4話
月日が経つのは早いものだ。
気づけば俺ことアーデン・リードは六歳になっていた。
赤ん坊だったあの頃からあっという間。とはいえ、その六年間色々あった。
色々ありすぎた。中身おっさんの自我を持ったままゼロから人間をやり直すというのは思っていた以上に波乱万丈だったのだ。
せっかくなので振り返ってみよう。
まず、ハイハイ。
これが想像以上に難しかった。
頭では「手と足を交互に出せばいい」と分かっているのに、体がまるで言うことを聞かない。何度も顔から床に突っ込んだ。
中身四十三歳が、リビングの床でうんうん唸りながらハイハイの練習をする。字面だけ見れば地獄である。
次につかまり立ち。
これも苦労した。ようやく立てたと思っても、すぐにぺたんと尻もちをつく。
だが、初めて自分の足で立てた時のあの目線の高さの変化は、ちょっとした感動だった。世界がこんなに違って見えるのか、と。
そして、初めての言葉。
記念すべき第二の人生の第一声。両親も、姉のノエラも、固唾を呑んで見守る中、俺が放った最初の言葉は…
「……まんま」だった。
いや、違うんだ。本当はもっと気の利いたことを言いたかった。
だが、この未発達な口ではそれが限界だったのだ。結果、母乳と離乳食をこよなく愛する、食いしん坊な赤ん坊、という評価が確定した。
まあ、間違ってはいない。
「リードの初めての言葉、『まんま』だったわね」
母のフィーナは、それはもう嬉しそうに、事あるごとにこの話をする。やめてくれ。
中身四十三歳の初めての言葉が「まんま」って。墓まで持っていきたい黒歴史だ。
そこから先の数年は、まあ、いろいろあった。
まず、歩けるようになった俺は調子に乗った。二本の足で立てる。歩ける。それが嬉しくて、つい、小走りをしようとして盛大にすっ転んだ。
中身は大人のつもりなのに、体はまるで言うことを聞かない。頭でっかちな幼児の体は、すぐ前のめりに倒れる。
家じゅう転んでは泣き、転んでは泣き。膝小僧の擦り傷が絶えなかった。
言葉も覚えた。覚えたのだがこれがもどかしい。頭の中では言いたいことがきちんと並んでいる。
なのに、いざ口にしようとすると、「あう」とか「だー」しか出ない。母に「ありがとう、いつもおいしいごはんを」と言いたいのに、出てくるのは「まんま!」。
舌が絶望的に回らない。生まれてこのかた、こんなに自分の口に裏切られたことはない。
そして、最大の山場が——おむつの卒業である。
これには俺の尊厳が真っ向から試された。いい歳をして用を足すたびに、母の世話になる。
この羞恥たるや、筆舌に尽くしがたい。一刻も早く卒業せねば、と固く決意した。
決意したのだがこれがまた体が伴わない。「今だ」と思った時にはたいてい手遅れ。
何度悔し涙を流したことか。あの時の精神的苦闘を母は、知る由もないだろう。
昼寝も難敵だった。中身は大人だから昼間っから眠くなんてない。
なのに、毎日決まった時間に布団に寝かされる。眠くないものは眠くないと抵抗を試みるも、気づけばすやすやと寝落ちしている。
赤ん坊の体は本人の意思をいとも簡単にねじ伏せてくるのだ。理性は本能に勝てなかった。
……まあ、こうして振り返ると。
苦労ばかりのようだが悪い思い出ではない。
転んで泣けば母が飛んできて抱き上げてくれた。おむつが取れた日には家族みんなで大喜びしてくれた。
なんてことのない幼い日々。けれどその一日一日があたたかかった。
言葉を覚えるにつれて俺は、この世界のことが少しずつ分かってきた。
夜、寝る前に。父のボルドがぽつぽつと話してくれる世界の話。
俺たちが暮らしているのはルミナ王国という国らしい。
そして、この大陸にはルミナのほかにも国がある。ヴァルド王国、グラン王国、セレス王国、マリナ王国。人間の国が全部で五つ。
そして、もうひとつ。
人類五王国の方。そこには魔王が統べる国があった。
その名を『ノクス帝国』。
魔物を率いる魔王の国。人間にとっての最大の脅威。
人々は、畏怖を込めてその国をこう呼んでいた。
『魔王国』と。
「それからな」と父は続ける。「西の果てには、エルフたちの暮らす深い森があるそうだ」
エルフ。人間とは違う長い耳を持つ種族。森の奥深くで人間とも魔族とも距離を置き、ひっそりと暮らしているのだという。
めったに人前には姿を現さないが、魔法の扱いにかけては、人間など足元にも及ばないほどの達人ぞろいらしい。
なるほど。人間、魔族、エルフ。この世界にはいろいろな勢力がひしめいているわけだ。
「昔はな」と、父は言う。「人間の大陸は、ひとつの国だったんだ」
三百年以上も前。人間たちの大陸はひとつの大きな国にまとまっていた。けれど、内乱が起きた。
国は五つにばらばらに割れた。そして今に至るまで、五つの国は「大陸の統一」を掲げて争い続けている。自分こそが再び大陸をひとつにする者だと。
「……ばかな話さ」と父はため息混じりに続けた。
なぜなら、その間にも北のノクス帝国は虎視眈々と人間の国を狙っているからだ。
五つの国が争っている隙に魔物たちはじわじわと攻め込んでくる。
「五つの国が手を組んで、魔王国に立ち向かえば勝ち目だってあるだろうに。なのに人間同士で潰し合っている。おかげでどこも魔王国を抑えるので手一杯さ」
統一すれば魔王国に集中できる。けれど、その統一が三百年経ってもできない。互いに譲らないから。
なるほど、と思った。
ずいぶんと物騒な世界に生まれたものだ。前世は少なくとも戦争のない国で生きていた。
それが今度は、五つの国と魔王国がにらみ合う世界。第二の人生、なかなかハードモードである。
……まあ、俺には最強の魔法がある。はずだ。
だから、まあなんとかなるだろう。きっと。
完璧に歩けるようになると、俺の世界は一気に広がった。
我が家は村のはずれにある農家だ。
広い畑と鶏小屋とこぢんまりとした家。父は朝から畑に出て、母は家の仕事と鶏の世話をする。のどかであたたかい、いい家だ。
俺は毎日農場を探検した。畑の中にできた細い通路を歩き、鶏を追いかけ、時には用水路に落ちかけて母に血相を変えて怒られた。
中身はおっさんなのに体は幼児。好奇心と体のスペックがまるで噛み合わない。何度もひやりとした。
そして、その探検にはたいてい姉が付いてきた。
いや、正確には姉に連れ回された。
アーデン・ノエラ。今年で九歳。
あの羽でこちょこちょしてきた三歳児はすっかり活発な女の子に育っていた。
いや、活発なんてものじゃない。元気が有り余っている。木に登り、川で魚を捕り、村じゅうを駆け回る。
そんな姉に俺は、毎日のように引っ張り回された。
「リード、こっち! あっちに、でっかい虫がいたの!」
「見せたげる! ほら、早く早く!」
……虫は、いい。虫は、見たくない。
だが、姉はお構いなしだ。俺の手を引いてずんずん進んでいく。
中身おっさんの俺は内心で悲鳴を上げながら、姉の冒険に付き合わされるのだった。
でも——まあ、嫌いじゃない。
ノエラはいつだって太陽みたいに笑う。その笑顔を見ているとなんだかこっちまで元気が出てくる。
前世では味わったことのない感覚だ。姉がいるというのは、こんなににぎやかであたたかいものなのか。
村には俺と同じくらいの年の子どもたちも何人かいた。
その子たちと遊ぶ中で俺は、この世界の「魔法」のことを肌で知っていった。
この世界での魔法はごくありふれたものだ。火、風、水、土、闇、光。それに無属性。全部で七つの属性がある。
子どもたちは十歳になるまでに家庭や学校でいろいろな属性の初級魔法を習う。
指先にぽっと小さな火を灯したり。手のひらにちょろちょろと水を出したり。そよ風を起こしてみたり。
基本的な初級魔法ならたいていの人間がある程度は使えるようになるらしい。
実際、村の子どもたちは得意げにそれを見せ合っていた。
「見て見て火出せるよ!」
「俺なんか、水だって出せるぞ!」
ちいさな手のひらにぽつりと灯る火。きらきらとこぼれる水。
子どもたちにとってはちょっとした自慢の種だ。
……正直俺も、やってみたくてうずうずした。
最強の魔法を、神様にもらった身だ。きっと村の子どもたちなんて目じゃないくらいすごい魔法が使えるに違いない。今すぐにでも試してみたい。
だが——ぐっとこらえた。
まだだ。まだその時じゃない。
なぜならこの世界には、ちゃんとした「手順」があるからだ。
その手順というのが——『鑑定の儀』だ。
この世界では十歳になると誰もが『鑑定の儀』という儀式を受ける。前世で言う成人式のようなものだろうか。
鑑定の儀では三つのことが分かる。
ひとつ、魔法属性。自分がどの属性に適性を持つのか。
ふたつ、魔力量。自分の中にどれだけの魔力が眠っているのか。
みっつ、魔法適性。どれだけ魔法の才能があるのか。
子どもたちは十歳になるまでにいろいろな属性をかじってみる。そして鑑定の儀で自分がどの属性に一番向いているのかがはっきりと判明する。
ちなみに、この「かじってみる」というのは、各家庭で適当にというわけではない。ちゃんとした制度がある。
子どもは七歳になると、『魔法学校』に入る。そこで三年間、七つの属性の初級魔法をひと通り学ぶ。火を出し、水を操り、風を起こし——基礎の基礎を叩き込まれるのだ。
そして十歳。魔法学校を卒業すると同時に鑑定の儀を受ける。
鑑定で属性が決まったら次は、その属性に特化した『魔法学院』へ進む。
そこで一年間自分の専門属性をみっちりと磨き上げる。
ただし。
学院を卒業したからといってそれで一人前というわけではないらしい。
学院で学べるのはあくまで土台まで。
一年やそこらで魔法を極められるわけがない。学院を出てからが本当のスタートなのだという。
なお——魔法学院まではいわば義務教育だ。誰であろうと必ず通わなければならない。農家の子だろうと、貴族の子だろうと、例外はない。
「リードも来年は魔法学校に入学よ」
母のフィーナがにこにことそう言った。
そうか。俺ももうそんな年なのか。来年には魔法学校。なんだか感慨深いものがある。中身は四十三歳。いや、もう五十近いはずなのにぴかぴかの新一年生だ。
ちなみに鑑定で属性が決まった後の道は人によってさまざまだ。
その属性を生涯かけて極めようとする者は冒険者になる。
魔物と戦い実戦を積みながら己の魔法をどこまでも高みへと鍛え上げていく。
一方で、そこまで魔法に打ち込まず別の道を選ぶ者も多い。
鍛冶屋、商人、農家。学院で習った魔法を日々の暮らしや仕事に役立てながら、それぞれの人生を歩んでいく。父や母もきっとこちらだろう。
魔法を極めるのも、ほどほどにするのも、本人次第。どちらが偉いということもない。
ただ、ひとつ言えるのは——他の属性の初級魔法も使えるには使えるが、威力も効率も自分の専門属性には遠く及ばないということだ。
だからどの道に進むにせよ、人は皆、鑑定で決まった「自分の属性」と一生付き合っていくことになる。
つまり——鑑定の儀を受けて初めて自分という人間の「本当の力」が分かるわけだ。
だから、俺は待つことにした。
神様にもらった最強の魔法。それがどれほどのものか。
鑑定の儀できっと明らかになる。きっと村じゅうが、いや、国じゅうがひっくり返るような結果が出るに違いない。火だの水だの出して喜んでいる子どもたちをあっと言わせてやる。
その日を楽しみに待とう。
……ちなみに。
姉のノエラは来年十歳になる。つまり、来年が姉の鑑定の儀だ。
ノエラはそれはもう鑑定の儀を心待ちにしていた。
「あたしね、鑑定の儀が終わったら冒険者になるんだ!」
ある日、畑のあぜ道で姉は目を輝かせて言った。
「世界中を旅して、いろんな魔物をやっつけて、すっごい冒険者になるの! それでね、いつか、五つの国も北の魔王国も西のエルフの森もぜーんぶこの目で見て回るんだ!」
九歳の姉が夢を語る。その横顔は本当にきらきらしていた。
冒険者か。
危ない仕事だと、率直に思う。魔物がいて戦争もあるこの世界で。冒険者なんて命がいくつあっても足りないだろう。
でも——その夢を語る姉の顔があんまりにも嬉しそうで。俺は何も言えなかった。
「リードもおっきくなったら一緒に冒険しようね!」
……ああ。
そうだな。いつか、一緒に。
その時は俺の最強の魔法で、姉さんのこと守ってやるよ。
六歳の俺はそんなことをのんきに考えていた。
鑑定の儀まであと四年。
その四年があっという間に過ぎていくことをこの時の俺はまだ知らない。




