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『昆布だしと手巻き寿司』

十一月の初めの夕暮れは、釣瓶落としのように足早だった。路地裏の木造アパート百二号室。

修一は、真新しい二口のガス台の前に立ち、アルミの雪平鍋をじっと見つめていた。

水の中に浸しておいた一枚の昆布の端から、極小の泡がふつふつと立ち上り始めている。沸騰する直前、湯気が揺れた瞬間に菜箸でそっと引き上げる。黄金色に澄んだだし汁から、上品で芳醇な海の香りがふわりと立ち上った。「よし……いいぞ」小声で呟きながら、まな板に向き直る。

スーパーで買ってきたシャキシャキの水菜をざくざくと切り揃え、木綿豆腐は手のひらの上で慎重にさいの目に切った。カセットコンロの上に土鍋を据え、昆布だしを張り、切った具材を丁寧に並べる。

派手な肉も、贅沢な魚介も入っていない。昆布と水菜と豆腐だけの、至って質素な湯豆腐鍋だ。だが、今夜の主役はもう一つあった。炊きたての三合のご飯を大きめのボウルに移し、うちわで扇ぎながら合わせ酢を回し入れる。しゃもじを寝かせて切るように混ぜると、ツンとした心地よい酸味と米の甘い湯気が部屋いっぱいに広がった。

皿の上には、奮発して買ってきた刺身の盛り合わせ。艶やかなマグロの赤身、脂の乗ったサーモン、透き通るイカ、ぷりっとした白身。細く切ったきゅうりと、大葉、半分に切った焼き海苔を竹のざるに盛る。手巻き寿司と、湯豆腐。

男の一人暮らしの台所でできる、精一杯のもてなしだった。トントン。控えめなノックの音が、薄い玄関ドアを叩いた。

修一の心臓が、跳ねるように脈打つ。「は、はい! どうぞ、鍵は開いてるよ」小走りで玄関へ向かい、ドアを開けた。

外の冷気と一緒に立っていたのは、見慣れた淡いベージュのウールコートを着た智恵子だった。

手には、小さな紙袋を提げている。

その表情には、警戒と、戸惑いと、どこかぎこちない遠慮が張り付いていた。「……お邪魔します。本当に、ここで暮らしているのね」「ああ。狭いけれど、男の一人暮らしには手頃でさ。さあ、上がってくれ。靴、そこに適当に脱いでいいから」智恵子はそろそろと上がりかまちに足をかけ、靴を揃えて板の間に上がった。

八畳のフローリングを見回す。

折りたたみテーブルの上に置かれた土鍋と、手巻き寿司の具材。そして部屋の隅で、凛として咲き誇るあの一輪のカサブランカに、智恵子の目が止まった。「……カサブランカ」「ああ、スーパーの帰りに花屋で見かけてさ。綺麗だったから、一本だけ買ってみたんだ」修一は照れ隠しに頭を掻き、テーブルの座布団を勧めた。「座ってくれ。寒かったろ。すぐ鍋に火をつけるから」「ありがとう……。あ、これ。お茶菓子にと思って、駅前で買ってきたの」智恵子が差し出した紙袋を受け取る。指先が触れ合った瞬間、妻の手が驚くほど冷たくなっているのが分かった。「すまないな、気を遣わせちゃって。さあ、座って座って」カセットコンロに火を点けると、青い炎が土鍋の底を舐め始めた。

だし汁が微かに揺れ、昆布の香りが立ち上る。「手巻き寿司なんて……いつ以来かしら。子どもたちがまだ小学生だった頃、お誕生日によくやったわね」智恵子がぽつりと言った。その声はまだ少し硬い。「そうだな。あの頃は一郎も二郎も際限なく食うから、海苔が何帖あっても足りなかったもんな」「ええ。酢飯を大きな寿司桶にいっぱい作っても、あっという間に空っぽになって……」懐かしい記憶が、ふたりの間の冷たい空気を少しだけ和らげていく。「智恵子、先に鍋の豆腐を食ってみてくれ。昆布だけで取った出汁だけど、悪くないと思うんだ」修一は小鉢にすくい、ポン酢を少し垂らして妻の前に置いた。

智恵子は箸を取り、熱そうに湯気を立てる豆腐を口に運んだ。

ふうふうと息を吹きかけ、ゆっくりと咀嚼する。「……どうだ?」修一は、まるで入試の合格発表を待つ受験生のような心地で妻の顔を窺った。

智恵子は目を丸くし、それからふっと目尻を下げた。「……美味しい。お出汁、ちゃんと昆布から取ったのね」「ああ。沸騰する直前に引き上げるんだろ? 本で読んだんだ。水菜もシャキシャキしてるだろ」「ええ。水菜の歯ごたえがちょうどいいわ。お父さん、こんなことまでできるようになったのね」「まあな。一人暮らしを始めると、否が応でも覚えるよ。さ、ご飯が温かいうちに手巻きもいこう。海苔、これ使ってくれ」修一は焼き海苔を手渡し、自分も海苔を掌に乗せた。

しゃもじでほんの少し酢飯を広げ、大葉を敷き、イカときゅうりを乗せてくるりと巻く。醤油をちょんとつけて口に放り込むと、パリッとした海苔の香ばしさと、酢飯の塩梅が絶妙だった。「うん、美味い。自分で巻いて食うと、なんでこんなに美味いんだろうな」「ふふ、そうね」智恵子も真似をして、サーモンとアボカドを巻いて口に運んだ。

もぐもぐと味わいながら、小さく頷く。「酢飯の味付け、上手よ。甘すぎなくて、さっぱりしてる」「そうか? よかった……。実は昨日、一人で練習したんだよ。酢を入れすぎてむせ返っちゃってさ」「まあ、練習だなんて。お父さんらしいわね」智恵子の口から、自然な笑い声がこぼれた。

その笑顔を見た瞬間、修一の胸の奥で固く結ばれていた結び目が、ふうっと解けていくようだった。鍋の湯気が、ふたりの間を白く揺蕩う。

外では冬隣の冷たい風がカタカタとサッシを鳴らしていたが、この四畳半の空間だけは、小さな陽だまりのように温かかった。しばらく黙々と箸を動かし、お腹が落ち着いた頃。

智恵子がふと箸を置き、テーブルの真ん中で咲くカサブランカに視線を向けた。「……お父さん」「ん? 何だ、まだマグロ残ってるぞ」「ううん、もうお腹いっぱい。……あのね、謝らなきゃいけないと思って」智恵子は膝の上で両手を揃え、深く頭を下げた。「この前は……ひどいことを言いました。『濡れ落ち葉』だなんて、あんな言い方、していいはずがなかったのに。三十年以上、家族のために必死で働いてくれたお父さんに対して、あんまりでした」修一は息を呑んだ。

妻の細い肩が、微かに震えている。「いいんだ、智恵子。頭を上げてくれ」修一は静かに首を振った。「悪かったのは、俺のほうだ。俺はさ……退職して、会社という看板を失って、自分が何者でもなくなったような気がして怖かったんだよ。だから、お前が何十年もかけて守ってきた場所に、土足で踏み込んで、全部を自分の色に塗り替えようとした。俺のほうが、傲慢だったんだ」「お父さん……」「ここに来て、一人で飯を作って、一人で部屋を掃除して、やっと分かったよ。生活を作るっていうのは、誰かに従うことでも、誰かを従わせることでもないんだな。お前にはお前の時間と空間があって、俺には俺のそれが必要だった。ただ、それだけのことだったんだ」修一は立ち上がり、湯呑みに温かいほうじ茶を注いで智恵子の前に置いた。

香ばしい湯気がふたりの間に立ち上る。「だからさ、智恵子。元の家に戻ってくれとは言わないよ。お前はお前のペースで、あそこで暮らしてくれ。朝の静かなお茶も、都忘れの芽を待つ時間も、誰にも邪魔されずに楽しんでほしい」智恵子は湯呑みを両手で包み込み、じっとその茶面を見つめていた。

ぽた、と小さな雫が湯の中に落ちて、波紋を作った。「……私ね」

智恵子の声が、涙に濡れていた。

「お父さんが急に出て行ったとき、正直に言うと、少しほっとしたの。……でもね、翌朝、がらんとしたリビングでお茶を飲んだら、ちっとも美味しくなかった」「え……?」「静かすぎて……寒かったわ。お父さんの淹れる不器用なお茶のほうが、ずっと温かかったんじゃないかって。私、わがままよね。一緒にいれば息が詰まるなんて言っておきながら、いなくなったら寂しいなんて」智恵子は目元を指先でぬぐい、困ったように笑った。「だからね、今日ここに来るの、少し怖かったのよ。お父さんが、すっかり私を嫌いになって、もう二度と顔も見たくないって言われたらどうしようって」修一は胸の奥が熱くなり、思わず目を瞬かせた。「嫌いになるわけないだろ。四十年間、一緒に生きてきたんだぞ」「……そうね。四十年間、ですものね」智恵子は嬉しそうに微笑み、カサブランカをもう一度見つめた。「立派なお花ね。いい香り」「ああ。……今度はさ、春になったら、お前の庭の都忘れを見せてくれよ。俺は遠くから、邪魔しないように見るから」「ふふ、遠くからだなんて。お庭の草むしりくらいなら、手伝ってもらってもいいわよ? ただし、私の指示通りに抜くこと。それが条件です」「おいおい、手厳しいな。元部長のプライドが傷つくな」「ここでは元部長さんじゃなくて、ただの修一さんでしょう?」ふたりで顔を見合わせ、声を出して笑った。

三十年前にも、二十年前にもなかった、軽やかで、少し照れくさい笑い声だった。片付けを終え、智恵子がコートを羽織る。

玄関のドアを開けると、夜空には冬の始まりを告げる星が、鋭く澄み切って瞬いていた。「送っていくよ。十五分だろ」「いいえ、お父さん。私、一人で歩いて帰るわ。夜風に当たりたいの」智恵子は柔らかく首を振った。「また、来てもいい?」「ああ。いつでも来いよ。次は……そうだな、お好み焼きでも焼くか」「楽しみにしているわね。ごちそうさまでした、お父さん」智恵子は小さく手を振り、街灯の灯る夜道を歩き出した。

振り返った妻の足取りは、あの日、公園で自分の後ろを歩いていた時よりも、ずっと軽やかで、まっすぐだった。修一はドアを閉め、温もりの残る部屋に戻った。

水切り籠には、ふたつ並んだ茶碗と湯呑み。

そしてテーブルの真ん中では、カサブランカが清々しい香りを放っている。ひとりだけど、ひとりぼっちじゃない。

べったりとくっつき合わなくても、心はちゃんと繋がっていられる。「ごちそうさま、か……」修一は嬉しさを噛み締めながら、冷めかけたお茶を飲み干した。

乾いた落ち葉は、風に乗って軽やかに転がりながら、それぞれの大切な場所を見つけ始めていた。



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― 新着の感想 ―
良い雰囲気ですね。 ホンワカしてます ただ僕が修一なら、スーパーの半額寿司で済ませますが アハッ U^ェ^U
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