濡れ落ち葉
秋の陽射しが、磨き上げられたリビングの床に細長い四角を描いていた。
時計の針が午後二時を指している。
カチ、コチ、と規則正しい音だけが、広すぎる室内に響き渡る。
定年退職を迎えてから、ちょうど三週間が過ぎていた。
滝沢修一は、ソファの端に浅く腰掛け、膝の上に置いたスマートフォンの画面を指先で弾いた。
暗号資産取引所のアプリ。そこに並ぶ数字の桁を、何度数え直したか分からない。
十二年前、同期の男に頼み込まれ、義理と付き合いで投じた百万円のビットコイン。当時は電子屑になっても惜しくはないと割り切っていたそれが、いまや二億円を優に超える資産へと化けていた。
退職金と合わせれば、贅沢を極めない限り、夫婦ふたりが天寿を全うするまで何ひとつ不自由はない。
妻の智恵子には、まだ打ち明けていなかった。ここ一番の記念日、たとえば金婚式か何かの折に、とびきりのサプライズとして打ち明けようと胸の奥にしまい込んである。
金の心配は何もないのだ。
修一は、満ち足りた吐息をそっと漏らした。
――今日からは、ずっと一緒だ。
がむしゃらに働いた三十数年だった。高度経済成長の名残を引きずり、終電帰りは当たり前、週末もゴルフと接待に追われた「企業戦士」。家庭のことは智恵子に丸投げだった。
だが、それも終わった。
これからは、死がふたりを分かつまで、泣いたり笑ったり、美味いものを食べ歩いたり、時には些細なことで喧嘩でもしながら、手を取り合って生きていくのだ。
思い描くだけで、ふっと口角が自然に上がった。
「……智恵子」
声をかけると、台所でふきんを絞っていた智恵子の背中が、わずかに強張った。
振り向いた妻の顔には、どこか作り物の気配を帯びた、薄い笑みが貼りついている。
「なぁに、お父さん」
「いや……何でもない。お茶でも淹れようかと思ってな」
「いいえ、私が淹れますから。座っていてくださいな」
「いや、俺がやるよ。俺の時間なんて、腐るほどあるんだから」
修一が立ち上がり、台所へ足を踏み入れる。
その瞬間、智恵子の身体が目に見えて小さく後退りしたのを、修一は見逃さなかった。
流し台の前に並んで立つと、シンクの狭さが際立つ。智恵子の手が、急須の上でぎこちなく止まっていた。
「……お父さん。そこ、冷蔵庫のドアが開かないの」
「あ、ああ、すまない」
一歩下がると、今度はゴミ箱に踵が当たった。
退職初日の夜、独立した三人の子どもたちが集まり、花束と上等なブランデーを贈ってくれた。あの賑やかな祝宴の席で、長女が「お母さん、これからはお父さんとずっとラブラブね」とおどけた時、智恵子は確かに照れたように笑っていたはずだった。
一日目。修一が朝起きると、智恵子はすでに朝食の片付けを終えていた。
二日目。リビングで新聞を広げる修一の周囲を、智恵子は音を立てないように気を遣いながら掃除機をかけていた。
三日目。昼食に何が食べたいか尋ねられ、「何でもいいよ」と答えたら、智恵子の眉間にかすかな陰が差した。
一週間が経つ頃には、会話の端々に、ひやりとした隙間風が吹き抜けるようになっていた。
まるで、智恵子が何十年もかけて築き上げてきた完璧な城の中に、異物である自分が土足で居座っているかのようだった。
(何かを……一緒にしなきゃならん)
修一の胸に、焦燥がじわりと滲んだ。
会社の部下なら指示を出せば動いた。だが、目の前の妻に、自分は何と言葉をかければいいのか分からない。
翌朝、六時。
修一はジャージに着替え、靴紐を結び直した。
リビングへ降りていくと、智恵子が湯飲みを手に、朝のニュースをぼんやりと眺めていた。
「智恵子」
「……はい? もう起きたの?」
「あのな、公園でやってるラジオ体操に行こうと思うんだ。……一緒に、行かないか」
智恵子は湯飲みを見つめたまま、一瞬、返答を躊躇った。
その数秒の沈黙が、修一の胸を針のようにチクリと刺す。
「……体操、ですか?」
「ああ。身体を動かすのはいいことだし、朝の空気は美味いぞ。ほら、ずっと家に籠もっているのも体に悪いだろ」
良かれと思って口にした言葉だった。
智恵子は目を伏せ、小さく息を吸い込むと、静かに湯飲みを置いた。
「……分かりました。上着を着てきますね」
しぶしぶ、という重たい空気が、その細い背中にまとわりついていた。
公園への道すがら、修一は並んで歩こうと歩幅を緩めた。
だが、智恵子はなぜか半歩、常に修一の後ろを歩いた。
影が二つ、アスファルトの上に並ぶ。しかし、その影の指先が触れ合うことはない。
ラジオから流れる軽快なピアノの音に合わせて、腕を振り、背筋を伸ばす。
周囲の近隣住人たちが、「あら、滝沢さんご夫婦、仲がいいのねえ」と声をかけてきた。
修一は誇らしげに「ええ、定年になりましてね」と会釈した。
だが、隣の智恵子は、ただうつむいて微かに頷くだけだった。
帰り道、修一は努めて明るい声を作った。
「どうだ、気持ちいいもんだろう。明日からも日課にしようじゃないか」
「……お父さん」
智恵子が立ち止まった。
早朝の冷気の中、彼女の白い息が淡く揺れる。
「毎日は……ちょっと。私、朝は洗濯も干したいし、お仏壇のお水も替えなきゃいけないから」
「そんなの、帰ってきてからでいいじゃないか。時間はたっぷりあるんだぞ」
「私の……」
智恵子の声が、かすかに震えた。
「私の、ペースがあるの」
それ以上、智恵子は何も言わなかった。
修一は喉の奥が苦くなるのを感じながら、先を歩く妻の背中を追うしかなかった。
(何かが違う。こんなはずじゃないんだ)
会社に行かなくなって、ぽっかりと空いた二十四時間。
その空白を埋めるように、修一は必死で家の中に、妻のテリトリーの中に入り込もうとした。
智恵子が読書を始めれば隣に座ってテレビをつけ、智恵子がスーパーへ行こうとすれば「車を出すよ」と鍵を取った。
だが、そのたびに智恵子の表情から、生気が失われていくように見えた。
まるで、乾いた秋の風に吹かれて、色を失っていく青葉のように。
十月の終わりのある日。
修一は、リビングの掃き出し窓から見える小さな庭に目を留めた。
夏の名残の枯れ草が少し目立ち、土が黒々と露出している。
智恵子は昔から、草花を育てるのが好きだったはずだ。子育てに追われていた頃も、ベランダのプランターだけは絶やさなかった。
「智恵子、庭をやろう」
突然の提案に、智恵子は眉をひそめた。
「庭、ですか?」
「ああ。園芸店に行って、花をたくさん買ってこよう。俺が車を出すし、重い土も運ぶ。二人で庭を綺麗にしようじゃないか」
一緒に何かを成し遂げれば、あの祝宴の日のような笑顔が戻るかもしれない。
修一は半ば強引に智恵子を助手席に乗せ、郊外の大型園芸店へと車を走らせた。
広大な温室には、秋から冬を彩る花々が溢れていた。
修一はカートを押し、目についた色鮮やかな苗を次々と指さした。
「これなんかどうだ、智恵子。綺麗じゃないか」
「……ビオラね。丈夫でいいけれど」
「よし、買おう。何株いる? 三つ? いや、庭中を埋め尽くすくらいにしよう。十八株だな。おい、こっちの背の高いのもいいぞ」
「ストックよ、お父さん。そんなにたくさん……」
「十五株だ! 華やかになるぞ。おい、この菊も風情がある。小菊を一株、それに青いリンドウも一株もらおう。ペンタスってのも可愛いな、三株。桔梗も三株だ。あ、この紫のハーブは?」
「……レースラベンダー。でも、寒さに少し弱いから……」
「大丈夫だ、俺が毎日世話をする。これも三株だ!」
修一は無邪気に笑った。
金の心配など爪の垢ほどもない。店員を呼び止め、最高級の培養土と素焼きの鉢、肥料まで、思いつく限りの資材を買い漁った。
智恵子は、山のように積み上がっていく色とりどりの花苗を見つめながら、ただ硬い表情で唇を噛んでいた。
帰宅すると、修一は腕まくりをして庭へ出た。
「さあ、植えよう。智恵子、どこに何を植えればいいか指図してくれ。力仕事は全部俺がやるから」
「……あのね、お父さん。花には、間隔があるのよ。あんまりぎゅうぎゅうに植えると、根が張れなくて……」
「なに、土を深く掘って肥料を混ぜれば大丈夫だ。見栄えがいい方がいいだろ? 一面の花畑にするんだ」
修一は移植ごてを土に突き立て、ザクザクと力任せに掘り返した。
長年、組織の先頭に立ってプロジェクトを動かしてきた男の手際だった。効率よく、素早く、無駄なく。
智恵子が苗ポットを手に、おずおずと配置を考えている横から、修一はその苗を受け取り、次々と土の中へ押し込んでいった。
ビオラの黄色と紫が、黒い土の上に並ぶ。
ストックの淡いピンクと白が、その後ろに背比べのように立ち上がる。
小菊の深紅、リンドウの冴えた青、星の形をしたペンタス、楚々とした桔梗、そして繊細なレースラベンダーの銀葉が、風にそよいだ。
わずか二時間足らずで、寂しかった庭は見違えるように様変わりした。
色とりどりの花が咲き乱れ、まるで絵の具箱をひっくり返したかのような、あでやかな彩りで満たされていく。
「ふう……! やったな、智恵子!」
修一は額の汗を拭い、腰に手を当てて庭を見渡した。
「見ろよ。見事なもんだ。近所の人たちも驚くぞ。これでお前の庭も、町内で一番の自慢になる」
乾いた喉に、冷たい秋の風が心地よかった。
達成感があった。二人でひとつのものを作り上げたという実感が、修一の胸を温かく満たしていた。
「……智恵子?」
返事がない。
振り返ると、智恵子は庭の隅、空になった黒いポリポットの残骸の前に立ち尽くしていた。
軍手をはめた両手を胸の前で固く握りしめ、あでやかに咲き誇る花々を見つめている。
きれいなはずだった。
うれしいはずだった。
妻の喜ぶ顔が見たくて、精一杯汗を流したのだ。
なのに、夕暮れの斜光を浴びた智恵子の横顔は、今にも泣き出しそうなほど、寂しそうだった。
「……どうしたんだよ。気に入らなかったか?」
修一が歩み寄ると、智恵子の肩が微かに跳ねた。
彼女は花から視線を外さず、ぽつりと呟いた。
「……ここはね」
「え?」
「ここにはね、春になったら、私が植えた都忘れが咲くはずだったの」
修一の足が止まった。
「去年、お友達から一株だけ分けてもらってね。目立たない場所だけど、冬を越して、小さな紫の花が咲くのを……ずっと、楽しみに待っていたのよ」
智恵子の指先が、ストックとビオラが隙間なく敷き詰められた土を、力なく指した。
修一が豪快に掘り返し、大量の培養土をぶち撒けた場所だった。
「智恵子、それは……悪かった。知らなかったんだ。言ってくれれば……」
「言えなかったわよ」
智恵子の声は荒げることもなく、ただ静かで、冷たかった。
「お父さん、ぜんぶ自分で決めちゃうじゃない。私の話なんて、昔から半分も聞いてないわ」
「そんなことはない! 俺はお前を喜ばせようと――」
「喜ばせる?」
智恵子が、初めて修一の目をまっすぐに見上げた。
その瞳には、うっすらと涙が溜まっていた。
「私はね、お父さん。ひとりでお庭の枯れ葉を掃いて、芽が出るのをじっと待つ時間が好きだったの。朝、お父さんを送り出した後、静かなリビングでぬるくなったお茶を飲むのが、私の幸せだったのよ」
「……智恵子」
「退職してくださったのは、感謝してるわ。三十年以上、家族のために働いてくれたこと、本当にありがたいと思ってる。……でもね、急に私の生活の中に踏み込んできて、私の場所を全部塗り替えないで」
夕暮れの冷気が、二人の間に重く沈殿していく。
あでやかな花々が、夕闇の中で不自然なほど鮮やかに浮き上がっていた。
数え切れないほどのビオラも、誇らしげなストックも、すべてが妻の静寂を暴力的に奪い去った証拠のように見えた。
「濡れ落ち葉って、言うでしょう」
智恵子は、自嘲するように口元を歪めた。
「払っても払っても、足元にくっついて離れない……。私、お父さんのことが嫌いになったわけじゃないの。でもね、ずっと息が詰まりそうなのよ」
修一の手から、スコップが滑り落ち、カランと乾いた音を立てた。
二億円の資産がある。
悠々自適な老後が約束されている。
美味しいものを食べ、旅行に行き、笑い合って暮らすはずだった。
だが、そのすべては、修一が勝手に描いた独りよがりな青写真に過ぎなかったのだ。
妻が守り続けてきた小さな孤独と、ささやかな自由。
自分はそれを、「愛」という名の上から目線の善意で、土足で踏みにじっていた。
「……すまなかった」
修一の口から、掠れた声が漏れた。
企業戦士として、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた男の背中が、初めて小さく丸まった。
「すまなかった、智恵子。俺は……どうやってお前と過ごせばいいのか、分からなかったんだ。会社を失って、肩書を失って……お前に縋り付かなければ、自分がどこに立っているのかも、分からなかった」
風が吹き抜け、レースラベンダーの細い枝がカサカサと鳴った。
智恵子は何も言わず、ただ静かに視線を落とし、土にまみれた自分の軍手を見つめていた。
鮮やかな花々に囲まれた庭で、夫婦は言葉を失い、長い影を落として立ち尽くしていた。
埋めようとして踏み込むほどに、二人の距離は、果てしなく遠ざかっていくようだった。




