7話
姉のノエラが帰省した翌朝のこと。
朝、目を覚まして何気なく部屋のカーテンを開けた時だった。
窓の外、家の前の井戸端にノエラの姿が見えた。
ひとり、何やら考え込むような顔をして桶の水をぼんやり眺めている。
めずらしい。いつも太陽みたいに笑って嵐みたいに騒がしい姉が。
こんな静かな顔をしているなんて。
「姉さんおはよう」
「……あ。リード。おはよ」
振り向いた姉はいつもの笑顔に戻っていた。
けれどほんの一瞬。その前の考え込むような表情が妙に頭に残った。
あとから思えば——あの時、姉はもう気づいていたのだ。
昨日の食卓。「火とか出せるようになった?」という問いに俺が「ぼちぼち」と笑ってごまかしたあの一瞬。
言葉に詰まったあの間。ごまかすようなあの笑い方。
あれで姉は勘づいていた。弟は魔法がうまくいっていないんじゃないか、と。
その日の昼下がり。
「リード。ちょっと付き合いなさい」
ノエラが俺の腕を引いて家の裏手の山にある、ひらけた草地まで連れていった。
昔姉とよく親に黙って遊びに来ていたふたりだけの場所だ。
「ね、姉さん? どうしたの急に」
「いいからいいから」
草地の真ん中まで来るとノエラはくるりと振り返って腰に手を当てた。
にっといたずらっぽく笑う。
「リード。あんた正直に言いなさい。学校の魔法ぜんっぜんうまくいってないでしょ」
……ぎくりとした。
「な、なんで」
「お姉ちゃんをなめないでよ。あんたの顔見てればわかるの。昨日の『ぼちぼち』あれ、絶対ウソでしょ。リードはウソつくとき笑いながら目が泳ぐの。赤ちゃんの頃からぜーんぶ、お見通しなんだから」
うっ。
言い当てられてぐうの音も出ない。さすが姉だ。何年俺の姉をやっていると思っているんだ。
「……ごめん。心配かけたくなくて」
「ばーか」
ノエラはこつんと俺の額を指で弾いた。
「そういうのを心配かけるって言うの。隠されるほうがよっぽど心配なんだから」
その顔は怒っているようでけれど、どこか優しかった。
「ようし。それじゃお姉ちゃんが特訓してあげる」
ノエラは腕まくりをして張り切った。
「あたしこれでも学院じゃ結構いいとこいってるんだから。任せなさい! まずは基本の火から。いいリード見ててね」
そう言って姉はすっと手のひらを前に出した。
「——イグニス」
ぼっ、と。
姉の手のひらに炎が灯った。
いや、灯ったなんてものじゃない。学校でクラスのみんなが出していた豆粒みたいな火とはまるで違う。こぶし大の力強い炎がごうっと勢いよく燃え上がったのだ。
「うわっ、すごっ……!」
「ふふん。どう? これでも火は専門じゃないんだけどね」
姉は得意げに胸を張った。
火は専門じゃない。つまり姉の本領は闇属性。
それでいて専門外の火をここまで操る。
あらためて思い知らされる。やっぱり姉は——すごい。
万人にひとりの天才というのは伊達じゃない。
「ねえ姉さん、闇魔法も見せてよ」
「闇? いいよ。まだ初級のほんのさわりだけどね」
ノエラはすっと目を閉じた。そして低く唱える。
「——ウンブラ」
姉の足元からすうっと。
影が生き物みたいに立ち上がった。
黒いもやのような影が姉の手のひらの上でゆらゆらと形を変えながら漂っている。
……闇属性。三年かけてようやく初級の基礎が身につくというあの難物。
けれど姉は専門の魔法学院でその闇属性をみっちり鍛えている。
普通の子が三年かけるところを、才能と努力でこうして形にしてみせる。
それがどれほどすごいことか。
「すごいよ姉さん!やっぱり姉さんはすごい」
「えへへ。まあね」
照れ隠しに姉は頭をかいた。
けれどその目は本当に嬉しそうだった。
好きなことを認められるのが誇らしいのだろう。
その横顔を見ていたら俺までなんだか誇らしくなった。
俺の姉はこんなにすごいんだ。
「さ、次はリードの番。やってみて」
ノエラに促されて俺は手のひらを前に出した。
姉の前で無様なところは見せたくない。
けれど——こればかりはどうしようもない。
「……イグニス」
ぽ……。
指先にちりっと。火花がわずかに散ってすぐに消えた。
しん、と。
草地に静寂が落ちた。
……ああ。やっぱり。姉さんに見られてしまった。
クラスでいちばん魔法ができないこの情けない姿を。
俺はうつむいた。
「……ごめん。ぼくほんとにぜんぜんだめなんだ」
顔を上げられなかった。
火も、水も、風も、土も。みんなが当たり前に使えるものが俺だけひとつも使えない。
最強の魔法をもらったはずなのに。情けなくて、姉の顔が見られなかった。
——でも。
「……リード」
姉の声は責めるでも笑うでもなくただ優しかった。
顔を上げるとノエラは、俺の正面に回り込んで少しかがんで顔を覗き込みにっと笑っていた。
「だーいじょうぶ!」
明るいその一言がぽんと、胸に放り込まれた。
「あのねリード。最初からなんでもできる子なんていないの。あたしだって最初は火ひとつ出すのに何日もかかったんだから」
火くらいたいていの子はすぐに出せる。
きっと姉もそうだったはずだ。
それでも弟を励まそうとそんなふうに言ってくれる。
その気持ちが今はあたたかかった。
内心姉が何を思っているのかは分からない。
本当は引っかかっているのかもしれない。
火も水も使えないなんておかしいと。
だって姉は魔法を誰よりも知っているのだから。
でも姉はそれを表にも出さなかった。
ただまっすぐに弟を励ましてくれた。
「決めた!お姉ちゃんが特訓つけてあげる!あたしが帰ってくるたびにこうやって一緒に練習しよ。ね?」
「……いいの?姉さんせっかくのお休みなのに」
「いいのいいの!可愛い弟のためだもん。それに——」
ノエラはにやりと笑った。
「あたしが教えればどんなドジでも魔法くらいすぐ使えるようになるって。お姉ちゃんを信じなさい!」
その根拠のない自信が。そのまっすぐな優しさが。
じわっと胸に染みた。
「……うん。ありがとう姉さん」
「よーし決まり!じゃさっそくもう一回!今度はお腹の底から魔力を込めるイメージでね!」
「う、うん」
その日俺たちは日が暮れるまで草地で特訓をした。
結局その日も火はまともに出なかった。
火花がちりちり散るばかり。
でも不思議と——つらくはなかった。
隣で姉がずっと一緒にいてくれたから。
「おしい!」「今のはいい感じ!」と出てもいない火を大げさに褒めてくれたから。
夕焼けの草地で姉と二人何度も手をかざした。
……魔法はできないままだったけど。
その日のことを俺はずっと忘れないだろうと思った。
数日後。
ノエラがまた学院へ戻る日が来た。
玄関先で姉は大きな荷物を背負いながら俺の頭をわしゃわしゃと撫でた。
耳元で両親に聞こえないように。
「リード。約束忘れないでよ。次帰ってきたらまた特訓だからね」
「うん。待ってる」
「特訓さぼってたらめっだからね。お姉ちゃんすぐ見抜くんだから」
「わかってるって」
けらけらと笑って姉は手を振った。
「じゃ行ってきます! 父さん母さんリード元気でね!」
馬車に乗り込んだ姉が見えなくなるまで俺は手を振り続けた。
……行ってらっしゃい姉さん。
次に会えるのがもう待ち遠しい。
魔法は相変わらず出ないけれど。
でも姉が一緒に頑張ろうと言ってくれた。
それだけでなんだか心強かった。
次に姉さんが帰ってくるまでに少しでも上手になっておこう。
そうして姉さんをあっと驚かせてやるんだ。
——そんなささやかな目標を胸に。
俺は姉の消えた道の先をいつまでも眺めていた。




