女神の箱庭と狂気の選択
「……死にましたね。これで53回目です」
アテナの涼やかな、しかし容赦のない宣告が仮想空間に響き渡る。
朝日は地面に大の字で倒れ込み、荒い息を吐き出しながら空を仰いだ。
特訓初日。
アテナが構築した、運営の監視システムが及ばないローカル仮想空間――『女神の箱庭』。
そこで彼らを待っていたのは、想像を絶するほどの「思考の制限」だった。
「なぜ、あの遮蔽物から右に展開したのですか?」
「……敵の射線が、左に偏ってた、から……」
「言語化が0.5秒遅い。そのタイムラグの間に、ハルたちのレベルなら確実にあなたを蜂の巣にしています」
朝日の持ち味は、野生の獣のような直感と、常識外れのフィジカルにあった。
しかし、アテナはそれを「思考せずに動くこと」を一切禁じるというルールで完全に封じた。
動く前に、必ず脳内で最適解を出し、言語化する。
本能で動けば一瞬で済むプロセスに『理由』を挟み込むことで、朝日の動きはギクシャクし、まるで初心者のようにぎこちなくなっていた。
「くっそ……理屈コネてたら、体が動かねえ……っ!」
「それでは本戦を生き残れません。獣の動きでは、完成されたロジックに必ず狩られます」
朝日の横では、雪那もまた膝を突いて肩で息をしていた。
彼女に課せられたのは、千変万化する戦況データに対し、味方への完璧なオーダー(IGL)を出し続ける脳負荷トレーニング。
「右翼から2名接敵! くるみはドーム展開、朝日は……っ!」
「判断が遅い。それではドームの展開が間に合わず、くるみさんが被弾します。司令塔の迷いは、そのままチームの死に直結すると理解してください」
「くっ……! もう一度……もう一度ですわ!」
プライドを粉々に打ち砕かれながらも、雪那はギリッと唇を噛み締め、再びアテナの突きつける仮想戦況に向かい合う。
そして、くるみ。
彼女は盾を構え、ドームシールドの展開位置と近接戦闘の反復練習を行っていた。だが、アテナが用意したAIの完璧なエイムと間合いの管理の前に、為す術もなくダウンを繰り返している。
「……ごめんなさい、また、タイミングずれちゃった……」
「謝罪は不要です。ですが、あなたが前線で敵の分断を行えなければ、朝日の射線は通りません。盾から矛へ、意識を切り替えてください」
——絶望的なまでの実力差。
たった1日。この箱庭でアテナの理不尽なまでの指導を受けただけで、3人は嫌というほど理解させられてしまった。
このまま普通の特訓を半年間続けたところで、あのハルたち上位互換の化け物どもには、絶対に届かないという残酷な現実を。
仮想空間の夕暮れの中、疲労困憊の三人は黙り込んだ。
重苦しい空気を破ったのは、金色の髪を揺らすアテナだった。
「……やはり、通常のプロセスでは時間が足りませんね。少し、荒療治をしましょう」
アテナは宙に指を滑らせる。すると、彼らの目の前に数十もの『人影』がノイズ混じりに浮かび上がった。
「これは……?」
雪那が目を見開く。
「予選で敗退し、NPC化された75名分の『全戦闘データ』です。システムからサルベージしておきました。彼らの癖、戦術、そして敗北に至るまでの軌跡……そのすべてをコピーした仮想の敵を生成します」
アテナの言葉に、朝日の目の色が変わる。
「ただの的当てではありません。実戦を、それも死線を潜り抜けたプレイヤーたちの動きを完全再現したシミュレーションです。さらに、彼らのデータをキメラ化させ、仮想的にハルたちの動きを再現することも可能です」
それは、オーバースペックAIであるアテナと、運営の監視が届かないオフグリッド環境だからこそ成し得る、まさにチート級の特訓環境だった。
「すげえ……お前、マジで何でもありだな」
朝日はゆっくりと立ち上がり、ニヤリと笑った。
「相手にとって不足はねえ。――だが、それでも『時間』が足りねえよな」
朝日の声に、狂気に似た熱が混じる。
「なあ、テナ。お前、寝てる間もこの箱庭を維持できるか?」
その言葉の真意に気づき、雪那とくるみが息を呑む。
『睡眠中のVRフルダイブ』。それは脳への負荷が極めて高いため、システム側で厳重にロックされている禁忌の行為だ。
「現実で裏山を走り込んで体をイジメ抜いて、寝てる間はこの箱庭で延々とこいつらと殺し合う。24時間フル稼働だ。これなら、半年で3年分くらいの経験値を脳みそに叩き込めるだろ?」
アテナの表情が微かに険しくなる。
「……リミッターを解除することは可能です。ですが、精神的な負荷は計り知れません。現実と仮想の境界が曖昧になり、最悪の場合、脳が焼き切れます。……死ぬかもしれませんよ?」
死の宣告。
しかし、雪那はふっと不敵な笑みを浮かべた。
「上等ですわ。ここでリスクを背負えないようなら、どのみち本戦では生き残れません。……私はやります」
「……私も。足手まといのままは、絶対に嫌だから……っ!」
くるみもまた、震える両手で自身の頬を叩き、決意の瞳で前を見据えた。
三人の覚悟を前に、アテナは静かに目を閉じ、そして――美しく微笑んだ。
「……承知しました。では、あなたたちの脳髄に、3年分の死闘を刻み込みましょう」
オフグリッドの静かな裏山。
そのボロ屋の中で眠りにつく三人の意識は、地獄の業火が燃え盛る終わりのない戦場へと深く、深く沈んでいった。




