オフグリッドの聖域と、星空の下の豚汁
深夜の激安スーパー。
3年間引きこもり、ついに貯金も底を突きかけた柊くるみの買い物カゴには、38円の『もやし』が一つだけ入っていた。
(……半額の、お肉……)
タイムセールのシールが貼られたパックに、震える手を伸ばそうとした瞬間。
横から伸びてきた大きな手と、くるみの手がパタリと重なってしまった。
「あっ、ひっ……ごめんなさい……!」
条件反射で頭を抱え、怯えて後ずさるくるみ。
しかし、恐る恐る顔を上げた彼女は、その人物の顔を見て息を呑んだ。
(……っ! この人、今日のお昼の大会配信で、無茶苦茶な動きをしてたあの前衛の人……!?)
「ん? わりぃ、俺も肉狙ってたんだが……」
朝日は怯えるくるみと、彼女のカゴの中にある「もやし」を見て、少しだけ眉をひそめた。その時、静かな店内にくるみの極限まで空いたお腹の音が「きゅるるるるぅ……っ」と盛大に鳴り響く。
くるみの顔がボンッと赤く染まる。
「……あのな」
朝日はため息をつくと、自分がカゴに入れていた大量の食材(大会の優勝賞金で買った少し良い肉や野菜)を軽く持ち上げて見せた。
「もやしだけじゃ腹は膨れねえし、生で食ったら腹壊すぞ。俺、今から家で自炊するんだけどさ。作りすぎても余るから、手伝ってくれないか。……もちろん、タダで」
「え……?」
見ず知らずの自分に対する、あまりにも唐突で不器用な提案。
普通なら警戒して逃げ出すところだが、くるみは画面越しに見た朝日の「絶対に味方を信じる背中」を思い出していた。それに何より、圧倒的な空腹には勝てなかった。
***
朝日の古いオフロードバイクの後ろに乗せられ、街の喧騒から遠く離れた山道を登ること数十分。
ネオンの光が完全に消え、深い森の匂いがくるみを包み込んだ時、朝日の耳元のデバイスが微かに鳴った。
『――都市部メインネットワークからの切断を確認。これより、アテナは完全ローカルモードへ移行します』
「おう。今日もご苦労さん、テナさん」
朝日の声に、くるみはハッとして自分のデバイスを確認した。圏外。AIのネットワークが一切届かない、完全な「オフグリッド」の領域。
(ネットが……繋がらない。誰も、私を見ていない……?)
到着したのは、山間にひっそりと建つ古い木造の一軒家だった。
「適当に座って待っててくれ。すぐ作るから」
朝日はそう言うと、家の裏山――二本の太い木の間に色褪せたハンモックが揺れる、少し開けた場所へとくるみを案内した。
都市部の光害に邪魔されないそこには、こぼれ落ちそうなほどの満天の星空が広がっていた。
くるみはハンモックの端にちょこんと座り、呆然とその星空を見上げた。過去のトラウマから、常にネットの悪意や他人の評価に怯えていた彼女にとって、この「誰のデータも届かない静寂」は、信じられないほど心地よかった。
パチパチと、小気味良い音が響く。
朝日は慣れた手つきで焚き火台に火を起こし、アウトドア用の鍋と飯盒を火にかけていた。
「ほら、食え。熱いから気をつけろよ」
渡されたのは、大根や豚肉がゴロゴロと入った熱々の『豚汁』と、火で炊き上げた少しお焦げのついた『白飯』だった。
AIが計算した完全栄養食とは対極にある、不便で、時代遅れで、けれど命の匂いがする食事。
くるみはおずおずと豚汁を一口すすり、次にご飯を口に運んだ。
「……あ」
途端に、くるみの大きな瞳からポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
「おいおい、そんなに熱かったか!?」
「ちが、ちがうんです……」
くるみは両手でお椀を包み込むように持ちながら、首を横に振った。
3年間、冷たくて暗い部屋で一人きりで震えていた。味方を守ろうとしただけなのに、世界中から否定された気がしていた。
でも今、彼女を包んでいるのは、パチパチと爆ぜる焚き火の音と、絶対的な星空。そして、目の前で美味そうに飯を食う、不器用で優しい少年の温もりだけだった。
「……あったかい、です。すっごく……おいしい、です」
涙と一緒にご飯を頬張るくるみを見て、朝日は少しだけ困ったように頭を掻いた。
「……そうかよ。なら、鍋にはまだたっぷりあるから、遠慮しないで全部食え」
AIの予測演算も、世間の心無いバッシングも届かない、朝日だけの絶対的な聖域。
そこは今夜、傷ついた一人の少女にとっての、世界で一番温かい居場所となったのだった。




