絶対零度、そして崩壊
翌朝。朝日はいつも通り、誰もいない学園の裏庭で時代遅れのフィジカルトレーニングに汗を流していた。
AIの健康管理システムに頼れば、こんな苦しい筋トレなどしなくても最適な筋肉量は維持できる。しかし、朝日は「自分の肉体は自分の意志で作る」という非合理的なルーティンを、入学以来一日も欠かしたことがなかった。
日課を終え、汗を拭いながら校舎へ戻ろうとした朝日は、正面エントランス付近が異様なほど騒がしいことに気がついた。
「おい、見ろよ……」
「信じられない。なんでプロリーグで活躍してる『彼女』が、わざわざうちの学園に……?」
生徒たちが遠巻きに道を開け、ざわめきながら視線を注ぐ先。
そこには、理事長と向き合って立つ一人の女生徒の姿があった。
艶やかな黒髪が腰まで伸び、透き通るような白い肌と、精巧なガラス細工のように整った顔立ち。
しかし、彼女の放つオーラはあまりにも冷たく、周囲の生徒たちを「背景」か「石ころ」のように見下しているような、絶対的な上位者の空気を纏っていた。
「……神崎さん。君のようなトップエリートが、我が校に何の用かね?」
理事長の問いかけに、彼女――神崎雪那は、感情の読めない冷ややかな瞳で答えた。
「単刀直入に申し上げます。この学園に在籍している『千堂朝日』という生徒を、私に引き合わせてください」
その名前が出た瞬間、エントランスの空気が凍りついた。
なぜ、誰もが知るトップエリートである神崎雪那が、昨日まで万年最下位の劣等生を探しているのか。
その静寂を破って、人混みを掻き分けて前に出た男がいた。
昨日の公開処刑でプライドをズタズタにされたはずの、桐谷だ。彼は雪那の姿を見るなり、どこか取り繕ったような、すがるような笑みを浮かべて歩み寄った。
「雪那……! うちの学園に何しに来たんだ! もしかして、昨日の俺の不調を聞いて、心配して慰めに来てくれたのか……!?」
まるで「自分たちには特別な関係がある」と周囲に誇示するかのような、必死の顔。
しかし、雪那は歩み寄る桐谷を一瞥もせず、氷のように冷たい声で言い放った。
「誰ですか、あなたは」
「……え?」
桐谷の顔から、笑みが消え去る。
「馴れ馴れしく私の名を呼ばないでください。不愉快です。それより、理事長。千堂朝日はどこに――」
「ま、待てよ雪那! 冗談だろ!? 中等部の頃、AIの合同プログラミング合宿で一緒の班だった桐谷だ! なあ、俺じゃなく劣等生なんかに用があるなんて、何かの間違いだろ!?」
桐谷は必死に食い下がる。昨日、全てを失いかけた彼のプライドにとって、この「超絶美人のエリートと自分は対等である」という過去の事実だけが、今の彼を支える最後の蜘蛛の糸だったのだ。
しかし、雪那の瞳は一切の揺らぎを見せなかった。
完全に視線を切り、まるで道端のゴミに話しかけるように、再び冷たく言い放つ。
「だから、誰ですかと聞いているのです。AIの記憶領域を漁る価値すら感じない、不要なデータですね」
「な、っ……」
「あなたのような無能が、朝日さんの名前を汚さないでください。彼を知っているのなら、今すぐ呼んできなさい。……それすらできないのなら、今すぐ消えなさい」
パリン、と。
桐谷の中で、かろうじて保たれていた最後のプライドが粉々に砕け散る音が、周囲の生徒たちの耳にも聞こえた気がした。
桐谷はその場に膝から崩れ落ち、虚ろな目で宙を見つめたまま動かなくなった。
完全な静寂が落ちたエントランス。
その重苦しい空気を切り裂くように、呑気な声が響いた。
「あー……その、千堂朝日なら俺だけど。俺になんか用?」
人混みを掻き分け、汗を拭うタオルを首にかけた朝日は、困ったように頭を掻きながら、神崎雪那の前に姿を現した。




