へ運んだ。まろやかなコクが舌の上に広がる。
「うん……まんざらでもないぞ」
修一の口元から、自然と笑みがこぼれた。
嬉しかった。
自分で選び、自分で買い、自分で火加減を見て作った、たった一杯のラーメン。
妻の顔色を窺うこともなく、「美味しいね」と無理に同意を求めることもなく、ただ自分の舌と胃袋を満たすためだけの食事。
ここが、俺の隠れ家だ。
俺が、これからの命を、自分の足で楽しむための場所なのだ。
濡れ落ち葉で何が悪い、と修一は思った。
払っても払っても靴の裏にくっついて離れない、重たくて鬱陶しい濡れ落ち葉。
妻にとっての自分がそうだったのだとしたら、もう足元にしがみつくのはやめだ。
風が吹けば、乾いた落ち葉になって、カラカラ、コロコロと軽やかに転がっていけばいい。
吹き溜まりに留まるもよし、見知らぬ街角へ飛んでいくもよし。
今ある命の残りを、自分の風に乗って楽しめばいいのだ。
ふと、部屋の隅に目をやった。
スーパーの帰り道、花屋の店先で見かけて、衝動的に買い求めたものがあった。
新聞紙の包みをほどく。
現れたのは、真っ白な大輪のカサブランカだった。
花屋の店主が「見事な咲きっぷりですよ」と太鼓判を押してくれた、肉厚な花弁を持つ一本の花。
百円均一で買った透明なガラスの瓶に水を張り、テーブルの中央にそのカサブランカを挿した。
純白の花びらが、外灯の明かりを吸い込んで静かに発光しているように見える。
部屋の中に、甘く、凛とした、濃厚な芳香がふわりと広がっていった。
庭一面を埋め尽くしたビオラやストックのような、押しつけがましい賑やかさはない。
ただ一輪、自分のためだけに咲いている花。
「いつか……」
修一はカサブランカの白い花びらをそっと見つめながら、独りごちた。
「いつか、子どもたちや孫を呼んで、ここでたこ焼きパーティーでもやるか。ホットプレートを真ん中に置いてさ。お好み焼きもいいな。……あいつ、智恵子も、気が向いたら呼んでやればいい」
たまに集まって、美味いものを食って、笑って、それぞれの家に帰っていく。
そんな距離感のほうが、ずっと健やかで、ずっと温かいのかもしれない。
鍋の底に残ったスープを最後の一滴まで飲み干すと、身体の芯からぽかぽかと温まっていた。
窓の外では、秋の夜風がアパートの雨戸をカタカタと揺らしている。
冷たい風の音を聞きながら、修一は深呼吸をした。
胸いっぱいに満ちたカサブランカの香りが、新しい人生の始まりを告げるように、どこまでも清々しかった。




